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第4章 Ná himigh uaim 〜置いて行かないで〜
赤と緑で彩色され、金色の渦巻が描かれた天井が目に入った時、ジァヴは大きく息を吐き出した。 「もう・・最悪」 怖い夢を見たせいで寝汗をかいているし、眠りが浅かったから体がだるい。 いつものように起き上がろうとして、全身に痛みが走った。 寝違えたのか?まあいいか。もう少し寝ていたらリズクが起こしに来るだろう。全くリズクったら、年頃の婚約者の部屋にノックもなしでいきなり飛び込んで来るなって何度言ったら分かるのかしら・・ 「・・・・」 扉を軽く叩く音を聞いて、ジァヴは涙を流した。 どんなに待っても、もう、リズクがあの扉に額をぶつける音は聞こえて来ないのだ。 「おはよう、ジァヴ殿。邪魔するぞ」 琺夜国王が部屋の中に入って来て、寝台を横切り、南の窓のカーテンを開ける。 横目で見た空は、夜明けか日暮れの色だ。 どちらなのか知りたかったが、自分から会話を促す気にもなれず、黙っている。 ジァヴはぼろぼろだった。 ライカンに殴られた顔は腫れ上がっているし、腹の辺りは包帯に圧迫されて苦しい。かなり見苦しい姿に違いない。 (・・ホーエンクルータ) 王には、大した傷を負わされてはいない。騎馬のホーエンクルータは、ジァヴが逃げようとしたばかりに殺されてしまったが。 ジァヴは負けた。 どんな戦いをしたのか、よく覚えていない。禄に戦うこともできない内に、圧倒的な気魄に押し潰されてしまった。 憎しみも怒りも忘れ去る恐怖でジァヴの気力をぺしゃんこにした王は、今は日暮れの凪いだ海のような穏やかな目をしている。いつ荒れ狂うか分からない、底知れなさを秘めつつも。 「戦死者を全て回収したが、全員をシノアの慣習に従って葬ることは難しいな。小船の製造が間に合わず、人手も足りぬ」 ぼんやりしていたジァヴは、一拍置いて、王が葬儀の話をしているのだと理解した。 シノア王国で人が死ぬと、死者を遺品と共に小船に乗せ、火をつけてアウリア海に流す。だが、そんなことに何の意味があるというのだろう?二度と帰って来ない船出などに。・・いや、 「・・船ならあるわ」 ジァヴは天井の渦巻模様を目で追いながら言った。 始まりがどこで終わりがどこか分からない、決して途切れることがなく、繋がり続ける永遠の螺旋。 「軍艦から浜に降りる為の小船がある。そんなに数はないけれど」 窓辺からゆっくり歩いていた王が、寝台の側でぴたりと足を止めた。 「双牙列島諸国の軍がこちらを睨んでいるのに、船は必要ないと?」 ジァヴは仕方なく王の顔を見た。全て読まれている。 「・・琺夜は海戦が得意でしたか?あなたの祖父は、アウリア海でセルズの海軍に大敗した。もし本当に双牙列島諸国の軍が攻めて来たとしても、海で戦う気はないのでしょう?」 王は微笑んだ。憎たらしいほどに美しい笑みだ。 「馬鹿を相手にするように話す必要はない、ジァヴ殿。我らの武器は豹の肢と牙だとも。鮫の鰭と歯には分が悪い」 ジァヴは力の入らない指をシーツに食い込ませた。 思った通り、この男はシノアの兵を捨て駒にするつもりだ。海でシノア軍が双牙の軍を痛めつけ、陸で琺夜軍が止めを刺す。不従順な者達の数を減らして、纏まった反乱を未然に防ぐこともできる。効率的な作戦だ。 「・・奴隷の軍は弱いものよ。それに、兵士たちが裏切るかもしれないわ。島々の民はシノアの友なのよ」 「そなたがここにいるのにか?陛下」 ジァヴは目を閉じた。 「・・そんな呼び方、しないで」 この男は、まだシノア王国がシュリトゥーハル家の手にあるように言う。何もかも奪っておいて。 王は、ジァヴの部屋で一番座り心地のいい椅子に腰を下ろした。 金の縁がついた大きな鏡の側にある椅子だ。王の方を向くと、綺麗な顔の隣に、青痣が浮いて醜く腫れた顔が嫌でも目に入る。 「・・静かね。兵士達に何を言ったの?」 「何も」 ジァヴの不審がる視線に、王は片目を瞑って答えた。 「脅迫の条件をあえて明確にしたがるのは愚か者だ、ジァヴ殿。