第11章 Go deireadh mo shlí 〜我が道の終わりまで〜


 イリカ港において、琺夜の王とシノアの女王が手を結んだ日から、二月後。

 実月フリュクティドールの琺夜。シェオ・フローリィ宮。王の執務しつむ室。

 スノゥリィ家の長男にして後見人テュトゥールである青磁せいじ――シエリスタ名マルヴェ=ペリード・クリスタロスは、気分が良くなかった。

 一つの原因は、この季節だ。

 医者どもは、健康診断のたびに彼のまるまると太った体をながめ回しては、熱中症ねっちゅうしょうで倒れる者の七割が肥満ひまん体質だとか、糖尿病とうにょうびょうになったら数々の恐ろしい合併症がっぺいしょうさいなまれるとか、らぬ説教をしてくれる。

 今年はガシュクジュール盆地ぼんちおそった長雨の影響で、小麦や豆の生産量が落ち込み、更に収穫しゅうかく前の葡萄ぶどうが時季遅れの夏の嵐ザク・ハロームい、王家よりもはるかに金持ちな貴族達ドミヌスから財政援助の嘆願書ペティスィヨンが舞い込んでいる。

 青磁は汗をぬぐう為に時折手を止めながら、断り状を書き続けていた。

 (・・暑い)

 面白くないことは、まだあった。

 琺夜六将の中で唯一味方だったバルダザール=ロッシが炎天下で脳溢血のういっけつになり、残る将軍達は、若くて健康だ。しかもそいつらは皆、冷酷れいこくな王を愛している。

 王が軍を完全に掌握しょうあくし、もはや疑いようのない脅威きょういとなっているにもかかわらず、貴族どもは琅珂の愛くるしい笑顔にだまされて、あれを癇癪かんしゃく持ちの愛玩あいがん動物だと思い込んでいる。下手に毛を逆撫さかなでない限り、幼いひょうなど仔猫も同じだと。

 (何人のどを喰いちぎられても、馬鹿は減らないものだ)

 忌々いまいましくも予想通り、無事にシノアから凱旋がいせんした弟は、かの国の女王を気に入ったらしい。

 舞踏会バルに彼女を連れ回し、足を踏まれてばかりいる。

 昨夜などは、「次の戦地に同行しては?」という誰かの冗談を真に受けて、その場で彼女を将軍ジェネラル任命にんめいしてしまった。勿論、そいつが言ったのは、「それほど気に入ったなら寵姫メートレスにしてはどうだ?」という意味だったのだが。

 王の発言は、常に法的効力を持つ。

 王が公衆こうしゅうの面前で“Parce que tel est notre bon plaisir余  の  意  は  か  く  の  如  し”と言った以上、それは勅令ちょくれいだ。

 まだ言葉も良く分からず、困った顔で首をかしげた可憐かれんな女王を見て、出席していた貴族達は腹をかかえて笑い転げた。

 シノア遠征えんせい従軍じゅうぐんした者達は、彼女が単騎たんきでユーン家の五男坊を負かしたと言い張っている。多くの者達が全くのデマと信じているそのうわさを思い出した青磁は、とても愉快ゆかいな気分にはなれなかったが。

 呑気のんきな貴族達は、女王がいつ涙ながらに実家に帰りたいと言い出すか、けをしている。何が「おりからの凶作きょうさくで麦一粒のたくわえすらなく」だ。忌々しい。



 ばきっ。

 王は心持ち仏頂面ぶっちょうづらビュローに向かい、両手に持ったペンプリュムいそがしく動かしている。

 遠視えんし用の眼鏡めがねをかけているせいで、吊り上がった目が大きく見える。

 「違う、かん直径ちょっけいは統一しろと言った筈だ。これではすぐに詰まってしまうではないか・・また害虫か!ただでさえ嵐が・・くそ、断熱材だんねつざいはばも記入がない」

