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第11章 Go deireadh mo shlí 〜我が道の終わりまで〜
イリカ港において、琺夜の王とシノアの女王が手を結んだ日から、二月後。 実月の琺夜。シェオ・フローリィ宮。王の執務室。 スノゥリィ家の長男にして後見人である青磁――シエリスタ名マルヴェ=ペリード・クリスタロスは、気分が良くなかった。 一つの原因は、この季節だ。 医者どもは、健康診断の度に彼のまるまると太った体を眺め回しては、熱中症で倒れる者の七割が肥満体質だとか、糖尿病になったら数々の恐ろしい合併症に苛まれるとか、要らぬ説教をしてくれる。 今年はガシュクジュール盆地を襲った長雨の影響で、小麦や豆の生産量が落ち込み、更に収穫前の葡萄が時季遅れの夏の嵐に遭い、王家よりも遥かに金持ちな貴族達から財政援助の嘆願書が舞い込んでいる。 青磁は汗を拭う為に時折手を止めながら、断り状を書き続けていた。 (・・暑い) 面白くないことは、まだあった。 琺夜六将の中で唯一味方だったバルダザール=ロッシが炎天下で脳溢血になり、残る将軍達は、若くて健康だ。しかもそいつらは皆、冷酷な王を愛している。 王が軍を完全に掌握し、もはや疑いようのない脅威となっているにも拘らず、貴族どもは琅珂の愛くるしい笑顔に騙されて、あれを癇癪持ちの愛玩動物だと思い込んでいる。下手に毛を逆撫でない限り、幼い豹など仔猫も同じだと。 (何人喉を喰いちぎられても、馬鹿は減らないものだ) 忌々しくも予想通り、無事にシノアから凱旋した弟は、かの国の女王を気に入ったらしい。 舞踏会に彼女を連れ回し、足を踏まれてばかりいる。 昨夜などは、「次の戦地に同行しては?」という誰かの冗談を真に受けて、その場で彼女を将軍に任命してしまった。勿論、そいつが言ったのは、「それほど気に入ったなら寵姫にしてはどうだ?」という意味だったのだが。 王の発言は、常に法的効力を持つ。 王が公衆の面前で“Parce que tel est notre bon plaisir”と言った以上、それは勅令だ。 まだ言葉も良く分からず、困った顔で首を傾げた可憐な女王を見て、出席していた貴族達は腹を抱えて笑い転げた。 シノア遠征に従軍した者達は、彼女が単騎でユーン家の五男坊を負かしたと言い張っている。多くの者達が全くのデマと信じているその噂を思い出した青磁は、とても愉快な気分にはなれなかったが。 呑気な貴族達は、女王がいつ涙ながらに実家に帰りたいと言い出すか、賭けをしている。何が「折からの凶作で麦一粒の蓄えすらなく」だ。忌々しい。 ばきっ。 王は心持ち仏頂面で机に向かい、両手に持ったペンを忙しく動かしている。 遠視用の眼鏡をかけているせいで、吊り上がった目が大きく見える。 「違う、管の直径は統一しろと言った筈だ。これではすぐに詰まってしまうではないか・・また害虫か!ただでさえ嵐が・・くそ、断熱材の幅も記入がない」 机の右側には都市整備計画の一環である水道工事の企画書。左側には王領地で栽培している葡萄の生育状況報告書。 小声で愚痴を零しながら、両手で違う文字を書き込んでいる。 見たところ、仕事は正確だ。が、必要もないのに心境を口に出しているのは、かなり苛ついている証拠だ。 何度目かの、ばきっ、という音と、悪態をつく声。「八つ裂きにしてやる」とかいう不穏な呟きも聞こえた。 インク瓶の横には、折れたペン先が十数個ばかり転がっている。 自分も気が立っている青磁は、唇を引き結んで黙々と仕事を続けた。 王の機嫌が悪いのは、先程もう一人の弟、農務卿を務める萌芽がやって来て、不愉快な嘆願書の束と一緒に余計な物を持って来たせいだ。 