我らがシノアの民の恐れを現実にできることは既に示したからな」 「この・・人でなし!」 「ほう?」 罵倒に、王の目が細くなる。 武器を交えた瞬間の恐怖を思い出し、ジァヴは震え出した。 なんて馬鹿なことを言ったのだろう。何を言われても耐え忍ぶ方が、彼の機嫌を損ねるより遥かにましなのに。 ジァヴが怯えれば怯えるほど、王の瞳は冷ややかになった。だが、彼は不思議に怒りを堪えて、気取った仕種で前髪を掻き上げた。 「・・仲良くしようではないか、女王陛下。互いの為にな」 ジァヴははっとして、自分を女王と呼ぶ琺夜国王を見つめた。 「あなたは・・何をしようとしているの?世界に恐怖を撒き散らして・・」 「誤解するな。余は『西』の自由と幸福を願っている」 ジァヴはせめてもの反抗に、横を向いた。 「あなたの言う『西』に、シノアは含まれるの?」 耳に飛び込む、嘲笑。 「余がシノアの平和を乱し、そなたらの自由と幸福を奪ったと言いたいのか?」 ジァヴは、目を閉じた。 その通りだ。と、何も知らなければ言えただろう。が、 「・・・父は」 「ん?」 「父上は、『北』に住んでいる虹の親戚達の考えに共感していたわ。“自由”は、生きとし生けるものが生まれながらに持っている権利だと、彼らは言うの」 王は、まるで珍獣を見るようにジァヴを見つめた。 「・・“虹の民”とは、面白い奴らだな。彼らの歴史も決して闘争と無縁ではなかったろうに」 「ええ。でも今は、『北』に戦争はない。彼らの祖達が、血を流して平和を勝ち得たの。そんな甘い理想が現実になる時代を、子供達に遺したの。・・父上は、それが分からなかった。ただ、親戚達に憧れて、ここが決して理想郷じゃないってことを忘れようとしていただけ。この『西』で、まだ私達は自由を手にできるほど、強くはないのに」 ジァヴは目を開けて、敵の瞳を覗き込む。 「・・私が本当に女王だったなら、きっとあなたと手を組もうとしたでしょうね。同盟を結ぶに相応しい相手だと思ってくれている内に。でも、父上は跳ね除けた。私達が生き延びるには、たとえ血に汚れていたって、あなたの手を取るしかなかったのに。本当に愚かで・・怠慢だったわ。おかげで、もう命乞いしかすることがなくなってしまった」 王はジァヴの瞳を見つめ返し、いかにも優しげに微笑んだ。 「なまじ賢いと、辛いものだな」 「そうね」 その天使のような笑顔が恐ろしくて、ジァヴは震えた。 彼女の知る琺夜国王の評判は、暗殺を企んだ刺客の手足を切り落として首謀者の家に送り返したとか、反逆者の舌を切り取った上で城壁から逆さ吊りにしたとかいう、身の毛が弥立つようなもの。 そういう男なのだ。 (でも・・) 今のところ、――「侵略者にしては」という注釈を付けるなら――ジァヴに対する態度は紳士的だ。 ジァヴは自分の部屋を奪われていないし、城で略奪が行われている様子もない。 リズクの父親が贈ってくれた高価な紫水晶の香水瓶も、化粧台の上にそのままある。嫌な予感がした。 「・・私も殺すの?」 そんな筈がないとは思ったが、相手の反応を見る為に、ジァヴは質問した。 「いや」 王が言った。 「余はそなたに求婚する」 「!」 ジァヴは、毛布を握り締めた。 ようやく気づいた。なんて馬鹿なんだろう。 シノアの王位継承権を持つジァヴと結婚すれば、琺夜国王は正式にシノア王になることができる。そんなことを忘れていたなんて。 「・・拒否権は?」 王は驚いた顔をした。 「そなたがそれを問うのか?」 「・・・・」 何も、言えなかった。 求婚と言ったが、せいぜい妾の一人に加えるというような意味だろう。それにしても、目の前の侵略者は間違いなく厚遇を申し出ているのだ。 彼は、王国を跡形もなく叩き潰すことができるのだから。 (リズク・・リズク――) この申し出が半年後にされたなら、ジァヴは笑顔で受け入れたかもしれない。 この最悪の状況で、自分の身一つで国と領民を守ることができるなら、自分の心はリズクと共に死んだのだと割り切っただろう。 結局、それが古くからある女の生き方なのだ。自分の夫を殺した男のものになってでも、一族の血を伝えて行くことが。 