第5章 Licin 〜反撃〜

 いくつもの夜、いくつもの昼、ジァヴは夢を見た。

 カシュリン廊下ろうかを走って兄に怒られ、稽古けいこしょうして、木製のやりでリズクをぶんなぐる。

 そんなことを母に話すと、答えは返ってこないが、微笑みを浮かべてくれる。父はいつものように威厳いげんたっぷりに、玉座に座っている。シォダは大好きな花畑に座って、花を手折たおることもせず、のんびりと笑っている。

 その全てが、幸せだ。

 その全てが、むなしい。

 優しい人達と共に過ごす時間はこんなにも輝いているのに、泣きたくてたまらなくなるのは、きっとその全てが夢だと、心の底で理解してしまっているから。



 ある時、ジァヴはカシュリンの背後のクノックの上に立っていた。防風林ぼうふうりんのサンザシに花が咲いている。

 眼下には、石造りのカシュリン花畑ガリー。その向こうに牧草地、麦畑と、そう遠くない所に芝土しばつちの屋根がいくつか固まって見える。

 はるか彼方には海・・アウリア海も。

 ここからでは見える筈のない干拓地かんたくちに暮らす人々、石積いしづみ堤防ていぼう、それに、イリカのクアンを出入りする船、灯台トゥアハ・ソーレィスカモメフィーラーンの声も。

 いつもと変わらない祖国。いつもと同じ・・いや、

 ジァヴは、森の向こうのカリストーヴァ山が燃えているのに気がついた。ジァヴの名の由来でもある、菫翡翠ジァヴの採れる山が。

 鉱夫こうふ達が鶴嘴つるはしや斧を振り回して戦っている。・・琺夜ほうやの軍隊と。

 よく目を凝らせば、それだけではなかった。

 (・・あっちも、煙が上がっている)

 人々が煮炊にたきをする煙ではない。人が、家が燃えている・・

 いつも通りの生活を送る人々も、疲れ果てていた。遠くの村から上がる火を悲しそうに見つめながら、たきぎを割り、畑の手入れをしている。

 牧草地には、キァパルが一匹もいない。

 民の半分は、怒っていた。もう半分は、あきらめている。

 国境付近には、今も戦のあとが生々しく残っていた。

 遺体はもうないが、踏み荒らされた草原に、折れた槍やつるの切れた弓が亡霊ぼうれいのように横たわっている。

 城門には引きったような血の跡まで見える。父の・・

 「いや・・」

 ジァヴは弱々しくつぶやいて、ひざを折った。力が抜けて、ハシバミのしげみに倒れこんでしまう。

 現実なのだ。

 苦しくて、痛くて、悲しくて、辛い。

 これが、現実なのだ。

 「おねえさま・・」

 いつの間にか、隣にシォダがいた。

 「シー・・」

 ジァヴは目にあふれる涙をぬぐおうともせず、手を伸ばして妹を抱き締めた。

 「おねえさま。目を覚まさなくては駄目よ」

 シォダの、ジァヴと同じすみれ色の瞳は、しっかりと焦点しょうてんを結んでいた。それに、いつものように言葉がどもらず、なめらかに話している。

 悲しみで胸がいっぱいのジァヴは、そんなことにも気付きはしない。

 「いやっ・・嫌よ!!目を覚ましたって、辛いことばかりだわ!!私、このまま、ずっと眠っていたい!!もう誰も死ぬのを見たくない!!結婚なんて・・したくない・・」

 シォダは、いつもジァヴがしてくれるのと逆に、姉を抱き締めて髪を撫でた。

 「おねえさまがずっと眠っていても、人は死んでいくわ」

 ジァヴは、首を振った。

 「リズクがいないの・・母上も、兄上も!!私がいたから、あいつはみんなを殺したのよ!!」

 シォダは、姉の頭を強く抱いた。

 「それは、あの人の罪。おねえさまのせいじゃない。かなしみは、いえるものよ。大きなきずあとが残って、それは元に戻らないけれど、未来には、喜びだってあるの」

 「ありえないわ!!そんなこと・・リズクが死んだのに・・」

 「それでも、みんな、おねえさまを待っている」

 シォダは姉から離れ、燃えている村々の方を見せた。

 「みんな、かなしんでいる。それに、怒っているわ。おねえさまがそのままだと、人々はかなしんだり、怒ったりしたままではないかしら?いつまでも終わらないわ。おねえさまは、それでいいの?」