先日出版されたという、どう見ても幼児向けの赤表紙本と、菫の花を模った繊細な飴細工。ご丁寧に小さな花瓶に入れて、王の鼻先に置いて行った。 シノアから連れ帰って来た姫のことを当て擦っているのだ。 王家の三男萌芽、またの名をフルリールは、琺夜が世界に誇る芸術家だが、人を虚仮にすることに関してもその才能を遺憾なく発揮する。挙句、王が爆発する前にさっさと逃げてしまった。 「八つ当たりはこちらの兄さんにしたまえ」などと要らぬ一言を残して。 「兄上」 青磁は書き上げた手紙に紐を巻いて封蝋を垂らしながら、ちらりと目を上げた。 王が眼鏡を外し、遠くを見ながら瞬きをしている。 「・・終わったのか?」 「緊急を要するものはな。・・喉が渇いたろう。休まないか?」 涼しい顔をした王に、弛んだ腹の皺に添ってぐっしょりと濡れている上着を指差され、青磁は嫌な顔をする。 「茶でも飲もうか・・・・・ルイスはどうした?」 いつも扉の外に控え、お呼びとあればぱっと顔を出す小姓が、今日は5秒待っても姿を見せない。 由々しき怠慢だと眉を顰める兄に、弟は馬鹿にした目を向けた。 「一時間も前に啜り泣きが聞こえたろう。俺達が殺し合いを始めると思って、逃げたらしい」 「なるほど・・萌芽が来てから三十分も耐えたか。責める訳にはいかんな」 「ちょうどいい。話がある。・・ヴァームリットの春摘みとハイロゥの夏摘み、どちらがいい?」 王は、ぴょいと椅子から飛び降りて踏み台に登り、サイドボードから茶葉入れとポットを出している。呼び鈴に手を伸ばしかけた青磁は、目を見張った。 「陛下が淹れて下さるのか?一体何事だ?」 「俺が飲みたい。ついでに――とでも言えばまだ可愛いかな?」 「・・それを言わなければな」 やたらと殺気立っていたのは、使用人を遠ざける為の演技だったらしい。 何かしら無理難題を押し付けようとする意図を読み取った青磁は、どっしりと椅子に凭れて、胸に張り付いた上着を引っ張った。 「・・ハイロゥだ。冷たいものがいい。氷をたっぷりと」 「了解」 しばらくして、暖炉の横に置かれた湯沸かし器の上でポットが蒸気を噴き出す頃、杯にからからと氷が落ちる音が聞こえてきた。 「・・・・」 当てが外れた青磁は、右手で両目を覆う。 一体全体、この部屋のどこに氷があったのだ?こいつと一緒にいるといつも奇妙なことが・・いや、考えるのは止めよう。 「悪くない・・な」 手渡された杯に口をつけた青磁は、一息ついてそう言った。 疑惑の冷茶だが、うまいことは間違いない。 王は杯を傾け、からりと氷を鳴らした。 「セルズ人は嫌うがな。クレオナントは、茶に氷を入れるのは邪道だと言う。氷を出す能力者を部下にして、夏にシャーベットばかり食っている癖に」 「愚かなことだ。奴らは然るべき贅沢というものをまるで分かっておらん」 「然るべき贅沢。問題はまさにそれだ。今兄上の手元にある嘆願書。各拝領自治区に対し、財政支援を検討したい」 青磁は片方の眉を上げた。 なるほど。この茶は、一時間半の仕事を全てふいにする詫びということか。 「・・愛らしい菫の花が社交の園で踏み潰されぬよう、貴族どもの機嫌を取るつもりか?」 シノアの姫のことを言ってみたが、王はちょっと口の端を上げただけだった。 「会計簿が見たい。特に、公爵達が従えている陪臣達の授封地、まさに此度の援助対象となる土地の財政収支を把握したいのだ。そろそろ国家が地方行政を監督統制すべきだと思っていたところでな」 確かに、現在の琺夜支配圏における地方行政には、問題がある。 地代は収穫の一割と決まっているが、国と大貴族と地方領主とが何重にも税をかけ、最もひどい地では、農民から総収量の六割も取り上げている。 