 ビュローの右側には都市整備せいび計画の一環いっかんである水道工事の企画きかく書。左側には王領地ドメンヌ・ロワイヤル栽培さいばいしている葡萄の生育状況報告書。

 小声で愚痴ぐちこぼしながら、両手で違う文字を書き込んでいる。

 見たところ、仕事は正確だ。が、必要もないのに心境しんきょうを口に出しているのは、かなりいらついている証拠しょうこだ。

 何度目かの、ばきっ、という音と、悪態あくたいをつく声。「きにしてやる」とかいう不穏ふおんつぶやきも聞こえた。

 インク瓶アンクリエの横には、折れたペン先が十数個ばかり転がっている。

 自分も気が立っている青磁せいじは、唇を引き結んで黙々もくもくと仕事を続けた。


 王の機嫌が悪いのは、先程もう一人の弟、農務卿ミニストル・ドゥ・ラグリキュルテュールつとめる萌芽ほうががやって来て、不愉快ふゆかい嘆願たんがん書のたばと一緒に余計よけいな物を持って来たせいだ。

 先日出版しゅっぱんされたという、どう見ても幼児向けの赤表紙本と、すみれの花をかたどった繊細せんさい飴細工あめざいく。ご丁寧に小さな花瓶かびんに入れて、王の鼻先に置いて行った。

 シノアから連れ帰って来た姫のことをこすっているのだ。

 王家の三男萌芽ほうが、またの名をフルリールは、琺夜が世界にほこ芸術家アルティストだが、人を虚仮こけにすることに関してもその才能を遺憾いかんなく発揮はっきする。挙句あげく、王が爆発する前にさっさと逃げてしまった。

 「八つ当たりはこちらの兄さんにしたまえ」などとらぬ一言を残して。



 「兄上」

 青磁は書き上げた手紙に紐を巻いて封蝋ふうろうらしながら、ちらりと目を上げた。

 王が眼鏡を外し、遠くを見ながらまばたきをしている。

 「・・終わったのか?」

 「緊急きんきゅうを要するものはな。・・のどかわいたろう。休まないか?」

 すずしい顔をした王に、たるんだ腹のしわってぐっしょりとれている上着を指差され、青磁は嫌な顔をする。

 「茶でも飲もうか・・・・・ルイスはどうした?」

 いつもポルトの外にひかえ、お呼びとあればぱっと顔を出す小姓パージュが、今日は5秒待っても姿を見せない。

 由々ゆゆしき怠慢たいまんだと眉をひそめる兄に、弟は馬鹿にした目を向けた。

 「一時間も前にすすり泣きが聞こえたろう。俺達が殺し合いを始めると思って、逃げたらしい」

 「なるほど・・萌芽が来てから三十分もえたか。責める訳にはいかんな」

 「ちょうどいい。話がある。・・ヴァームリットの春摘みとハイロゥの夏摘み、どちらがいい?」

 王は、ぴょいと椅子フォトゥィユから飛び降りて踏み台エスカボーに登り、サイドボードビュフェから茶葉入れコフレ・ア・テポットテイエルを出している。呼び鈴ソヌリに手を伸ばしかけた青磁は、目を見張った。