 その言葉に、ジァヴは欠片もなぐさめられはしなかったが、自分のするべきことを目の前に突きつけられたような気がした。

 王なのだ、自分は。

 望むと望まざるとに関わらず、自分にはまだ、守るべきものが残されているのだ。

 「シー・・」

 妹の顔を見た。シォダが自分を見てくれると思った訳ではない。が、彼女は半分泣いて半分笑った顔で、しっかりとジァヴの目を見つめ返した。

 「帰ってきて、おねえさま。にげるのもかくれるのも、大きらいだったでしょう?」




 大した怪我けがではない筈だが、一週間、二週間経っても、ジァヴは寝台から起き上がることができなかった。

 家族のとむらいを済ませ、愛馬の遺骸いがいを森に埋葬まいそうした後、急に高熱を出して、一時は昏睡こんすい状態にまでおちいった。

 軍医のエパノスは王を前にして、傷がんだことも原因の一つだが、何より、患者が精神的に弱りきっていることが問題だと言い放った。つまり、「お前が悪い」と。

 王は知らん顔をして戦後処理にはげみ、たびたび起こる小さな紛争ふんそう対処たいしょに追われていたが、三週間ってもまだジァヴが回復しないとなると、流石さすがに無視してもいられなくなった。死なれては困る。

 ジァヴを刺激しげきしないよう見張りを遠ざけ、少しでもその心をなぐさめようと、親しい者達を側に置いた。その甲斐かいあってか、ここ数日はようやく快方かいほうに向かっているという。



 「ジァヴ殿の様子はどうだ?ついでに貴様の脚は?」
 夕刻ゆうこく、カリストーヴァ山で勃発ぼっぱつした鉱夫こうふ達の抵抗ていこう鎮圧ちんあつして城に戻って来た王は、寝椅子にもたれて砂遊びをしているクレイに話しかけた。

 テーブルの上の大きな長方形の箱の中に、粒の細かい白砂が入っていて、中に船の模型やごく小さな人形などが散らばっている。大小の砂山は、シノア王国の海岸線と、アウリア海の島々の形をしている。

 クレイは無言で城の模型をつついた。

 王は箱に手を伸ばし、「鉱山」にあった敵の人形を全部と、味方の人形をいくつか取りのぞく。残った味方の人形は、それぞれ別の場所に移動させた。

 「脱走の気配は?」

 「・・ありません。彼女の部屋の出入りは、盲目もうもくのシォダ姫が一番多いですね。そのシォダ様が特定の誰かと多く接触しているということもなく、逃亡計画が進行しているようには見えません。

 ――が、逃げられても俺は追いませんよ。部下に追わせる気もありません、あんな化物。大事な兵をみすみす殺されたくはないですからね」

 「シォダ姫か・・」

 王は、ぴくりとこめかみを動かした。

 彼女はジァヴの妹だが、聞くところによると王の妹でもある。

 彼女と母親が共同で城を守っていた結界けっかいは、破るのに骨が折れる代物しろものだった。

 古くからシノアに住んでいるシュリトゥーハル家の一族は、この地の精霊達との結び付きが強い。この世ミガルの光を映さない双眸そうぼうは、精霊達の住む彼の世アズルクを、誰よりもあざやかに見ているのだろう。

 (あの子供・・今のところ害はないだろうが・・)

 クレイの右脚に巻かれた包帯と、寝椅子に立てかけてある松葉杖まつばづえをそれぞれ一瞥いちべつし、王は溜め息をついた。

 「・・嫌な戦いだ。ライカンの戦死、お前の戦線せんせん離脱りだつは痛かった。琺夜の軍門ぐんもんくだることを良しとせず、蜂起ほうきするのは民間人だ。我らにしてみれば名誉めいよある戦いなど到底とうてい望めぬが、敵は降伏してくれぬ。ただ押し寄せる者達を虐殺ぎゃくさつするのみ。兵達の士気しきも下がっている」