単純に税率を比較すれば、最近王に忠誠を誓った国より、古くから琺夜に属する民の方が、重い負担を強いられているのが現状だ。 それに重なり、今年の不作。国庫には金がないのに、民の怒りは国に向けられている。 これを機に、貴族達に金の使い方を報告させ、ゆくゆくはそれを恒例化して自治権を狭めていこうということか。 「すばらしいではないか。お前が、そんな考え方をするようになるとは」 青磁はこの策に気づかなかった自分に腹を立てたが、顔ではにやりと笑って見せた。 三年前、先王の長男を嫌う貴族達に担ぎ出され、無理矢理王冠を被せられた弟。 この子供に国の動かし方を教えたのは、自分だ。無能な人形を玉座に据えて国を牛耳ろうとした公爵どもの企みは、見事に挫いてやった。 だが、青磁は甚だ面白くなかった。 今まで、弟が『不慮の事故死』を遂げてくれそうな機会は決して見過ごさなかったものの、悉く芳しい結果は得られなかった。琺夜を導く王笏は、しっかり琅珂の手に握られている。国家は最も不安定な時期を乗り切ったが、自分がその笏を握る望みは、ほとんどなくなってしまった。 「・・貴族共が帳簿の提出を拒むか、書類を偽る可能性もあるが」 負け惜しみに言ってみると、王は、これ以上ないほど愛らしい笑顔を作った。 「その口で言ったろう。確かに、あまりジァヴを苛めて欲しくはない。公爵どもは裏を勘繰るだろうが、結局は俺が彼女を守る為に買収に出たのだと判断するだろうよ。俺は、賢くて品のいい兄上と違って、凶暴でかわいい獣に過ぎぬらしいからな」 そして、すぐに真顔に戻る。 「会計関係書の提出を拒否すれば、金を出さない。書類の改竄が発覚すれば、逆に罰金を取り立てる。大封主の指示によって地方が更なる困窮に陥れば、それに付け込んで忠誠の対象を挿げ替えることも可能であろう」 「ふん・・その博打を打つ為の金は、シノアの鉱山が提供してくれる。王家に損はない、か。見事だ」 大貴族に従属している陪臣層に臣従を誓わせ、国王の直臣へと変えることも視野に入れているということか。 青磁は、後悔と満足の板挟みになりながら、一息に杯を呷った。 本当に小賢しい王になった。自分の教育の賜物だ。 琺夜を領らし召す破壊神は、王にその力を向けるより、彼と手を組んだ方が楽しいと思っているらしい。 「・・分かった。お前がシノアの姫に現を抜かす馬鹿者だという噂を更に広め、既得権に胡坐をかいた公爵どもを言い包めるのが私の仕事だな?」 「頼めるか?アッシュダーク卿やユーン家のクレイ・ジールは強敵だが」 青磁は、せせら笑った。 「私を舐めるな。次の国王議会で貴族どもの反対票が過半数を上回ることは決してない」 「では、任せた。期待している」 王はしばらく休憩すると決めたらしく、萌芽が置いて行った菫を口に放り込んで、薄っぺらい本を手に取った。 ぱらぱらとページを捲る途中、がりっと飴が砕ける音がした。 あっという間に見返しまで辿り着き、呟く。 「どいつもこいつも・・」 背表紙のタイトルは、『菫の佳人』。 青磁は、ようやくちょっと楽しくなった。 「問題があるか?政治的喧伝としては、三流だ。むしろお前の恋の噂を広める役に立つだろう。犠牲者が強過ぎて、悲劇性が薄い。悪役の非道を際立たせたいなら、主人公をか弱い乙女にしておくべきだったな」 青磁がにやにやしながら言うと、王は低い声で質問した。 「読んだのか?」 青磁は氷を口に入れ、やはり音を立てて噛み砕いた。 「麗しのフルリールが、情感たっぷりに読み上げていた。劇場でもあるまいに、壁一枚隣からあの声で喚かれては溜まったものではない。何枚窓が割れたことか!」 「それは災難だったな。気の毒に」 王は心の籠もった口調で、心にもないことを言った。 青磁は、ふふんと鼻を鳴らす。 「奴は、本当にこれを劇に仕立てて上演するつもりらしいぞ。