 「陛下がれて下さるのか?一体何事だ?」

 「俺が飲みたい。ついでに――とでも言えばまだ可愛いかな?」

 「・・それを言わなければな」

 やたらと殺気立っていたのは、使用人を遠ざける為の演技えんぎだったらしい。

 何かしら無理難題むりなんだいを押し付けようとする意図いとを読み取った青磁は、どっしりと椅子にもたれて、胸に張り付いた上着を引っ張った。

 「・・ハイロゥだ。冷たいものがいい。氷をたっぷりと」

 「了解ダコール

 しばらくして、暖炉シュミネの横に置かれた湯沸かし器サモワールの上でポットテイエルが蒸気を噴き出す頃、クープにからからと氷が落ちる音が聞こえてきた。

 「・・・・」

 当てが外れた青磁は、右手で両目をおおう。

 一体全体、この部屋のどこに氷があったのだ?こいつと一緒にいるといつも奇妙なことが・・いや、考えるのは止めよう。



 「悪くない・・な」

 手渡されたクープに口をつけた青磁は、一息ついてそう言った。

 疑惑ぎわくの冷茶だが、うまいことは間違いない。

 王は杯をかたむけ、からりと氷を鳴らした。

 「セルズ人は嫌うがな。クレオナントは、茶に氷を入れるのは邪道だと言う。氷を出す能力者アルセロイを部下にして、夏にシャーベットソルベばかり食っているくせに」

 「愚かなことだ。奴らはしかるべき贅沢ぜいたくというものをまるで分かっておらん」

 「然るべき贅沢。問題はまさにそれだ。今兄上の手元にある嘆願書。各拝領自治区セニョーリに対し、財政支援を検討けんとうしたい」

 青磁は片方の眉を上げた。

 なるほど。この茶は、一時間半の仕事を全てふいにするびということか。

 「・・愛らしい菫の花が社交のそのつぶされぬよう、貴族どもの機嫌を取るつもりか?」

 シノアの姫のことを言ってみたが、王はちょっと口のを上げただけだった。

 「会計簿リーヴル・ドゥ・コンタビリテが見たい。特に、公爵達がしたがえている陪臣達ヴァソ授封地フィエフ、まさに此度こたび援助えんじょ対象となる土地ドメンヌ財政収支ざいせいしゅうし把握はあくしたいのだ。そろそろ国家が地方行政ぎょうせい監督統制かんとくとうせいすべきだと思っていたところでな」

 確かに、現在の琺夜支配圏における地方行政には、問題がある。

 地代は収穫の一割と決まっているが、国と大貴族と地方領主とが何重にもぜいをかけ、最もひどい地では、農民から総収量の六割も取り上げている。

 単純に税率ぜいりつを比較すれば、最近王に忠誠ちゅうせいを誓った国より、古くから琺夜にぞくする民の方が、重い負担ふたんを強いられているのが現状だ。

 それに重なり、今年の不作。国庫には金がないのに、民の怒りは国に向けられている。

 これを機に、貴族達に金の使い方を報告させ、ゆくゆくはそれを恒例化こうれいかして自治権じちけんせばめていこうということか。

 「すばらしいではないか。お前が、そんな考え方をするようになるとは」

 青磁はこのさくに気づかなかった自分に腹を立てたが、顔ではにやりと笑って見せた。



 三年前、先王の長男を嫌う貴族達にかつぎ出され、無理矢理王冠クーロンヌかぶせられた弟。

 この子供に国の動かし方を教えたのは、自分だ。無能な人形を玉座にえて国を牛耳ぎゅうじろうとした公爵どものたくらみは、見事にくじいてやった。

 だが、青磁ははなはだ面白くなかった。

 今まで、弟が不慮ふりょの事故死』げてくれそうな機会は決して見過みすごさなかったものの、ことごとかんばしい結果は得られなかった。琺夜をみちび王笏セプトルは、しっかり琅珂の手ににぎられている。国家は最も不安定な時期を乗り切ったが、自分がそのしゃくを握る望みは、ほとんどなくなってしまった。



 「・・貴族共が帳簿ちょうぼ提出ていしゅつこばむか、書類をいつわる可能性もあるが」

 負けしみに言ってみると、王は、これ以上ないほど愛らしい笑顔を作った。

 「その口で言ったろう。確かに、あまりジァヴをいじめて欲しくはない。公爵どもは裏を勘繰かんぐるだろうが、結局は俺が彼女を守る為に買収ばいしゅうに出たのだと判断するだろうよ。俺は、賢くて品のいい兄上と違って、凶暴きょうぼうでかわいい獣に過ぎぬらしいからな」

 そして、すぐに真顔に戻る。

 「会計関係書の提出を拒否きょひすれば、金を出さない。書類の改竄かいざんが発覚すれば、逆に罰金を取り立てる。大封主ほうしゅの指示によって地方が更なる困窮こんきゅうおちいれば、それに付け込んで忠誠ちゅうせいの対象をえることも可能であろう」