 「生き残った者達も、更に激しく我々に反発する。泥沼どろぬまですね」

 王は、砂の上に散らばる敵の人形に目を走らせた。

 琅珂は、人殺しが嫌いではない。むしろ、血を見ると気分が高揚こうようする。

 だが、そんな陰惨いんさんたのしみも、今はできるだけ避けたかった。民が多く生きているほど、後で得るものは多いのだから。

 それをいても、この状況はまずい。双牙そうが列島諸国がこの期に連合軍を送り込んで来るかもしれない。負ける算段はないが、長期戦は避けたい。

 琺夜の守りは外敵に対しては厳重だが、王が長く国を離れていると、野良猫のような貴族どもはすぐに誰が主なのか忘れて好き放題をするようになる。

 今のところ、長兄のマルヴェが自分を支えてくれているが、彼自身、王になりたがっている。決して完全に信頼はできない。

 (あの鉱山があれば、まず軍資金が尽きることはない。王女にしても・・俺に抵抗する力をつけない内に手に入れた)

 一番のかなめであった“ジァヴ”の確保かくほは叶ったが、気は抜けない。

 この遠征えんせいの目的が、王の個人資産、及び花嫁の獲得かくとくである、などということが知れ渡ったら、兵達は即座に若過ぎる王に失望し、排斥はいせきしようとするだろう。

 ここ数十年来の戦、それにともなう難民の急増きゅうぞう、田畑を焼かれた農民の流入によって、琺夜の軍人ミリテールは年々増え続けている。

 彼らは確かに琅珂の力になってくれたが、スノゥリィ家は決して金持ちではない。

 彼らをやしなう為の資金が底を尽きかけているなどと、どうして大っぴらに言えようか?ただでさえ、裕福ゆうふくな異母兄達が親衛隊から優秀な兵士達を引き抜こうと待ち構えているのに。

 「・・・・」

 王は机の上にあったルーペを取り上げ、大きな張り出し窓の中に座った。

 「この戦局せんきょくにジァヴ様が加われば、事態じたいは大きく変わりますが」

 クレイが「シノア城」の模型を見ながら言った。

 王は、持ち上げた凸レンズ越しにクレイを睨みつける。

 「分かっておるなら、ふざけたことをほざくな。・・彼女を解き放てば、今は分散しているこの者達をまとめ上げ、時期を置き、必ず強大な敵となって余に盾突たてつくだろう。たとえ百の兵を失っても、逃す訳にはいかぬ」

 それだけの予感がする。

 ゆえに、一刻も早くジァヴをシノアの女王として戴冠たいかんさせ、結婚したい。

 シノアを含むクリシュエール地方と琺夜の支配圏であるガシュクジュール盆地ぼんち全域を統合とうごうし、ジァヴをその連合国の共同統治者にすれば、シノアの民も納得するだろう。

 彼女なら決して自分の邪魔にはならないし、うまく懐柔かいじゅうできればこの上ない味方にもなる。

 ルーペに集められた光が黒いマントに当たり、陽炎かげろうのような細い煙を上げる。沈みかけた日光は、マントを燃やすほどの熱は生まなかったが、少しげた臭いがした。

 シノア城には、複雑な製造工程をて生まれる硝子ガラスがふんだんにある。この城の窓や鏡は、セルズで作られ、海を渡って運ばれたのだろう。球状の吹き硝子を開いて平らにすることができるのも、これだけ繊細せんさいなものをこわさずに船で運べるのも、今のところセルズ人だけだ。

 「俺は、あの方がそれほどお元気だとは思いません」

 クレイは不満そうな顔であごの下をいている。

 「いい加減・・立ち直って貰いたいものだ。女王にしてやろうというのだから」

 まれに時間の空いた時には見舞みまいに行くが、ジァヴは大概たいがい眠っている。毎回毎回、うわ言で「リズク」とつぶやいたり、「結婚なんてしたくない」とむせび泣くのだ。

