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第9章 Éadóchas 〜絶望〜
鏡の裏には、暗くて幅の狭い螺旋階段があった。ここから上に登ると、誰にも知られずに王の部屋に辿り着ける。 だが今は、ザンは二人に階段を下りるよう促した。 一人が歩くのがやっとの幅だ。ザンが先に行き、王を間に挟んで、ジァヴが一番後ろを歩くことになった。 「ランプを点けます。ジァヴ様、危険な場所があれば、教えて下さい」 ザンは、ちらっと王を見て言った。 普通は、こういう通路を通る時には灯りをつけない。もし隠し扉の隙間から灯りが漏れてしまったら、隠密行動の意味がない。 だが、琺夜族は全くの暗闇でもものを見ることができる。王一人に有利な環境を作り出すぐらいなら、そちらのリスクを冒した方がましだ。 「・・ええ」 ジァヴは頷いて、前を歩いている王を見つめた。 王は幼い美貌にきょとんとした表情を貼り付けたまま、きょろきょろと頭を動かして、積もった埃の上についた足跡や、壁の蜘蛛の巣を掃った指の跡を見ている。 (数えてるんだわ・・) それぞれ大きさや形の違う、数種類の足跡。全部見分ければ、最近ここを通った人数が割り出せる。 琺夜族の熱視覚は、暗闇で生き物の発する熱を見ることができるが、冷たい無機物の形を見るには適していない。 ザンは用心深さから、勝手に灯りを点けてしまった。 「・・・・」 ジァヴは絶望的な気分だった。 何もかも、この男の思い通りになっている気がする。 ザンは正確に城の裏道を移動して、更に海岸へと伸びる地下通路へ二人を連れて行った。 しばらく歩き続けると、埃っぽい空気がべたついたものに変わり、磯の臭いがするようになった。 最後の角を曲がった時、急に空間が広くなり、波に洗われる岩が目に入った。 喫水の浅い小船が、長いロープで近くの岩に繋がれている。藤壺のこびりついた石の上に、船体が半ば乗り上げてしまっていた。 「しまった・・満潮に漕ぎつけたんです。ジァヴ様、すみませんが、船を押して頂けますか?」 ザンは言いながら、繋いだロープを緩めて引っ張り、船を水に戻そうとする。 ジァヴが水に入ろうとすると、王が腕を上げて止めた。 「俺がやる」 王はマントを脱いでジァヴの手に押し付けると、腿まで水に入って船に近づき、軽く手を触れた。 引っかかっているセンターボートを動かすにはかなり押さなければならない。筈だが、船は嘘のように水に滑り落ちる。 ジァヴは急いでザンの姿を探したが、彼は下を向いていた。 「よし!ありがとうございま・・・す」 顔を上げて礼を言ったザンは、船を押していた人物がジァヴではなかったと知るや、罰の悪そうな顔をした。 「その岩を回って左舷から乗れ、ジァヴ殿。足が濡れずにすむ」 ザンはさっさと船に飛び乗ると、まずジァヴに右手を貸して船に登らせた。 「陛下」 それから王にも左手を差し出したが、彼は気がつかなかったふりをして、船尾に手を引っ掛け、軽い身のこなしで飛び乗った。 「っ!船を揺らさないで下さい!転覆させるつもりですか!?」 バランスを崩して船縁にしがみついたザンに、王はくりっとした目を向けて、可愛らしく髪を揺らした。 「いや、貴様を水に叩き込んでやろうと思ったのだが」 「・・・・」 ザンはむっつりとして櫂を手に取り、漕ぎ出した。 洞窟は天井が低く、頭の上を蝙蝠が飛んで行く。特に岩が突き出しているようなところでは、時々引っかいたような跡が見える。 おそらく、ザンが来る時に帆桁や帆柱がぶつかったのだろう。今より水面が高かったのだから。 出口に近づくと、周囲はぼんやりと明るくなり、もっと色々なものが見えるようになった。 ザンの疲れ果てた表情とか。濡れて脱ぎ捨てられた王のブーツとか。猿のように器用に船底の出っ張りを掴んでいる足指の先とか。 