 「ふん・・その博打ばくちを打つ為の金は、シノアの鉱山こうざんが提供してくれる。王家に損はない、か。見事だ」

 大貴族に従属じゅうぞくしている陪臣層ばいしんそう臣従しんじゅうを誓わせ、国王の直臣じきしんへと変えることも視野しやに入れているということか。

 青磁は、後悔と満足の板挟いたばさみになりながら、一息にクープあおった。

 本当に小賢こざかしい王になった。自分の教育の賜物たまものだ。

 琺夜をらし破壊神ディーシェスは、王にその力を向けるより、彼と手を組んだ方が楽しいと思っているらしい。

 「・・分かった。お前がシノアの姫にうつつを抜かす馬鹿者だといううわさを更に広め、既得権きとくけん胡坐あぐらをかいた公爵どもを言いくるめるのが私の仕事だな?」

 「頼めるか?アッシュダーク卿やユーン家のクレイ・ジールは強敵だが」

 青磁は、せせら笑った。

 「私をめるな。次の国王議会で貴族どもの反対票が過半数かはんすうを上回ることは決してない」

 「では、まかせた。期待きたいしている」



 王はしばらく休憩きゅうけいすると決めたらしく、萌芽ほうがが置いて行ったすみれを口に放り込んで、薄っぺらい本を手に取った。

 ぱらぱらとページをめくる途中、がりっとあめが砕ける音がした。

 あっという間に見返しまで辿たどり着き、つぶやく。

 「どいつもこいつも・・」

 背表紙のタイトルは、『菫の佳人ラ・ボー・ヴィオレッテ』。

 青磁は、ようやくちょっと楽しくなった。

 「問題があるか?政治的喧伝プロパガンダとしては、三流だ。むしろお前の恋の噂を広める役に立つだろう。犠牲者ぎせいしゃが強過ぎて、悲劇性ひげきせいが薄い。悪役の非道ひどう際立きわだたせたいなら、主人公をか弱い乙女にしておくべきだったな」

 青磁がにやにやしながら言うと、王は低い声で質問した。

 「読んだのか?」

 青磁は氷を口に入れ、やはり音を立ててみ砕いた。

 「うるわしのフルリールが、情感たっぷりに読み上げていた。劇場でもあるまいに、壁一枚となりからあの声でわめかれてはまったものではない。何枚窓が割れたことか!」

 「それは災難さいなんだったな。気の毒に」

 王は心のもった口調で、心にもないことを言った。

 青磁は、ふふんと鼻を鳴らす。

 「奴は、本当にこれをテアートルに仕立てて上演するつもりらしいぞ。今日、作者をまねいて脚本きゃくほんを作ると言っていたな。私とて、お前をおちょくる為にそこまでしようとは思わん。愛されているなぁ、弟よ」

 「作者を招いて、だと?この琺夜に作者を招いて?」

 王は、数秒間沈黙ちんもくした。それから、ぱたんと本を閉じる。

 「・・兄上。今頃クレイ・ジールの弟は、フォーゲルの世話をしているのであろうな。そろそろペリード城に戻ってつかれをいやしたくはないか?」

 青磁は空になったクープを置き、まじまじと弟の顔を見た。

 「・・何が言いたい?」

 琅珂は本を持ち上げ、人差し指でとんとんと作者名をつつく。

 “Mcnnie Tzaissen”。

 「マクニー・ツァイセン?マク・・・」

 声に出した途端、青磁は顔色を変え、椅子を蹴立けたてて立ち上がる。


 たっぷりと脂肪しぼうたくわえた体に似合わない俊敏しゅんびんさで部屋を飛び出した兄を見送って、王は、気乗りしない書類整理の仕事に戻る。


 約一時間後、執務室にクレイ・フェオ=ユーン将軍が飛び込んで来た。

 「陛下!逃げられました!あ゛ぁ、もう何なんですか一体!?休日出勤しゅっきん勘弁かんべん・・げ」

 「・・・・」

 すぐに王の背後で渦巻くどす黒いオーラに気づいたクレイは、申し訳なさそうな顔を取りつくろう。

 「え〜・・フルリールの客人は、消えてしまいました。目の前でぱっ!と。あれは絶対セルズの死神とかそういう奴らの仕業です。残念ながら、そっちは専門外なもので。いえ、どうしても探せとおっしゃるなら・・」

