第2章 Briseadh na síocháin 〜平和の崩壊〜
悪夢の日は、いつもと同じように始まった。
「おまえに教授しなければならないことがある」
その日、朝早く自室にジァヴを呼びつけたシノア国王は、改まった口調でそう切り出した。
きちんと正装して長椅子に座る痩せこけた王の隣に、寝巻のままで虚ろな表情の王妃がいた。
「はい」
ジァヴは余計な質問は一切せずに、そう言った。
「おまえは精霊が見えるか?」
突然訊かれ、ジァヴは思わず泣きそうになった。ここで言われているのは、妹のことではない。
「父上・・精霊とは・・母上やシォダの言うあの・・」
ジァヴは口篭った。
母、イーファは、ジァヴがまだ赤ん坊だった時に琺夜の王に乱暴されて以来、ずっと正気を失っている。
そして・・その結果生まれた妹のシォダは目が見えないが、二人とも、しばしばありもしないものが見えているような、奇妙な言動をするのだ。
王は無言で頷いた。
「・・おまえは、母や妹が狂人だと思うか?」
ジァヴは答えなかった。「いいえ」とは言えない。だがどうして「はい」などと言えるだろう?
「ジァヴ、おまえも知らなければならない時が来た。シュリトゥーハルの血を受け継ぐ者の果たすべき務めを。イーファはそちらの世界に惹きこまれ、己の生きる世界を見ようとしなくなった。シォダは生まれた時からこの世界を見る目を持たぬ。しかしな・・二人が見ている世界もまた、我々に見えず、聞こえず、触れることができないだけで、存在しているのだよ」
「・・・・」
ジァヴは父の言うことを理解しようと必死になった。
こんなことは珍しい。いつも、人の言動の裏の裏まで読み取れるジァヴが。
王はジァヴの額にかかる前髪を指先で払い、目尻に皺を寄せた。
「ジァヴ・・そなたの母は・・」
「ぅあ!」
王の言葉は、途中で遮られた。突然王妃が長椅子から立ち上がり、頭を抱えて震え出したのだ。
「・・あう・・あ!」
夫の襟を掴んだ王妃、イーファがうわ言のようにつぶやいた。
「来るわクローハル!逃げて!!来るの・・戦っては駄目・・」
「母上!?」
ジァヴは急いで母に駆け寄った。夫のことが分かるのか?彼女がこんなにはっきりとした言葉を喋ったのは何年ぶりだろうか・・
しかし、イーファは、近づいてきたジァヴに歯を剥き出して怒鳴りつけた。
「おのれ・・貴様に娘は渡さない!!消え去れっ!!」
「母上・・私です!ジァヴです!」
「母だと!?はっ!貴様の母など私がこの手で縊ってくれる!ジァヴもシォダも、誰が貴様に渡すものか!!」
訳の分からないことをがなり散らす母に、ジァヴは胸がきゅうっと締め付けられるのを感じた。
「イーファ・・」
ジァヴに掴みかかろうとする妻の体を抑えつけた王は、娘に目配せをする。
震えながら頭を下げたジァヴは、退室した。出直した方がいい。
「ったく、冗談じゃねえ、いかれてる・・絶対にいかれてるぞ!!」
琺夜国騎兵隊将軍、ライカンは、同僚のクレイ=ユーンにそう怒鳴りつけた。
「落ち着け。ご婦人方が怖がっているだろう」
刀槍が積み上げられた広場の片隅に、固まって震えている捕虜達を見かねたクレイが、言った。
たった今攻め落としたばかりの小国、リーファスの集会広場。
戦死者の死体も戦いの痕跡も生々しく留めたままのそこに、国中の武器と生き残った全市民が集められていた。
「落ち着け?よくもそんなこと言ってられるな。この国にゃ、莫大な財が蓄えられてるんだぞ?命懸けで戦った儂らの取り分は何もなし!全部陛下が持ってくんだぞ?」
「報奨なら後で陛下から頂ける。給料にも不足はないだろう?何がそんなに不満なんだ?」
クレイはうんざりしながらライカンを嗜めた。正直、ライカンに構っている暇はない。戦死者を埋葬し、負傷者を手当てして武器を回収する・・戦後処理の指揮を執らなければならないのに。
「そんなんじゃ何の為に戦ったんだか分かりゃしねえ!!戦ってのは強いもんが弱いもんを食う為にやるもんだ!それが何だぁ?財宝は陛下に譲るとしてもだ!その辺の市民から金目のもんぶん奪ってもいけねえ、家畜や女にも手ぇ出すなだと?ふざけんなってんだ!!」