今日、作者を招いて脚本を作ると言っていたな。私とて、お前をおちょくる為にそこまでしようとは思わん。愛されているなぁ、弟よ」 「作者を招いて、だと?この琺夜に作者を招いて?」 王は、数秒間沈黙した。それから、ぱたんと本を閉じる。 「・・兄上。今頃クレイ・ジールの弟は、フォーゲルの世話をしているのであろうな。そろそろペリード城に戻って疲れを癒したくはないか?」 青磁は空になった杯を置き、まじまじと弟の顔を見た。 「・・何が言いたい?」 琅珂は本を持ち上げ、人差し指でとんとんと作者名を突く。 “Mcnnie Tzaissen”。 「マクニー・ツァイセン?マク・・・」 声に出した途端、青磁は顔色を変え、椅子を蹴立てて立ち上がる。 たっぷりと脂肪を蓄えた体に似合わない俊敏さで部屋を飛び出した兄を見送って、王は、気乗りしない書類整理の仕事に戻る。 約一時間後、執務室にクレイ・フェオ=ユーン将軍が飛び込んで来た。 「陛下!逃げられました!あ゛ぁ、もう何なんですか一体!?休日出勤は勘弁・・げ」 「・・・・」 すぐに王の背後で渦巻くどす黒いオーラに気づいたクレイは、申し訳なさそうな顔を取り繕う。 「え〜・・フルリールの客人は、消えてしまいました。目の前でぱっ!と。あれは絶対セルズの死神とかそういう奴らの仕業です。残念ながら、そっちは専門外なもので。いえ、どうしても探せと仰るなら・・」 「・・分かった。ご苦労。もういい。去れ」 「はい。陛下」 触らぬ神に崇りなし。それが破壊神と来た日には、尚更。 いつも以上に背筋を伸ばして敬礼したクレイは、しずしずと後ろ向きで退室してから、早足でその場を離れる。 後ろでべきっ!という音がしたが、決して振り返らず。 「ちっ」 王は盛大な舌打ちをして、圧し折ったペン軸を睨みつけた。 木屑が左手の中で燃え上がり、あっという間に消炭になる。 「殺しておけばよかった・・」 「ふ〜ぅ・・」 ザン=ゼイルは、冷や汗を拭った。 フルリール王子に招かれて、こっそり琺夜に密入国したのだが、思ったより早くばれてしまった。 王子と会談している途中、窓の外にクレイ将軍の姿が見えて、慌てて反対側の窓から飛び出したのだが。 今立っているのは、町の外れ。小高い丘の上。 「Long time no see・・遠見」 古い知り合いの渾名を呼ぶと、案の定、背後の木の裏から、褐色の男が姿を現した。 「Yah・・鎌鼬」 「カリル?」 ザンは振り返って、少し驚きながら相手の金色の瞳を覗き込む。 「うん、僕だよ。今カタルシアに住んでるんだ。勿論、クレオナント様の命令だけど。結構、自由な時間があるんだよ。琺夜に遊びに来れるぐらい」 「俺をここに飛ばしたのも、命令か?」 「まさか。ただ、見かけたから。君の本、読んだよ。何?琺夜に喧嘩売る気かい?ペンネーム、まんまじゃん。度胸あるよね」 ザンは、肩を竦めた。 「ああ、セルズはペリード家と手を組んだんだな。王子の指示ってことか」 カリルは、途端に表情を変えた。 「それ以上、言わない方がいいよ。君を殺したくないから」 「へぇ?優しいじゃないか。何にせよ、助かったよ」 カリルは、少し寂しそうに微笑んだ。 「童話作家の兼業がテロリストじゃ、夢も希望もないな。でも、全てのエンターテイメントは守られる価値があると僕は思ってる。羨ましいよ、正直」 「・・ああ」 そう言えば、ずっと幼い頃、こいつは大道芸人になりたいとか言っていたっけ。 ザンはぼんやりと思い出しながら、琺夜の町並みを見下ろした。 「Life doesn’t go as we want. 世はなべて儘ならぬ、か」 琺夜の市街は、黒い玄武岩と白い漆喰でできている。それでも町がモノクロにならないのは、あらゆる場所に蔓延る緑のせいだ。 