 「・・分かった。ご苦労。もういい。れ」

 「はいウィ陛下ヴォトル・マジェステ

 触らぬ神にたたりなし。それが破壊神ディーシェスと来た日には、尚更なおさら

 いつも以上に背筋せすじを伸ばして敬礼けいれいしたクレイは、しずしずと後ろ向きで退室してから、早足でその場を離れる。

 後ろでべきっ!という音がしたが、決して振り返らず。


 「ちっ」

 王は盛大せいだいな舌打ちをして、し折ったペンじくを睨みつけた。

 木屑きくずが左手の中で燃え上がり、あっという間に消炭けしずみになる。

 「殺しておけばよかった・・」




 「ふ〜ぅ・・」

 ザン=ゼイルは、冷や汗をぬぐった。

 フルリール王子にまねかれて、こっそり琺夜に密入国したのだが、思ったより早くばれてしまった。

 王子と会談かいだんしている途中、窓の外にクレイ将軍の姿が見えて、あわてて反対側の窓から飛び出したのだが。

 今立っているのは、町の外れ。小高い丘の上。

 「Long time no see久 し ぶ り だ な・・遠見ディスタント・ビュー

 古い知り合いの渾名を呼ぶと、案の定、背後の木の裏から、褐色かっしょくの男が姿を現した。

 「Yah・・鎌鼬スィクル・ウィーズル

 「カリル?」

 ザンは振り返って、少し驚きながら相手の金色の瞳をのぞき込む。

 「うん、僕だよ。今カタルシアに住んでるんだ。勿論、クレオナント様の命令だけど。結構、自由な時間があるんだよ。琺夜に遊びに来れるぐらい」

 「俺をここに飛ばしたのも、命令か?」

 「まさか。ただ、見かけたから。君の本、読んだよ。何?琺夜に喧嘩売る気かい?ペンネーム、まんまじゃん。度胸どきょうあるよね」

 ザンは、肩をすくめた。

 「ああ、セルズはペリード家と手を組んだんだな。王子の指示ってことか」

 カリルは、途端に表情を変えた。

 「それ以上、言わない方がいいよ。君を殺したくないから」

 「へぇ?優しいじゃないか。何にせよ、助かったよ」

 カリルは、少しさびしそうに微笑んだ。

 「童話作家の兼業けんぎょうがテロリストじゃ、夢も希望もないな。でも、全てのエンターテイメントは守られる価値があると僕は思ってる。うらやましいよ、正直」

 「・・ああ」

 そう言えば、ずっと幼い頃、こいつは大道芸人ストリート・パフォーマーになりたいとか言っていたっけ。

 ザンはぼんやりと思い出しながら、琺夜の町並みを見下ろした。

 「Life doesn’t go as we want. 世はなべてままならぬ、か」

 琺夜の市街は、黒い玄武岩げんぶがんと白い漆喰しっくいでできている。それでも町がモノクロにならないのは、あらゆる場所に蔓延はびこる緑のせいだ。

 広場、壁、石積いしづみ、古い石畳いしだたみ隙間すきま。草が伸び、つたい、こけが生えている。

 立ち並ぶ民家の屋根はどれも石を積んだ三角錐さんかくすい団栗どんぐりがぽこぽこと並んでいるようだ。この丘より高い建物があるのは王宮だけで、それも天然の岩をいて造られている。