蝙蝠の鳴き声が遠ざかり、次に聞こえたのは海鳥の声ではなく、人の喚声だった。 複雑に入り組んだ岸壁に視界が遮られ、遠くが見えない。だが、ひとまず合戦が始まっていることだけは分かった。 「ジァヴ様、帆を上げます。そっちのロープを解けますか?」 ジァヴは、ぴくっと眉を上げた。 今はまだ凪いでいるが、もうすぐ進路と逆に風が吹きつけてくる筈だ。 「風を呼びます」 ザンは簡潔に言って、これ以上の説明が必要かどうか、間を置いた。 「・・さっき、壁に穴を開けたみたいなこと?」 ジァヴが言うと、ザンは怪訝な顔をした。が、ひとまず頷いて、一番後ろに座っている王を見る。 「しっかり掴まっていて下さい。飛ばされますよ」 王は一瞬だけ片方の眉を吊り上げたが、何も言わずに組んでいた腕を解き、腰を屈めた。 四角い帆が広がった途端、それは不自然に大きく膨らんで、爆発的な速度で船を飛び出させる。 「なっ・・何と雑な風使いだ!」 強風に弄られ、半ば目を閉じた王が喚くと、ザンは不機嫌そうに振り返った。 「シノアの風は私のものではありませんから!シォダ様には敵いませんよ!」 「だろうな!貴様の風は泥臭いハンタブリッジのにおいがする!」 「陛下は苔臭いメイシャのにおいがしますね!・・不気味なことに!」 「・・・・」 ジァヴは、風に負けないよう大声で交わされる会話に、今一つついていけなかった。 何故ここでシォダの名が出てくるのか。彼らの言う「におい」とは、何かの暗喩なのだろうか。 「・・今日も霧が出てるわ。だんだん・・濃くなってる」 岸壁の角を通り過ぎると、目の前が真っ白になった。振り返ると、後ろは晴れている。 「“霧幻の貴婦人”とは、変に美々しい渾名だが、確かにこの国では霧を良く見る。それも、イデリイの澱んだ霧とは大違いだ」 「セルズの都を貶されても、別に私は傷つきませんよ」 「ならば口を出すな。島の生まれならアウリア海の風ぐらい手懐けておけ」 「それは失礼致しましたね!」 「ザ・・ザン?」 ジァヴは首を捻った。 最初は気のせいかと思ったが、どうやらザンと王は口喧嘩をしている。 「愛しの姫君が呼んでいるぞ!」 「分かっています!・・何でしょう、ジァヴ様?」 ジァヴは少し躊躇ってから、口を開いた。 「あの、手紙を・・」 ザンは表情を変えた。 「はい。読みました。今、双牙の全軍がイリカの港を襲撃しています。琺夜の連隊二つや三つなら、蹴散らせるでしょう」 「全軍ですって!?」 ジァヴはザンの襟首を掴んだ。急に動いたせいで船体が傾いたが、それどころではない。 「どうしてそんなことをしたの!?私は、囮の軍が港を襲う間に、あの洞窟を使って兵を城に入れろと書いた筈よ!!そうしたら、琺夜国王やクレイ将軍の首を取れたかもしれなかった!私の“盾”は・・」 「ええ、彼らは嘘をつきました」 ジァヴはこれ以上ないほど目を見開いて、動きを止めた。 「首を取れたか・・本人の前でそれを言うか?」 後ろの王が、わざとらしく落ち込んだ声を出す。 「・・・・何ですって?」 ザンはジァヴの手を振り払い、小船の舳先についた渦巻の飾りを見つめた。 「ジァヴ様、手紙をラニオ語で書かれていましたね。琺夜側に奪われた時の用心でしょうが、島々の指導者達も、誰もラニオ語が読めなかった。私以外は。だから、あなたの部下の言う通りを信じたんです。現在、琺夜側に指揮権を行使できる将軍はいない。攻めるなら今だと」 ジァヴは、座っていて良かったと思った。立っていたら、確実に足が萎えていただろう。 そういう障害を、予測しなかった訳ではない。だが、ザンには通じると思っていた。いや、ザンは分かった上でこの行動に出たのだ。 「・・・説明して」 ザンは、ジァヴから目を逸らしたまま、頷いた。 「リズク様には、非嫡出の兄がいます。知っていましたか?」 ジァヴは首を横に振った。