広場、壁、石積、古い石畳の隙間。草が伸び、蔦が這い、苔が生えている。 立ち並ぶ民家の屋根はどれも石を積んだ三角錐。団栗がぽこぽこと並んでいるようだ。この丘より高い建物があるのは王宮だけで、それも天然の岩を刳り貫いて造られている。 こうして見ると、セルジリア帝国の首都イデリイとは比べ物にならない。はっきり言って、田舎だ。 こんな長閑な風景の中に、あの悪魔達が住んでいるとは。 鳥の群れが啼きながら、頭の上を飛んで行った。 あれは、ナギ島でも見ることがある渡り鳥だ。アウリア海に迫る冬の気配に追い立てられて、太陽が燦々と輝く琺夜までやって来たのだろう。 「・・暑いな」 この小さな都市国家のどこかに、ジァヴがいる。 十五年間、涼しいクリシュエール地方で生きてきた彼女も、この気候には参っているだろう。体調を崩していなければいいが。 「琺夜は緯度が低いからね。僕には快適な環境だけど。太陽がほとんど出なくてオーロラが見えるような国の生まれには、ちょっときついかな?」 ザンは、顔を顰めた。 「それは冬の話だ。真夏は、逆に日が沈まない。今頃は、もう秋だけどな。キノコがうまい時期だ」 「そうなんだ?まぁ、どうでもいいや。折角だし、手伝ってやろうか?会いたい人がいるんだろ?」 「・・・・」 ザンは、目を閉じ、腰帯についた飾り総を弄る。 ここに来るまでは、一目でもいいから会いたいと思っていた。 カリルに頼めば、願いは苦もなく叶う。 だが・・ 「いや・・いい」 カリルは、首を傾げた。 「今は、会いたくない」 「へぇ・・野の菫が摘まれちゃって、幻滅した?」 指に縺れた糸が引っかかり、ザンはそれを一本ずつ解き始めた。 琺夜の社交界で、ジァヴはやはり王の愛人と見なされているらしい。 ザンは少なからぬショックを受けたが、それも、ジァヴのことなど何も知らない連中が、面白半分に騒ぎ立てているだけだ。 「知ってるか?翡翠ってのは、頑丈なんだ」 カリルは、目を瞬いた。 「金剛石より?」 いきなり何を言い出すのだろうという顔をするカリルに、ザンは頷く。 「金剛石は硬いだけだ。傷つかないが、劈開って、衝撃に弱いポイントがあってな。そこを突けば簡単に砕ける。翡翠は劈開がない。あらゆる鉱物の中で、最も強靭なんだ。小さな傷はつき易いが、割れないんだよ」 「石工か宝石加工技師じゃなきゃ、作家にしか必要ないような雑学だね。で、何が言いたいわけ?」 「・・そうだ。カリルは金剛石だな。強いくせに脆い」 ザンは、ばらけた糸を再び束ねて、きちんと撫で付けた。 「翡翠が壊れないのは知ってるが、だからって、傷つくのは見たくない」 今まで、どんなに傷ついても、ジァヴはジァヴのままで美しかった。それはきっと、これからもずっと。 だが、 「傷ついてるのを見たら、また攫いたくなるだろ」 自分の助けなど、彼女には必要ない。それが分かっていても、なお。 「うぅ・・」 惚気に当てられたカリルは、喉を絞められたような声を出した。 「・・真理だね。恋は馬鹿の始まりってのは」 「誰が言ったんだ?」 「君だよ、ザン・マク・ニーツァイセン。七、八年前?いやあ、その頃から才能あったけど、ここまでレベルアップしてるとはね。素面でそんな恥ずかしいこと言えるのは天空の民だけだと思ってた」 琅珂が執務室で地団駄を踏み、ザンが幼馴染をどつき倒している頃、 王領内、ピエ・リュネール湖に浮かぶイル・ドゥ・スィーニュ城では、ジァヴが大きな鏡の前に座っていた。 「・・はあ」 全身を映す鏡を睨みつけ、ジァヴは不貞腐れていた。 目の前にいるのは、紛うことなきお姫様。 腰を細く締め上げて、デコルテを大胆に剥き出し、たっぷりとレースのついた薄紫のドレスは、更に宝石で飾り立ててある。 