 溜め息をつく王に対し、とうとうクレイの癇癪かんしゃくが爆発した。

 「・・・・」

 松葉杖で真っ二つに割られた砂の箱。

 地形は崩れ、人形や模型も吹き飛んだ。これが実物なら破局的大被害カタストロフだ。

 王は「本当にこれをやったらどうなるだろうか」などと考えながら、座っているからほぼ同じ高さにあるクレイの顔を見つめた。

 「・・あんたの、叡慮えいりょも、今回ばかりは虫唾むしずが走る」

 吐き出すように言われた言葉に、王はちょっと苦笑いする。

 この男の意見など、分かりきったことだった。今まで爆発を抑えていたのが異常なぐらいだ。大方、自分の失敗に引け目を感じ、我慢していたのだろう。

 「気に入らないか」

 クレイは、ぷいと顔を背けた。

 「気に入らないね!あんたのやり口は、最低だ。俺に言う資格しかくもないが、あんたはそれすら分かってねえようだから、言わせて貰う」

 「ジァヴ殿とて王家の娘だ。それなりの覚悟があってしかるべきだろう」

 「だったらさっさとものにして既成事実きせいじじつでもこしらえちまえ!その方が向こうもあきらめがつく!!」

 頭に血が上って、とんでもないことをわめき立てたクレイは、一瞬後にはっとして王の顔を見た。

 「・・・・」

 ところが、王は目を丸くして、物凄くびっくりした顔をしている。

 「も・・」

 「陛下?」

 「・・ものにする?フェオ、俺は――いや・・そうか」

 (こいつ・・さては・・)