 こうして見ると、セルジリア帝国の首都イデリイとは比べ物にならない。はっきり言って、田舎だ。

 こんな長閑のどかな風景の中に、あの悪魔達が住んでいるとは。

 鳥の群れがきながら、頭の上を飛んで行った。

 あれは、ナギ島でも見ることがある渡り鳥だ。アウリア海にせまる冬の気配に追い立てられて、太陽が燦々さんさんと輝く琺夜までやって来たのだろう。

 「・・暑いな」

 この小さな都市国家のどこかに、ジァヴがいる。

 十五年間、すずしいクリシュエール地方で生きてきた彼女も、この気候には参っているだろう。体調を崩していなければいいが。

 「琺夜は緯度いどが低いからね。僕には快適な環境だけど。太陽がほとんど出なくてオーロラが見えるような国の生まれには、ちょっときついかな?」

 ザンは、顔をしかめた。

 「それは冬の話だ。真夏は、逆に日が沈まない。今頃は、もう秋だけどな。キノコがうまい時期だ」

 「そうなんだ?まぁ、どうでもいいや。折角せっかくだし、手伝ってやろうか?会いたい人がいるんだろ?」

 「・・・・」

 ザンは、目を閉じ、腰帯についたかざふさいじる。

 ここに来るまでは、一目でもいいから会いたいと思っていた。

 カリルに頼めば、願いは苦もなくかなう。

 だが・・

 「いや・・いい」

 カリルは、首をかしげた。

 「今は、会いたくない」

 「へぇ・・野のすみれまれちゃって、幻滅げんめつした?」

 指にもつれた糸が引っかかり、ザンはそれを一本ずつほどき始めた。

 琺夜の社交界で、ジァヴはやはり王の愛人と見なされているらしい。

 ザンは少なからぬショックを受けたが、それも、ジァヴのことなど何も知らない連中が、面白半分にさわぎ立てているだけだ。

 「知ってるか?翡翠ジェイドってのは、頑丈がんじょうなんだ」

 カリルは、目を瞬いた。

 「金剛石ダイヤモンドより?」

 いきなり何を言い出すのだろうという顔をするカリルに、ザンはうなずく。

 「金剛石は硬いだけだ。傷つかないが、劈開へきかいって、衝撃に弱いポイントがあってな。そこをけば簡単に砕ける。翡翠は劈開がない。あらゆる鉱物こうぶつの中で、最も強靭きょうじんなんだ。小さな傷はつき易いが、割れないんだよ」

 「石工いしくか宝石加工技師じゃなきゃ、作家にしか必要ないような雑学トリビアだね。で、何が言いたいわけ?」

 「・・そうだ。カリルは金剛石だな。強いくせにもろい」

 ザンは、ばらけた糸を再び束ねて、きちんとで付けた。

 「翡翠がこわれないのは知ってるが、だからって、傷つくのは見たくない」

 今まで、どんなに傷ついても、ジァヴはジァヴのままで美しかった。それはきっと、これからもずっと。

 だが、

 「傷ついてるのを見たら、またさらいたくなるだろ」

 自分の助けなど、彼女には必要ない。それが分かっていても、なお。



 「うぅ・・」

 惚気のろけに当てられたカリルは、のどめられたような声を出した。

 「・・真理しんりだね。恋は馬鹿の始まりってのは」

 「誰が言ったんだ?」

 「君だよ、ザン・マク・ニーツァイセン。七、八年前?いやあ、その頃から才能あったけど、ここまでレベルアップしてるとはね。素面しらふでそんな恥ずかしいこと言えるのは天空の民シエリスタだけだと思ってた」




 琅珂が執務室で地団駄じだんだみ、ザンが幼馴染おさななじみをどつき倒している頃、

 王領内、ピエ・リュネール湖に浮かぶイル・ドゥ・スィーニュ城では、ジァヴが大きな鏡の前に座っていた。


 「・・はあ」

 全身を映す鏡を睨みつけ、ジァヴは不貞腐ふてくされていた。

 目の前にいるのは、まごうことなきお姫様プランセス

 腰を細くめ上げて、デコルテを大胆だいたんき出し、たっぷりとレースのついた薄紫のドレスローブは、更に宝石で飾り立ててある。

 高くい上げた髪にも、真珠しんじゅ橄欖石ペリドット紫水晶アメシストの花が咲き、そこに琥珀アンバー蛋白石オパールちょうが止まっている。

 ドレスのすそからは、どう見ても体重を支えられると思えない、細いヒールのついたくつのぞいている。

 鼻を突くのは、化粧けしょうと香水の匂い。

 「はぁ・・」

 ジァヴは、連日の舞踏会ぶとうかいつかれ切っていた。

 最近、琺夜の夜はにぎやかだ。
 五日前まで吹き荒れていた夏の嵐ザク・ハロームの間、鬱々うつうつと閉じこもっていた貴族達が、天気が回復した途端、こぞって遊びに乗り出している。