高く結い上げた髪にも、真珠や橄欖石や紫水晶の花が咲き、そこに琥珀と蛋白石の蝶が止まっている。 ドレスの裾からは、どう見ても体重を支えられると思えない、細いヒールのついた靴が覗いている。 鼻を突くのは、化粧と香水の匂い。 「はぁ・・」 ジァヴは、連日の舞踏会に疲れ切っていた。 最近、琺夜の夜は賑やかだ。 五日前まで吹き荒れていた夏の嵐の間、鬱々と閉じこもっていた貴族達が、天気が回復した途端、挙って遊びに乗り出している。 夜の舞踏会が始まるまで、後六時間。終わるのは、明日の早朝。これではまるで拷問だ。 「おねえさま、いらいらしてる、わね?」 やはり琺夜風のドレスを着た妹に問いかけられて、ジァヴは赤くなった。 「ごめんなさい、シー。・・私、ひどい顔してるわ」 「・・ダンス、きらい?」 「いいえ。腰をしめつけたり、スカートの下にランプシェードをつけたりするのが慣れないだけよ」 故郷のダンスが懐かしかった。シノアの踊りは、主に膝から下を使う。バイオリンやバグパイプの音に乗って、早いリズムで石の床を打ち鳴らすのだ。 あれなら、得意だった。もっとも、この服ではステップも踏めそうにないが。 重厚な管弦九重奏で、広間に集まった男女が手を繋いで、裾を踏んだり踏まれたりしないように気を遣いながらくるくる回るなんて、とてもダンスとは呼べない。 肘の先からひらひらと垂れ下がる繊細なレースを弄び、溜め息を繰り返す。 琺夜の女達の強さの秘密は、この服装にあるに違いない。 琺夜の貴婦人達は、皆こんな格好で一晩中踊り明かすのだ。この苦行に耐えられる女がパニエとコルセットを外せば、確かに戦士にもなれるだろう。 最初の夜は、慣れないコルセットに腹を締め付けられて気持ちが悪くなり、途中で外に飛び出して吐いてしまった。 王に誘いを受けても、ちっとも踊れない上に、この凶器のような靴で足を踏んづけ、二人で転んでしまったこともある。 会場に集う人々は皆、お上品に笑っていたが、ジァヴには何を言われているのかさっぱり分からない。 王はずっとあの嘘臭い笑顔の仮面をつけていて、何を考えているのか読ませてくれない。 「私、何してるのかしら・・」 ジァヴは、ぼんやりと呟いた。 踊れないダンスで笑いものになる為に、琺夜にやって来た訳ではない筈なのに。 「・・おう、さまに、なにかされたの?」 シォダの声色が変わると、ジァヴははっとして笑い声を上げた。 「まさか!あの人、おかしいのよ。自分の家で、子羊みたいにお行儀がいいの」 「そう・・」 ジァヴは、内心でまた溜め息をついた。 どうやら妹は、ジァヴ以上に王を敵視している。あの異母兄がいつもジァヴを苛めると思っているらしい。 ジァヴはこれまで妹を守っているつもりでいたが、シォダも姉を守る為に、琅珂と戦おうとしている。 「昨日、笑われるのも今だけだって言ってたけど・・何を考えてるのかしら」 二ヶ月前、ジァヴは正式にシノア王として戴冠したが、同じ日に、統治能力の不足を理由に、国家権力を琺夜国王に貸与した。 これによって、琺夜の支配権は、カタルシア王国、マルス公国、トウカ民族自治区といった僅かな地域を除くガシュクジュール地方のほぼ全域と、シノア王国、元リーファス王国、元グリニカ共和国の旧クリシュエール三国にまで及ぶこととなった。 もっとも、シノア王国の統治権に関する条約は、琅珂の死と共に失効する。シノアの王位継承権は、相変わらずシュリトゥーハル家が保持している。 リーファスの王一家が惨殺されたことを思えば、格別の待遇だ。琺夜の軍人や貴族も、シノアにばかり甘いのは王がジァヴに骨抜きにされたからだと言っている。 だが、そういう連中よりもずっと、ジァヴは王の考えを理解していた。 例え政治闘争の結果、琅珂が琺夜の王冠を失っても、シノア暫定元首の地位は奪われない。