 その表情から全てをさっしたクレイは、大いに脱力した。

 「全然考えてなかったのかよ・・だから、そういうことだろうが」

 開いた口がふさがらないとはこのことだ。

 王が結婚を、ただの政略的せいりゃくてき、儀礼的な同盟としか考えていなかったのは明白で、

 「・・うん」

 珍しく弱々しい返事にも、最早もはや返す言葉もない。

 クレイは気を取り直し、右手で松葉杖をついて立ち上がった。

 「って言うか、霞紗カサ皇女のこと覚えてるか?また泣くぞ、あの姫様」

 「うるさいな・・忘れる訳がないだろう。俺が彼女の他にも妻をむかえるだろうことは、サフェイス、ルベウス両家も了解りょうかい済みだ」

 「ほーお?ああ、そうかい。知らねぇぞ。怖い近衛騎士このえきしがシェオ・フローリィの天井ぶち破って来て、あんたに脳天逆のうてんさか落としを食らわしても」

 リアルにその場面を想像したのか、王は仏頂面ぶっちょうづらになった。

 「・・嫌なことを言ってくれるな」

 クレイは軽く首を振って、話をジァヴのことに戻した。

 「向こうはあんたの子供を産むことまで考えてるぞ」

 言った途端、王の顔がうぶな小娘みたいに(クレイ談)ぱっとあかくなった。

 「・・迂闊うかつだった。結婚すれば、夫としての義務ぎむも当然派生はせいするのだったな。・・うむ・・・・しかし」

 「あんたは、父親を嫌ってると思ってたが」

 「!」

 琅珂は、息を呑んだ。

 「・・・・」

 何か言おうと唇を開きかけ、結局、沈痛ちんつう面持おももちで下を向く。

 「あんたが欲しいのはこの国でも、それにはお姫様がもれなくついて来る。お姫様は人間なんだ」

 「・・ああ」

 「好きな男が死んだばかりなんだ。気丈きじょうじゃいられない」

 「・・・そうだな」

 おこりもせず、素直に反省している王を見て、クレイは呆れつつ、少しほっとした。

 「・・まだ部屋を訪ねてもまずい時間じゃねえ。ジァヴ様を見舞いに行っちゃあどうだ?」

 クレイは、親指でジァヴの部屋の方角を指した。

 ジァヴの運命は変わらないかもしれないが、王はせめて、彼女をひどい目にわせている自覚を持つべきだ。




 「・・・・」

 部屋の扉を開けると、ジァヴが座っている寝台の隣には、妹姫のシォダがいた。

 優しく笑っていた顔が、自分に向いた途端とたん苦虫にがむしつぶしたように変化したのを見て、琅珂はいきなり、かなり機嫌が悪くなった。

 もっとも、初めから歓迎かんげいは期待していない。いつもの感情のない声で問いかける。

 「体は良いのか?」

 「ええ・・・あなたととこを共にできる程度にはね」

 やつれ果てた顔で、そんなことを言う。覚悟を決めた、ということなのだろうが、

 (な・・何と気の早い・・)

 琅珂は、衝撃のあまり立ちくらみ、いつもの髪を掻き上げるくせでごまかした。

 「おねえ、さま?」

 姉の張り詰めた声に驚いたのか、不安そうな顔をするシォダの頭に手を置いて、ジァヴは何でもないと微笑む。

 「・・・・」

 一瞬だけ、盲目のシォダが琅珂の目を見た。

 彼のそれとそっくりな、黒豹スノゥリィの目で。

 (・・牽制けんせいのつもりか?)

 琅珂は、シォダとも約束を交わしていた。

 これ以上、この地の精霊を争いに使わないことを。

 これ以上、ジァヴの身を傷つけないことを。

 シォダは姉を守る為に何でもする気だったが、琅珂は自然界の統制とうせいを掻き乱して碧帝セレスト・アンプルーを敵に回したくはなかった。ジァヴの命を保障してやるだけで天空の民シエリスタがしゃしゃり出て来るのを避けられるなら、安いものだ。

 それにしても、勝手に互いが人質ひとじちになるとは、何と強い愛情で結ばれた姉妹だろう。馬鹿馬鹿しい。

 「・・では今夜また、ここに来よう」

 むかむかしながら、琅珂は言った。気乗りしないが、面倒事は早い内に終わらせた方がいい。

 「あら、本気にしたの?ちょっとした意地悪いじわるだったのに」

 ジァヴは子供子供した外見の彼をじろじろ見て、ぎこちない笑みを向けた。

 何とか仲良くしなければならないと必死のようだ。その態度が、彼の神経を逆撫さかなでするとも気付かずに。

 「余の言葉もそう聞こえぬか?」

 その一言で、ジァヴは凍りつく。

 (・・しまった)

 他人を傷つけることにけ、その逆など思いもよらない琅珂は、腹立ちまぎれにいつもの調子でやってしまったことを後悔した。

 お前のことなど好いてはいないが、嫌がらせに抱いてやろう――どうやら、ジァヴはそういう意味に受け取ったようだ。

 せっかく元気を取り戻しつつあるというのに、また一月寝込まれたら・・

 「いいわ」

 ジァヴは、冷ややかな声でそう言った。

 「私は“ジェイド”なんだもの。どうぞお好きに!ああ、でも体を洗ってそのぐしゃぐしゃの髪をかした方がよろしいわ。血生臭ちなまぐさくてよ!」

 「・・何?」

 「琺夜族のくせに、女性に対する礼儀も知らないのね。出て行って頂戴ちょうだい!!私の民の血で汚れた手で触らないで!!」



 琺夜国王が益体やくたいもなく部屋を出て行くと、ジァヴはわずかながらも溜飲りゅういんを下げた。

 (ざまぁ見ろだわ。私にこんな屈辱くつじょくを与えたこと、絶対後悔させてやる!)

 ジァヴは、計画を実行に移す時が来たと感じた。

 ひっそりと、迅速じんそくに動く必要がある。

 (見てなさい・・夏の嵐ザク・ハロームが来る前に、嵐を起こしてやるんだから!!)