クレイは溜め息をついた。やはり今、ライカンから目を離す訳にはいかない。
「・・まだ分かってねーようだが、これは貴様が今までやってたようなただの略奪じゃねぇんだ!!いいかげん盗賊根性捨てて将軍の自覚を持ったらどうなんだ?」
ライカンは濁った琥珀色の目でクレイを睨み付け、諭すように言った。
「おめえみてえなお貴族様出の若僧にゃあ分からんだろうがな、綺麗事言ってもおんなじことだ。殺し合いの喰らい合いにゃあ変わるめえ?」
ライカンはカタルシア出身の元盗賊だ。数ヶ月前に捕らえられ、処刑されるところを、琺夜国王の部下になることを条件に命を救われた。五十路近い歳の、刀傷だらけの体から獣臭がするような男だが、20以上年の離れた貴族出身のクレイとは、不思議と気が合っていた。
「それとこれとは・・ったく、いーかげんにしやがれ!」
理屈立てて説得するのもいい加減面倒臭くなって来たクレイは、遂に頭一つ上背のあるライカンの襟首を掴み、こう怒鳴りつけた。
「そんなに言うんなら好きにすりゃあいい!ただしこれが陛下の命令だってことを忘れるなよ。言っとくが、琺夜の法律じゃ、窃盗罪は懲役刑、強姦罪は死刑だ!洩らさず陛下に報告するぞ!!」
ライカンは鉤鼻の上に皺を寄せ、片目を細めた。クレイは本気らしい。
「陛下陛下・・くそっ!!」
ライカンはぎりっと奥歯を鳴らし、クレイの手を払い除ける。
流石に王を引き合いに出されれば逆らえないらしく、彼はようやく引き下がった。
「敵に歯応えはねえし・・次はもう少し楽しめるんだろうな!」
「・・退屈はしないと思うぞ」
クレイは意味ありげに言った。
「何だ?ましな軍隊がいるのか?」
「さぁな。ただ・・さっき報告があった。陛下は是非、クリシュエール全土の征服を見届けたいそうだ」
ぶるっと身を震わせたライカンに、クレイはにやっと笑った。
「陛下がいらっしゃる」
「どうなさいました!?」
城を飛び出し、羊の放牧されている草原まで馬を走らせて来たジァヴは、突然声を掛けられて、驚いて振り返った。
「ジァヴ様・・」
息を切らせ、後を追って来たらしい青年が安心したように微笑む。
「ザン・・」
「相変わらず、見事な馬術ですね」
馬を止め、草を食む羊の群れや、流れの速い雲を見ていたジァヴは、ぜえぜえ言っているザンに慌てて駆け寄った。
「私を追って来たの?リズクに言われて?」
「いえ、残念でした。オシアン様に・・」
鐙から足を踏み外しそうになったザンは、ジァヴに支えられて頬を染めながら馬を下りた。かっこ悪いところを見られてしまった。
「兄上か。まあそうね。リズクなら自分で追って来るもの。ま、リズクだったら私に追いつけなかったでしょうけど」
用意周到・・と言うか準備がいいと言うか、ジァヴが差し出した水筒をありがたく受け取ったザンは、息を整えながら苦笑した。
「大丈夫ですか?未来の外務大臣殿?」
ジァヴに言われ、ザンは軽く彼女を睨みつける。
「茶化さないで下さい。いいんですよ。外交官として、必ずしも馬術が巧みでなければならないなんてことはないんですから。馬が交通手段として用いられない国だって多々あるんですからね!」
「まだ何も言ってないわ」
「だから言ってるんです。王女様より馬に乗るのが下手だなんて女性の口から言われる前にね!」
ジァヴは腰に当てようとした手を口元に持って行き、形ばかりはお上品に微笑んだ。
「・・・・」
ジァヴは怪訝そうなザンの顔を見て、ふふっと笑った。
「大丈夫。落ち込んでないわよ。兄様も心配性なんだから。シュリトゥーハル家の女はタフなのよ!」
「・・そのようで」
ザンは肩から力を抜いた。
もしかして泣いていたらどうしようと思っていたのだが、取り越し苦労だったようだ。
「ついでに盗み聞きも得意みたいね。女に限らないみたいだけど。私ならもっとうまくやるわ。兄上の提案でしょ?」
「すみません」
オシアンと二人で王の部屋の扉に張り付いていたザンは、右の耳にしっかりと残っているグラスの痕を指差され、しれっと謝った。