琅珂が死ねば、シノアは即座に琺夜の頚木から逃れられる。 今、どちらの事態が起こっても、琺夜の支配圏は分裂する。 クリシュエール三国の中で最も富裕なシノアを完全に琺夜の属領にしなかったことで、彼は、自分が琺夜国王でなければならない状況を作り出し、危険な兄達を牽制したのだ。 「本当に、悪知恵が働くんだから・・」 これから後、スノゥリィ家の嫡子が琺夜だけでなくシノアをも相続しようとするならば、その嫡子は、本来のシノア王であるジァヴの子でなければならない。 つまり、琺夜側がジァヴに求めている役割は、王の子を産むことだけだ。 琺夜の民が自分を見る目がセルズ人のそれと大して変わらないことを、ジァヴは良く理解していた。 ジァヴが住居としているこの城、湖を渡る風が涼しくて過ごし易い『白鳥の島』も、俗に貴婦人の城と呼ばれている。王のプライベート・スペースと橋廊で行き来できるという特性上、代々の城主が皆、王妃や王の寵姫ばかりだったのだ。 そんなこんなで、ジァヴは今でも口さがない者達にJadeと呼ばれている。 スノゥリェンヌ語の「ジャッド」という発音ではなく、セルズ語で「ジェイド」と。 誰があの言葉を広めたのか、簡単に想像がつく。 「ああーっ!!もうっ!」 「・・おねえさま、つらい、の?」 シォダが、心配そうに声をかける。 「Bon!Laisse-moi!」 覚えたばかりのスノゥリェンヌ語で答えたジァヴは、きっ!と鏡を睨みつけ、目の前にいくつも並ぶ小皿の中から、一際鮮やかな紅を掬い取った。 「辛いですって?冗談っ!」 利用されるのは、琺夜に来る前から分かっていたことだ。 「あんな噂を流されるぐらい・・思ってたより、ずっとましだわ」 湖上の城、イル・ドゥ・スィーニュにいれば、噂の姫を一目見ようと野次馬が押し寄せて来ることもない。 双牙を裏切って琺夜と手を組んだジァヴに反感を持っていたシノア王家の家臣達も、今は琺夜国王の魔の手から自分達の女王を守ろうと一致団結している。 舞踏会では、琅珂が出席者の下品なからかいから庇ってくれる。その結果、王がジァヴを熱愛しているという噂はますます広がるのだが。 唇にたっぷりと紅を乗せ、睫毛をつんと上向かせ、頬紅を塗りたくって、ようやくジァヴは満足した。 何てけばけばしい顔。まるで娼婦だ。 これで、頭が空っぽの幼童王に相応しい女になった。 「決めたわ。あなたの名前はジェイド=ユリファールよ」 姉の独り言を聞いて、シォダは瞬きをした。 「ユリファール」とは、彼女らの家名である“Slituathail”をうまく聞き取れなかったセルズ人が「ジュリーファウル」と言ったのが、更にシノア人の下手な口真似で広まった言葉だ。 主に、シノアの民がシュリトゥーハル一族の不甲斐なさや鈍重さを笑いものにする時に良く使う。 「ジェイド=ユリファール」は、人々の噂が作り上げたジァヴ、そのままの姿。 この女が、あの可愛子ぶった王の隣に並んだら、さぞかし滑稽だろう。 「そっちがその気なら、とことん付き合ってやろうじゃないの!」 ジァヴ・ニ・シュリトゥーハルの分身、ジェイド=ユリファールは、こうして世に生まれ出た。 だが、琺夜を席巻した「王の妾」の噂は、間もなく掻き消える。 将軍となったジェイドが、ガシュクジュール地方に残る琺夜の敵を次々と制圧し、『鉄の乙女』の二つ名を得ることなど、この時はまだ誰も知らない。 砕けぬ宝石の名を持つ乙女は、その手で荒野を切り拓く。 傷を受けながらも美しく、道なき道を突き進む。 童話のような安息に、落ち着くことを望みもせず。 End. |
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