 まず心を許せる侍女カリーンを通して、父の側近達を呼び寄せた。

 しばらくシォダと話をして、そろそろ客が来る時間になると、扉の外にいた琺夜の兵士に、シォダを部屋まで送って行くよう頼んだ。

 目が見えないシォダが転ばないように、と言ったらすぐに引き受けてくれたが、彼はシォダが一人でここまで歩いて来たことを知っている。だから、シォダには今にも眠ってしまいそうでうまく歩けない演技をして貰うことにした。

 琺夜族はシォダを実際以上に幼いと思っていて、しかも王の親族としてうやまっているようなところがあるから。

 最初は六人だった部屋の見張りは徐々に減り、三日前からは二人になっている。琺夜の兵達は、何故かジァヴを見張る仕事に積極的でない。

 交代にはしばしば時間がかかり、片方の交代時間を狙えば、今のように一人という時もある。

 その一人にシォダを任せた今、見張りはいない。シォダの部屋は離れにあり、更に彼女の足は遅いから、行って戻るのに15分はかかる。

 怒って飛び出した王が、まだ部屋の近くにいるという事はないだろう。

 かくして、シォダを見送ってから48秒後、壁に作り付けの大きな姿見すがたみが、かちんと音を立てた。

 第一関門かんもん突破とっぱだ。

 「どうぞ。入って頂戴ちょうだい

 鏡がどんでん返しに裏返り、壁の中からぞろぞろと男達が出て来る。

 全員そろうと、静かにジァヴの前にひざまずいた。

 “王の盾アラマス・ナ・リィ”と呼ばれる彼らは、シノア王の親衛隊。本当なら殺されていてもおかしくなかったが、ジァヴが寝込んだ後、琺夜国王が機嫌取りに彼らを解放してくれた。

 彼らの中にはジァヴをうやまっている者も、内心で馬鹿にしている者もいたが、全員がそのことを感謝していた。あるいは、少なくとも借りを感じていた。

 「“レーシュ”・・そう呼んでも構いませんか?」

 ジァヴは居並ぶ男達の、最も年長の一人に声をかけた。

 古代ラニオ語アルヘア・グラマの一文字で呼ばれる、二十二人の武人達ラエシュリー

 王位が世襲せしゅうであるように、“王の盾アラマス・ナ・リィ”もまた、父から息子へとその名を受け継いできた。

 だが、今ここにいるのは十六人。六人は、主、クローハルにじゅんじた。

 「・・そのようにお呼び下さい。我らは王をおまもりできず、オシアン様もお亡くなりになられた。今や我らの主はジァヴ様、あなたなのですから」

 「牡牛アレフベートダレットヴァヴ武器ザインヨッド牛追棒ラメッドメムヌンアインペー釣り針ツァディ針の穴コフレーシュシンタウ・・これからよろしくお願いします」

 ジァヴは一人一人を呼んで、その名と顔を覚えた。

 (・・全員を味方にしなければ。彼らが私を尊敬し、私の命令に従うようにしなければならない)

 その為に、敢えて十六人全員を呼び出すリスクを負った。

 琺夜側に気取られず、彼らの信頼を得ることが、第二関門。

 鋭い目をした髭面ひげづらのごつい男達を睥睨へいげいし、ジァヴは外に聞こえない程度に、精一杯声を張り上げた。

 「時間がありません。まず、教えて下さい。私が眠っていた間、海から双牙そうがの軍が攻めては来ませんでしたか?その兆候ちょうこうだけでも?」

 これに、皆は怪訝けげんな顔をした。

 「残念ながら、そのようなことはありませんでした」

 「そのようなことはない?双牙が動いている気配はないのですか?」

 「はい。海はおだやかです」

 答えた“レーシュ”に、ジァヴはわざと嘲笑ちょうしょうするような笑みを見せた。我ながら、琺夜王の真似はうまくいっている。

 「琺夜の軍が我らを制圧せいあつするのが、あまりに早かったのでしょう。シノア軍は、琺夜に対して、ませ犬にすらならなかったのですね」

 主を失いながらおめおめと生き残った彼らはじて、深く頭を下げた。

 この戦で最も勇敢ゆうかんに戦ったのは、誰あろう、この王女だ。ジァヴが琺夜の将軍一人をち取り、一人を戦闘不能にさせたことは、この戦で唯一の華々しい反撃だった。

 (確かに、琅珂の方が一枚上手だったわね、ザン・・)