ジァヴは微笑みながら馬の鞍に括りつけた短槍を取り、素振りを始めた。
「冷たい言い方かもしれないけれど・・今は母上に構っている暇はないの。
――セルズが港を離れた時から分かってたことだけど、もうじき戦いが始まるわ。琺夜は、まず過去の轍を踏まないようにアウリア海を手中に収めようとするでしょうね。琺夜とシノアの間には、グリニカ共和国とリーファス王国があるけれど、きっと防ぎ切れないわ。ここで食い止めないとアウリア海全ての島々も無事ではいられない。双牙列島諸国連合の王達もそれは分かっているから、援軍を要請できると思うの!まだ琺夜が動いたっていう情報はないけれど・・」
「もう侵攻を開始したでしょうね」
ジァヴは驚いて、短槍を取り落としそうになった。
「十日前に、グリニカ共和国からの使者と名乗る男が、琺夜の軍隊が国を襲ったという情報をもたらしました。しかしグリニカからの機密文書にもそんなことは記されていませんでした。ですから軍部はその男を詐欺師と断定して投獄したんですが・・」
ジァヴは唾を飲み込んだ。
「・・あなたはそれを信じている」
「ええ。それからずっと、グリニカから来る文書が同じ内容なんです。オシアン様や陛下にもそのことはお伝えしましたが、それは国が平和な証拠だって仰って取り合って下さいませんでした」
ジァヴはじっとザンを見つめた。
ザン・ゼイル。彼はナギ島の島長、ニーツァイセンの息子。十八歳にして十二言語を操る天才外交官だ。リズクの付き添い兼通訳係として故郷からシノア王国に来ているが、リズクの成婚後もそのまま留まって官職に就いてくれと言われている程優秀な青年である。彼の読みは大抵、外れたことがない。
「一ついい、ザン?それって国家機密よね?どうして私に・・」
「ええ。あなたにお話ししたことが知れたら、私は機密情報漏洩の罪に問われるでしょうね。承知の上でお話したのは、この国の中では殿下が一番現状を把握していらっしゃると思ったからです」
ジァヴは不安と、期待を込めてザンを見る。彼がジァヴを『殿下』と呼ぶことは、今まで一度もなかった。
「そんなこと・・買い被りよ」
「・・こういう言い方をしては怒られるかもしれませんが、陛下もオシアン様も国の危機を恐れるあまり、現実を直視なさろうと致しません。あの方達の判断に従っていれば、この国は滅びます」
ジァヴはザンを殴りつけようと拳を握ったが、しばらくして彼を睨みながら手を開いた。ザンの言う通りだと思う所もあったからだ。
「・・あなたは私に何をしろと?」
ザンは只でさえ細い目を細め、言った。
「殿下が指導者となるのです。このシノアと、双牙列島諸国を束ねる君主に!あなたならきっと相応しい。双牙もシノア王国と共倒れは御免ですから」
ひゅっ!
空気を貫く音がして、ザンの喉に短槍の尖端が突きつけられた。いつの間にか、危険な穂先を包む鞘が落ちている。
「シノア王国を見殺しにする気ね!?」
ジァヴの菫色の瞳は、静かに澄み切った怒りを燃やしていた。
「そうでしょう?あなたは私達が勝てないことを知っている。シノアが襲われている内に、双牙の軍が沿岸にやって来るのね?そして、兵士達がほとんど殺された後で、戦い疲れた琺夜軍を蹴散らす気なんだわ。さも私達の恩人のような顔をして!!」
ザンは背中に流れ落ちる汗を感じたが、動じた様子を見せずに言葉を続ける。
「おそらく・・十日以内。私の読み違いならもっと早く。琺夜の軍がこの国にやって来ます。クローハル様には止められない。陛下もこの国が危険に晒されていることは否定しながらも、何かを感じていらっしゃるようです。だからこそ、シュリトゥーハル家の秘儀を今、あなたに伝授しようとなさっている・・」
ジァヴはザンの言葉が一部気になったが、短槍の狙いを逸らせることはなかった。
「ジァヴ殿下、私はありのままを伝えました。それを聞き入れなかったのはあなたの父上、兄上です。しかし、あなたさえいれば、琺夜の勝利は一時的なもの。もうシノアで琺夜の軍勢を防ぐことはできませんが、我々と共に後で取り返せます!