 夜の舞踏会が始まるまで、後六時間。終わるのは、明日の早朝。これではまるで拷問ごうもんだ。

 「おねえさま、いらいらしてる、わね?」

 やはり琺夜風のドレスローブ・ア・ラ・スノゥリェンヌを着た妹に問いかけられて、ジァヴは赤くなった。

 「ごめんなさい、シー。・・私、ひどい顔してるわ」

 「・・ダンス、きらい?」

 「いいえ。腰をしめつけたり、スカートの下にランプシェードをつけたりするのがれないだけよ」

 故郷のダンスがなつかしかった。シノアの踊りリンカは、主にひざから下を使う。バイオリンフィドルバグパイプビーブ・イーランの音に乗って、早いリズムで石のゆかを打ち鳴らすのだ。

 あれなら、得意だった。もっとも、この服ではステップもめそうにないが。

 重厚じゅうこう管弦九重奏ノネットで、広間に集まった男女が手をつないで、すそんだり踏まれたりしないように気をつかいながらくるくる回るなんて、とてもダンスとは呼べない。

 ひじの先からひらひらと垂れ下がる繊細せんさいなレースをもてあそび、溜め息をり返す。

 琺夜の女達の強さの秘密は、この服装にあるに違いない。

 琺夜の貴婦人達ダムは、皆こんな格好で一晩中踊り明かすのだ。この苦行くぎょうに耐えられる女がパニエとコルセットを外せば、確かに戦士にもなれるだろう。

 最初の夜は、慣れないコルセットに腹を締め付けられて気持ちが悪くなり、途中で外に飛び出して吐いてしまった。

 王にさそいを受けても、ちっとも踊れない上に、この凶器きょうきのような靴で足を踏んづけ、二人で転んでしまったこともある。

 会場につどう人々は皆、お上品に笑っていたが、ジァヴには何を言われているのかさっぱり分からない。

 王はずっとあの嘘臭うそくさい笑顔の仮面をつけていて、何を考えているのか読ませてくれない。

 「私、何してるのかしら・・」

 ジァヴは、ぼんやりと呟いた。

 踊れないダンスで笑いものになる為に、琺夜にやって来た訳ではないはずなのに。

 「・・おう、さまに、なにかされたの?」

 シォダの声色が変わると、ジァヴははっとして笑い声を上げた。

 「まさか!あの人、おかしいのよ。自分の家で、子羊こひつじみたいにお行儀ぎょうぎがいいの」

 「そう・・」

 ジァヴは、内心でまた溜め息をついた。

 どうやら妹は、ジァヴ以上に王を敵視している。あの異母兄がいつもジァヴをいじめると思っているらしい。
 ジァヴはこれまで妹を守っているつもりでいたが、シォダも姉を守る為に、琅珂と戦おうとしている。

 「昨日、笑われるのも今だけだって言ってたけど・・何を考えてるのかしら」



 二ヶ月前、ジァヴは正式にシノア王として戴冠たいかんしたが、同じ日に、統治とうち能力の不足を理由に、国家権力を琺夜国王に貸与たいよした。

 これによって、琺夜の支配権は、カタルシア王国、マルス公国、トウカ民族自治区といったわずかな地域を除くガシュクジュール地方のほぼ全域と、シノア王国、元リーファス王国、元グリニカ共和国の旧クリシュエール三国にまでおよぶこととなった。

 もっとも、シノア王国の統治権とうちけんに関する条約じょうやくは、琅珂の死と共に失効しっこうする。シノアの王位継承権は、相変わらずシュリトゥーハル家が保持ほじしている。

 リーファスの王一家が惨殺ざんさつされたことを思えば、格別かくべつ待遇たいぐうだ。琺夜の軍人や貴族も、シノアにばかり甘いのは王がジァヴに骨抜ほねぬきにされたからだと言っている。

 だが、そういう連中よりもずっと、ジァヴは王の考えを理解していた。

 例え政治闘争の結果、琅珂が琺夜の王冠おうかんを失っても、シノア暫定元首ざんていげんしゅの地位はうばわれない。琅珂が死ねば、シノアは即座そくざに琺夜の頚木くびきからのがれられる。

 今、どちらの事態じたいが起こっても、琺夜の支配圏は分裂ぶんれつする。

 クリシュエール三国の中で最も富裕ふゆうなシノアを完全に琺夜の属領ぞくりょうにしなかったことで、彼は、自分が琺夜国王でなければならない状況を作り出し、危険な兄達を牽制けんせいしたのだ。