別に驚くべきことではない。権力と財力を持った男の多くが、私生児を作る。 「正嫡の息子が死んだと聞いて、スイヴナ様が考えたのは、その方を嫡出子として認め、あなたの夫としてシノアに送り込むことでした」 「・・リズクは、シーに同情してたわ」 ザンはもう一度頷いた。 「ところが、他の島長達は反対しました。特に、我が父ニーツァイセンが。リズク様が死んだなら、ハルスター島の王子とシュリトゥーハルの王女との婚姻は無効だと。そして・・ばかげたことに、連合国の中で、王女と結婚できる島長の子は他にもいると言い出したのです」 ジァヴは何の感情もない目で、ザンの背中を見た。 「―――あなたが?」 ザンは特に反応を返さず、話を続けた。 「父とスイヴナ様は、互いを詰り、言い争いました。それに、他の長達も加わった。そして、これほど揉めるなら、いっそなかったことにしようと言い出す者まで現れました。島長の跡継ぎがシノアの王になることなど、確かに誰も考えてはいなかった。どの島の長も、シノアの資源は喉から手が出るほど欲しいものです。ですが、それを求めるあまり互いに反目し合い、連合を台無しにするようでは、せっかくの宝も災いでしかない、と。皆は、ひとまず同意したのです」 「平和的解決、という訳ね」 ジァヴは言って、空を見上げた。 真っ白だ。 「そう・・そんな人達の息がかかった兵士達を城に入れたら、私は殺されるわね。どさくさに紛れて私が死ねば、争いの種は消える。そして、あなたは私の命を守ろうとした家臣達まで味方にして、まんまと抜け駆けしたってこと?」 「違います!!」 ザンは振り返って、怒鳴り声を上げた。 「・・違う?なぁに?私を助けに来たとでも言いたいの?」 ジァヴは、もうどうでもいい気分だった。 ザンまでもが・・ どいつもこいつも、私を結婚式の席に引っ張って行こうとしている。本人の意向など、まるで無視して。それも、私の夫になりたい奴らは、シノアの玉座と結婚したいのだ。『ジァヴ』のことなど、まるで見ていない。 ザンは苦しそうな顔をした。ジァヴの両肩に手を置き、囁く。 「・・・あなたに生きていて欲しかった」 それは、真摯な言葉だった。 一瞬信じそうになったジァヴは、勢いよく顔を背けた。頭の上で束ねた黒髪が、ザンの顔を殴る。 「これからどうするつもり?私を連合国の長達の所へ連れて行くんでしょ?」 「今は、もう無理です」 ザンは淡々と言った。 「私は、琺夜の軍事力を侮ってはいません。いくら数に勝ろうと、正面から攻撃して、勝てる訳がない。それでも、あなたを連れて逃げるまでの時間ぐらいは稼いでくれるでしょう」 「はあ!?・・・はぁ」 有り得ないことを聞いた。眩暈がする。 ザンは、連合国を――ナギ島を守ろうとしていたのではなかったのか? ジァヴは、もう十分驚き過ぎていた。これ以上の異変を受け入れる心のゆとりはなかった。 「・・どこに逃げるの?」 ザンは、少しだけ皮肉っぽい笑みを浮かべた。 「セルズです。クレオナント王も、あなたの身柄を琺夜側に取られたくはない筈ですから。琺夜国王まで連れて行けば、一も二もなく受け入れてくれるでしょう」 「・・そう、ね・・」 ジァヴは額に手を当てた。頭にまで靄がかかったようだった。 ザンの考えが、分からない。一体何が起きているのか・・ 「・・回りくどい」 ジァヴは、思わず首筋に手を当てた。 冷たい。 「ザン・マク・ニーツァイセン。率直に誘え。『お前と駆け落ちしたい』と」 振り返らなくても、分かる。 王が、こちらを睨んでいる。小さな体から、異常なほどの威圧感を発して、そこにいる。 今まで、その存在さえ忘れかけていたのに。彼は、こんな風に自在に自分を変えられるのだろうか? 「投げ捨てたい重荷なら、余が攫ってやっても良い――と言うつもりだったが」 王はにっこりと微笑んで、前髪を掻き上げた。 