・・よく考えて下さい。殿下は分かっていらっしゃる筈です。あなたの父君に、この国を守る力は無い。殿下がリズク様と共にクリシュエールとアウリア海の全域を束ね、琺夜、セルズと並び立つ第三勢力となる以外、シノア王国が生き残る術はありません。殿下は・・」
ザンは言葉を切り、片目を細めた。
「琺夜の蛮族どもの慰み者になりたくはないでしょう?」
「!」
ジァヴは大きく目を見開き、息を飲んだ。
「・・・・」
ザンは内心、ほっと息をついた。槍が震えている。迷いが生まれたようだ。
ここでジァヴを味方にできなければ命はない。それぐらい危険な賭けだった。
「・・よく回る舌ね?ザン・・あなたがそんな策士だとは思わなかったわ」
ジァヴはザンを睨んだまま、くるりと槍を回し、手元に戻した。
山査子月の風が草原を渡り、ジァヴの髪をふわりと掠めて行く。緑の匂いがザンの鼻腔をくすぐった。
「すぐ城に帰って戦の準備をするわ。あなたの読みが正しければ、まだ少し時間はある。父上と兄上を説得して何とか説き伏せるわ!リズクにも協力して貰う」
背を向けたジァヴに、ザンはぎょっとして手を伸ばした。
「殿下!!私の提案は受け入れられない・・と?」
ジァヴは素早く短槍の鞘を拾い、穂先にはめた。
「民を見殺しにして逃げるぐらいなら、戦って死ぬわ!!シノア王国が襲われている内に戦う準備を整えようとする人達の力なんて借りません!」
言ってから、ジァヴは気付いて顔を真っ赤にした。
ジァヴだって、シノアより先に攻撃されるグリニカやリーファスのことなど考えてはいない。そう思うと、急に怒りが冷えていった。
ザンは、自分の故郷を守りたいのだ。他の国々なんて、犠牲になっても構いやしない。そして、それはジァヴも同じ。
「・・ザン。今すぐシノアを去りなさい。あなたとはずっとお友達でいたかったけれど、残念だわ」
「・・・・!」
ザンは唇を噛んでジァヴの背を見ていたが、やがて首を振りながら下を向いた。
「・・そう・・か。しかし・・琅珂は私以上の策謀家です。お忘れなきよう・・」
俯いたザンの鳶色の髪とマントを、突然の強風が吹き殴った。
ゴオッ!!
「!!」
ジァヴとザンは、驚いて城の方角を凝視した。
どこから現れたのか、巨大な竜巻が町を襲っている。
シノア王国を覆う巨大な天蓋、透明な膜のようなものが真っ黒な竜巻と衝突し、火花を散らしている。
「なに・・あれは・・」
――やめろ・・私たちをそっとしておいて・・
――こないで・・ここから立ち去って!!
(母上・・シー?)
ジァヴは、どこからか聞こえてきた家族の声に驚いて、辺りを見回した。自分とザンの他は、誰もいない。
パァン!
奇妙な攻防は長くは続かず、虹色に撓んだ膜は、風船が割れるような音と共に呆気なく破裂する。
――キャアアアアアアアアッ!!!!
――ああああああああああっ!!!!
「わああっ!」
その膜が砕け散った途端、ジァヴの全身を電気のような痛みが奔り抜けた。
膝が笑い、がくんと落ちる。
(なに・・今のは・・?)
ズゥゥゥン・・ドォォン・・
強固な城壁が、砂の砦のように簡単に崩れ去る。すると、竜巻はあの猛威が嘘のように勢力を弱め、吹き止んだ。
青空に黒煙が立ち昇る。
何が起こったのか、考える前に、空の彼方から巨大な鳥・・いや、飛行物の群れが現れた。
「あれは・・琺夜の翼馬部隊・・まさかこんなに早く!?」
ザンは驚愕に目を見開いた。グリニカの使者は、国を出てから五日でここまで辿り着いたと言っていた。ということは・・琺夜は僅か十五日でグリニカ、リーファスを落とし、シノアに魔の手を伸ばしたと言うのか。
(まずいぞ!!まだ島々の軍は誰が将になるか揉めている。今指示を出しても、入り江から動けないのでは・・)
「このままじゃ・・!!」
真っ直ぐ城に向かっている空騎兵達を目の当たりにし、ジァヴは平静を失った。
「ホーエンクルータ!!」
ザンははっとした。
「ジァヴ殿下!いけません!お戻りになられては・・」
血相を変え、愛馬に飛び乗ったジァヴは後も見ずに城に向かって駆け出す。
「駄目だ!あなたはこんなところで・・!!」
ザンも慌てて馬に乗り、後を追ったが、馬を鞭打ち、拍車をかませるジァヴの速度に追い着く筈もない。
(迂闊だった!琺夜国王め・・!)
琺夜の軍は――双牙列島の島々と同じように――将軍達が互いに反目し合っている、とザンは聞いている。兵の数と経験値はどこの国の軍よりも優れているが、指揮官が互いに足を引っ張り合っていれば、統率は乱れ、行軍はそれほど速くは進まない。
そう考えていた。いや、こちらがそう思うように仕向けられた。
取り返しのつかない誤算・・大失態。
(ジァヴ様・・っ!!)
今彼女を失えば、『西』に未来はない。抵抗する力もない国々は、琺夜に従属する以外、生き残る道はない。
ザンは血が出るほど強く唇を噛み締め、ジァヴを追った。
第3章に続く