 「本当に、悪知恵が働くんだから・・」

 これから後、スノゥリィ家の嫡子ちゃくしが琺夜だけでなくシノアをも相続そうぞくしようとするならば、その嫡子は、本来のシノア王であるジァヴの子でなければならない。

 つまり、琺夜側がジァヴに求めている役割は、王の子を産むことだけだ。

 琺夜の民が自分を見る目がセルズ人のそれと大して変わらないことを、ジァヴは良く理解していた。

 ジァヴが住居としているこの城、湖を渡る風が涼しくて過ごし易い『白鳥の島イル・ドゥ・スィーニュ』も、俗に貴婦人の城シャトー・デ・ダムと呼ばれている。王のプライベート・スペースエスパス・プリヴェ橋廊ガルリで行き来できるという特性上、代々の城主シャトレィンが皆、王妃レーヌや王の寵姫メートレスばかりだったのだ。

 そんなこんなで、ジァヴは今でも口さがない者達にJadeと呼ばれている。

 スノゥリェンヌ語の「ジャッド」という発音ではなく、セルズ語で「ジェイド」と。

 誰があの言葉を広めたのか、簡単に想像がつく。

 「ああーっ!!もうっ!」

 「・・おねえさま、つらい、の?」

 シォダが、心配そうに声をかける。

 「Bon大丈夫Laisse-moi構わないで!」

 覚えたばかりのスノゥリェンヌ語で答えたジァヴは、きっ!と鏡を睨みつけ、目の前にいくつも並ぶ小皿の中から、一際鮮ひときわあざやかなべにすくい取った。

 「辛いですって?冗談っ!」

 利用されるのは、琺夜に来る前から分かっていたことだ。

 「あんな噂を流されるぐらい・・思ってたより、ずっとましだわ」

 湖上の城、イル・ドゥ・スィーニュにいれば、噂の姫を一目見ようと野次馬やじうまが押し寄せて来ることもない。

 双牙そうがを裏切って琺夜と手を組んだジァヴに反感はんかんを持っていたシノア王家の家臣達ヴァサーラハも、今は琺夜国王の魔の手から自分達の女王バンリァンを守ろうと一致団結いっちだんけつしている。

 舞踏会ぶとうかいでは、琅珂が出席者の下品なからかいからかばってくれる。その結果、王がジァヴを熱愛ねつあいしているという噂はますます広がるのだが。



 唇にたっぷりと紅を乗せ、睫毛まつげをつんと上向かせ、頬紅ほおべにりたくって、ようやくジァヴは満足した。

 何てけばけばしい顔。まるで娼婦しょうふだ。

 これで、頭が空っぽの幼童王ル・プポン相応ふさわしい女になった。

 「決めたわ。あなたの名前はジェイド=ユリファールよ」

 姉のひとり言を聞いて、シォダはまばたきをした。

 「ユリファール」とは、彼女らの家名である“Slituathail”をうまく聞き取れなかったセルズ人が「ジュリーファウル」と言ったのが、更にシノア人の下手な口真似くちまねで広まった言葉だ。

 主に、シノアの民がシュリトゥーハル一族の不甲斐ふがいなさや鈍重どんじゅうさを笑いものにする時に良く使う。

 「ジェイド=ユリファール」は、人々の噂が作り上げたジァヴ、そのままの姿。

 この女が、あの可愛子ぶった王の隣に並んだら、さぞかし滑稽こっけいだろう。

 「そっちがその気なら、とことん付き合ってやろうじゃないの!」



 ジァヴ・ニ・シュリトゥーハルの分身、ジェイド=ユリファールは、こうして世に生まれ出た。

 だが、琺夜を席巻せっけんした「王の妾メートレス・ロワイヤル」の噂は、間もなくき消える。

 将軍となったジェイドが、ガシュクジュール地方に残る琺夜の敵を次々と制圧せいあつし、『鉄の乙女ピュセル・ドゥ・フェール』の二つ名を得ることなど、この時はまだ誰も知らない。



 砕けぬ宝石の名を持つ乙女は、その手で荒野こうやを切りひらく。

 傷を受けながらも美しく、道なき道を突き進む。

 童話のような安息あんそくに、落ち着くことを望みもせず。






 End.