さっきまでと同じ、愛らしい微笑なのに、もうそれには冷たい刃の鋭さしか感じない。 「・・奪って行くしか、ないようだな」 船縁に腰掛け、腕を組んでいる王を睨み返し、ザンは小さく息を吐いた。 「やっぱりそうか」と「信じたくなかった」が交じった、苦悩の溜め息。 「陛下・・落ちますよ」 言って、軽くジァヴを突き飛ばす。 ザンの足元から、風が巻き上がった。空気の渦が痩せた体の回りを疾り抜け、掠めた帆布をずたずたに引き裂く。 鳶色の髪が逆立ち、天を衝いた。 王は、ふんと鼻を鳴らした。 最後の演技――作り物の笑顔さえ消し去り、ぎっと目尻を上げる。 「初めから震えていたろうに――下らぬ威嚇は、止せ」 その声のあまりの冷たさに、ジァヴは自分の体を抱いた。 左右異色の煌きと同時に、体感温度が氷点下になる。 ばん! 何かがぶつかり合う音がして、ザンの体が撥ね飛んだ。 船から弾き出され、大きな水音を立てて落ちる。 「ザン・・・?」 声を上げる暇もなかったのか。 波と霧は、あっという間にザンを飲み込み、辺りが静まり返った。 「ザンっ!」 ジァヴは櫂を握ったが、ますます霧が濃くなり、どこに落ちたか分からない。 途方に暮れていると、飛び散った布の欠片が振ってきた。 「あ・・」 ザンの着ていた上着の色。それに血がついているのを見つけて、ジァヴは泣きそうになる。 「ザン・・ザン!!返事して!!お願い・・っ!!」 ジァヴは櫂を漕いで、何とか音がした方に船を動かそうとした。 ザンは、友達だった。 彼が腹の中で何を考えていようと、悩む必要などなかったのだ。 ザンは自分とリズクを見守り、応援してくれた。叶わなかったけれど、ジァヴの国を救おうと、手を尽くしてくれた。 あの友情は、確かに本物だったのに。 温かい思い出の中には、確かに彼の姿があるのに。 大事な、大事な友達だ。 もう、嫌だ。大切な人の死を見るのは、もう・・ 吹き始めた海風に、霧が流れ始めた。 琅珂は横目で、菫色の瞳からぽろぽろと零れ落ちる涙を見つめていた。 (また・・泣かせたな) 王は、いつでも打算的に物事を考える。 今計算しているのは、二つの内どちらを優先すべきかということだった。 ジァヴに執着する男の抹殺か、それともこの涙を止めることか。 前者は早い内に実行しておきたいところだが、これ以上ジァヴの憎しみを育てるのも、よろしくない。 二人の関係を見る限り、あの男は消してしまっても問題ないと判断したのだが、どうやら尚早だったようだ。自分としたことが、何を焦っていたのだか。 ふと、ジァヴが妹と話している時の顔を思い出した。 彼女が自分に向けるのは、怒った顔か、絶望や恐怖に強張った顔か、でなければ泣き顔ばかりだ。 今、どちらを選ぼうと、ジァヴが自分に笑顔を向けることは―― 一度だけ見せた愛想笑いを浮かべることさえ、もう二度と――ないだろう。 「・・・・」 琅珂は瞬きをした。視覚が切り替わる。 「ウィシュク・ス・マーサ・・ソト・セス・フィガル・ア・サルカ・トルノ・・」 ジァヴは、かっとなった。 王が、綺麗な声で歌を口遊んでいる。 「黙れ!黙りなさい!何もする気がないんだったらせめて・・」 怒鳴っている途中で、ジァヴは思わず櫂を落としそうになった。 海の中からぽこっとザンの頭が出て来て、川の流れに従う流木のように、自然にこちらに流されて来る。 両手でザンの体を掴み、何とか船に引き上げた。 その時、重い筈の人体がやけにすんなり持ち上げられたのも、船がひっくり返らないように王が反対側の舷に体重をかけていたのも、ジァヴはとうとう気がつかなかった。 「ザン!」 「がっ・・はぁっ・・」 ジァヴに背を叩かれ、海水を吐き出したザンは、目を上げて王の姿を探した。 上着は弾け飛び、胸の肉が抉れている。海水が滲みた。 強かに打たれた肋骨がずきずきするが、折れてはいない。生きている。 (なぜだ・・?) 