 ジァヴは心の中で呟いて、目を閉じた。

 唇の下に人差し指を当て、考える。

 自分にできることは限られている。

 シノア王国の海岸線、双牙列島諸国の行動、侍女から聞いた琺夜軍の現状、ザンの思惑おもわく・・様々な情報が脳裏のうりけ巡り、一つの形となる。

 やがて、ジァヴは目を開け、まくらの下に手を入れた。

 「あなた達の内、誰でもいい・・トトラ島と、ターフ湾。そこに、これらの手紙を届けて欲しいのです。おそらく――いえ、絶対に、双牙列島諸国の海軍がいる筈ですから。勿論、こんなことをあの琅珂が許す筈はありません。だから、表向きは、リズク・マク・スイヴナの遺体いたいを故郷へ運ぶ役目を申し付けます。クアンを出て、この国が見えなくなってから、針路を変えて下さい」

 武人達は、ぎょっとした。

 誰もが、これからはか弱い姫君を真綿まわたくるむようにお守りするのだと思っていた。

 病み上がりのこの弱々しいジァヴから、まさかこのような命令を下されるとは。

 しかも、

 「トトラ島とターフ湾・・ですか」

 “王の盾アラマス・ナ・リィ”の一人、“武器ザイン”がうなった。

 (王の一族は精霊シーの話が聞けると言うが、素晴らしい直感・・)

 ジァヴは何の予備よび知識もなく、アウリア海側からシノアに対する攻撃準備をしていたとして、軍艦ぐんかんを隠すのに最適さいてきな場所を上げた。

(・・否!)

 その時、ジァヴのすみれ色の瞳を見て、ザインは歓喜かんきに震えた。

 彼女は歴戦の勇士の目をしている。その白刃しらはきらめきにも似た光は、今まで出会った誰のものよりも強い。

 今言ったことも、単なるその場の思いつきではないのだろう。彼女はその頭の中で、何百回と戦ったに違いない。

 他の“王の盾アラマス・ナ・リィ”達が口々に述べる。

 「殿下、何故、そこに双牙の軍がいると思われるのです?」

 「彼らが我々を琺夜の支配から救い出してくれるなどとお考えなのですか?」

 「お言葉ですが、それは随分ずいぶんと甘い幻想げんそうかと・・」

 突然、ジァヴは大声を上げて笑った。

 けた頬が引きつり、大きな目が今にも飛び出さんばかりの壮絶そうぜつな笑顔に、皆はびっくりして後退あとずさる。

 笑い止んだジァヴは、居並ぶ彼らを鋭い目で睨みつけた。

 「幻想!?それをいだいていたのは私じゃないわ!琺夜がシノアに攻めて来る筈がないなんて、甘い幻想を誰が信じていたの?父上、兄上、そしてあなた達だわ!!あなた達は、この戦で己が無能であることを証明したでしょう!あんな見苦しい敗北の後で、まだ私に意見しようと言うの!?」

 ジァヴはまくし立てた後、寝台から足を下ろし、立ち上がった。

 声量を落として、続ける。

 「・・この手紙を見れば、双牙は絶対に動くわ。勿論、私達を助ける為なんかじゃない。自分達を守る為よ!琺夜はシノアの次に、双牙をも攻めるんだから!でも、それは私達の得になるの!いい加減に、一度ぐらい、私の話を聞きなさい!!」



 「・・・・」

 静まり返った武人達ラエシュリーの中から、“レーシュ”が一人進み出た。

 深々とこうべを垂れ、フェルトのスリッパをいたジァヴの足に口付ける。

 「・・お言葉に従います、我が女王様モ・ヴァンリァン聡明そうめいにして勇猛ゆうもうなる主よ」

 ジァヴは第二の試練を越えた。



 第6章に続く