だが今は。 恋人の記憶が、あまりにも鮮明だった。つい一日か二日前まで、リズクは側で笑っていたのだ。 「・・死んだ方がましだわ」 菫色の両目から滂沱と流れ落ちる涙を見て、王は眉を顰めた。 両王家の婚姻によってジァヴの地位は保障されるし、シノア王国も存続する。悪い条件を出したつもりはなかった。 「・・・リズク・・」 すすり泣きの合間に呟かれた名は、彼女の婚約者のもの。昨日の戦で死んだハルスター島の執政官の息子。気持ちは分からないでもないが。 (馬鹿か、この女?) 王は呆れ、そして微かな失望を感じた。 ここで他の男の名前を呼んだりして、俺が態度を豹変させたらどうするつもりだ。そう思ったが、 ――皆が皆、あんたみたいに冷血だと思うなよ。 思いがけず家臣の言葉を思い出して、咳払いをする。 脅して従わせるならともかく、口説いている(つもりらしい)のだから、多少は相手の気持ちを慮るべきなのだ。 ということで、王はジァヴを元気付ける方向で努力することにした。もっとも、次に選んだ話題からも分かるように、琅珂には、人を慰める才能があるとは言い難い。 「ああ・・そうだ。そなたの妹が会いたがっていた。快復次第行ってやるといい」 「なっ・・」 ジァヴは顔の筋肉が引きつる痛みに気づき、ぱっと顔を背けた。 (シー!!) シォダは生きているのだ。生きていてくれた・・ だが、喜びは同時に絶望でもあった。もし、自分が自害したとしても、まだシォダがいる。王位継承権を持つのは、自分だけではない・・ そう考えて、ジァヴは一つの呪わしい事実を思い出した。 「あら・・あなたの妹は、生かしておいたのね」 動揺を押し隠し、素っ気ない口調で言った。 シォダ・ニ・シュリトゥーハルの父親が琺夜の先王e葵であることは、シノア王家の公然の秘密だ。この忌わしい事実が、今は助けになるかもしれない・・ 「ああ。シォダ姫は使えぬからな。そなたには生きていて貰わねばならぬ」 王は、本当にあっさり言ってのけた。 多くのきょうだいを押し退けて権力を手に入れた彼が、今更、初めて会う肉親に対して情を見せる筈がなかった。 万策尽き、ジァヴは項垂れる。 「いいわ」 彼は間違いなくシォダの兄だというのに、何と似ていないのだろう・・ 「・・あなたに従う。だからあの子には何もしないと・・」 「誓うまでもない。分かっている」 約束して、王はちょっと肩を竦めた。 これ以上追い詰めるつもりはなかったのだが、結局脅しにしかならなかったか。 「前にも言ったが、余はそなたを高く評価している」 ありがた迷惑だ。 「そなたは覇者の器だ。そなたのような女を望んでいた、と言っても過言ではない」 冗談じゃない。 ジァヴは、奇跡的に罵声を飲み込んだ。 結婚を撥ね付けたら、この男が自分を生かしておく筈がない。そればかりか、シォダも諸共に殺されるかもしれない。 か弱い妹。今や世界でただ一人となった、大切な家族。 (シー・・) ――蛮族どもの慰み者になりたくはないでしょう? 返事をしようとした途端、頭に響く、声。 随分昔だったように感じるが、それを聞いてから、まだ二日も経っていない。 「・・疲れたわ。一人にして下さるかしら?」 王にはまだ話したいことがあるかもしれないが、一方的に会話を打ち切って、目を閉じる。 「ジァヴ殿・・」 「出て行って!!」 彼にこんな無礼を働く者は他にいないだろう、と思った。 だが、本当に疲れ果てているし、この位大胆になっても許される自信がある。プロポーズした相手を、普通は城壁から落としたりはしない。 この男が普通でなくとも、そんなことはしないだろう。 「っ!」 毛布を直そうと体の上に出した右手が、ひんやりした手に攫われた。 傷だらけの甲に押し当てられる、唇。琺夜族にとっては、貴婦人に対する最敬礼の挨拶だ。 「療養に励め」 王が扉を閉めた後、天井の渦巻を見つめながら、ジァヴは皮肉に頬を歪めた。 ジェイド――“あばずれ”か。 セルズ人が呼んだ名に相応しいじゃないか。 第5章に続く |
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