「騒ぐなジァヴ殿。そなたの傷ほど深くはない」 探していた声は、遥か頭上から聞こえてきた。 ジァヴが大きく震えて背中にしがみついたが、ザンは驚かない。 「・・っ」 風に乗って空中に留まっている王は、跳ね回る髪を片手で払い除け、音のない舌打ちをした。 やはり、空を飛ぶのに風霊を使うのは、難がある。息をするのに一苦労だし、すごい風で眼や口の中が乾いて仕方がない。 心の中で一齣不満を論い、ジァヴを見下ろす。 「・・・・」 どこまで本気だったのか、自分でも良く分からないが。 確かに自分のものにしたいと思った女は、つまらない男の背中に隠れて、すっかり萎縮してしまっている。菫色の瞳は怯えを湛え、今にも溢れそうだ。 ザンに目を移すと、こちらも似たようなものだった。それでも、ジァヴを守ろうと、背を伸ばして胸を張っている。 どうせ、そんな力もないくせに。下らない・・ 「!」 王は、軽く目を見張った。 ジァヴが立ち上がり、ザンの前に立つ。 自分を見上げる菫色の瞳に、今度は鮮やかで迷いのない闘志を漲らせ。 鷲の眼差し。 琅珂は納得し、口の端を上げた。 ああ、この瞳に惚れたのだと。 「・・そなたの城で待っている」 言うと、ジァヴはすうっと目を細めた。 冷酷で、底を見せない表情。間違いなく、この自分から学んだのだろう。 「その男と逃げても、別に構わん。何度も泣かせた詫びに、見逃してやる。今回に限り、な」 王は旋風を纏い、翔け上がる。 「戻って来るなら・・歓迎しよう」 真っ白な世界が掻き乱され、またそこに白が押し寄せる。 王の姿は、すぐに見えなくなった。 「いなく・・なった・・」 ザンの声は、塩水で嗄れていた。 小船の上に立つジァヴは、硬い表情のまま遠くを見る。 「ザン・・どうして『騙された』の?」 ザンは掠れた笑い声を上げて、胸を押さえた。 「他に、どうすれば良かったのです?彼の態度が本物か、あるいはずっと本性を隠していてくれるか・・そのどちらかを信じる他に、希望がありましたか?死にたくなければ、惚け通すしかなかったのですよ。出会ってしまった地点で、負けていたのですから」 海風に流され、霧が動く。 その時、さっと視界が開けた。 青い空に、海。切り立った暗黒の岸壁と、その上の緑。 二重の虹がかかり、その下を軍艦が通って行く。 まだ、戦いは始まったばかりだ。 「虹ね・・」 「・・珍しくもないでしょう、この国では」 ザンが暗い声で言った。 雨が降ったり、急に止んだり。霧が出たり、すぐに晴れたり。 一日の天候が不安定なこの国では、三日に一度は虹を見る。 それでも、ずっと部屋に篭もっていたジァヴには久しぶりだった。 そして、思う。 こんな厳しい場所に、どうして先祖達は住もうと考えたのか。 きっと、この虹を愛したのだろう。私達は、虹の女神の子孫なのだから。 「ザン・・行きましょう」 ザンは肩を竦め、念の為に訊いてみた。 「逃げますか?」 案の定、ジァヴは首を振る。 「行きましょう。私達の戦いを、終わらせましょう」 ザンは、ぼんやりと虹の橋を見上げた。 「帆が、破れてしまいました」 「櫂が二本ある。私も漕ぐわ」 行く先に、希望はない。だが、今以上の絶望もない。 ならば、どこに行こうと同じではないか。 ザンは、美しいジァヴの顔を見上げた。 きりりとした太い眉。前を見据える菫の瞳。強張った白い頬。引き結んだ唇。 そこにも、やはり希望はなかった。 あるのはただ、どんな絶望であれ受け入れるという、覚悟だった。 結局、自分がジァヴを救う為にしてやれることは、何もないのだ。それなら、彼女の絶望を見届ける他、ないではないか。 「・・行きましょう。ジァヴ様」 ザンは言って、片側の櫂を握った。 第10章に続く |
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