第6節‐2.琅珂


 「は、あぁぁ・・」
 圧倒的な炎の陵虐りょうぎゃくが過ぎ、空気が冷えてくる。
 女魔導士マガのエルネスティーネは、体の前に展開した最高防御のたて解除かいじょした。
 薄紫に輝く東の地平から、太陽が顔を出し始めた。
 さわやかな払暁ふつぎょうとは裏腹に、辺りは動物が焼けた後のあぶらっぽい臭いと、古い木が燃えたようなこうばしい匂いに満ちている。十七人の人間達と、同じ数の翼馬達が、一瞬で蒸発してしまった。
 「ま・・魔女・・みんなが・・他の皆は、どうなった・・どう・・」
 たまたま彼女の背後にいて焼死をまぬがれた騎士が、血走った目で翼馬をぎょしながら問いただす。
 魔術で催眠さいみん状態にしてあるエルネスティーネの翼馬と違い、騎士の翼馬は悲しげにきながら暴れていた。
 「死にました」
 自明じめいのことを告げ、エルネスティーネは唇をんだ。
 咄嗟とっさに地表まで急降下して逃れていた二人が、降参こうさんの合図に翼馬を降りて脱いだマントを振っている。
 最初は二四人いた騎士達は、僅か三人になっていた。崖下で脳震盪のうしんとうを起こし、目が覚めても気を失ったふりを続けている四人などは、顔の形が変わったとしてもまだ幸運とするべきだ。
 (聞いてないぞ、こんなことっ・・)
 
 
 三十歳のエルネスティーネは、碧龍天楼ルフトブルク王立神事院ケーニクリヒェ・ユニヴェルズィテート・デス・リートゥス自然魔術マギーア・ナートゥーラーリス専攻せんこうし、課程かてい修了しゅうりょうした本物の魔導士マガである。現在は禁言院パレ・オーネ・ヴォルトに所属するアテス神官サケルダ・アティスと言った方が正確だが。
 天空都市碧龍天楼ルフトブルク鎮座ちんざする半球形のドームヘンゲ・クッペル――禁言院パレ・オーネ・ヴォルトは、複合的な役割を持つ施設しせつである。世界最大の魔法研究、魔術開発組織の本部であり、天空神アテス信仰の宗教的聖地ハイリヒェ・シュテッテでもあり、アテスの教義に従って碧龍天楼ルフトブルクに暮らす天空の民シエリスタにとっては最高裁判所オーバーステ・ゲリヒツ・ホーフでもある。
 そこに属するアテス神官サケルドース・アティスは、研究者フォルシャーであり、魔導士マグスであり、司祭プリースターであり、警察ポリツィストであり、判事リヒターであり、時には死刑執行人シャルフ・リヒターにもなる、といったところか。
 アテスに仕える神官団には独自の階級組織があるが、エルネスティーネはそのピラミッドの七合目辺りにいる。エルネスティーネの上にいる一人が、彼女をここに送り込んだ張本人で、名をマルガレーテ=ビルキースと言う。
 聖職者でありながら俗世ぞくせの富にどっぷりかった老女で、金持ちの実家や碧龍天楼ルフトブルクの貴族議会とべったり癒着ゆちゃくしている。この女が、「破壊神ディーシェスへの信仰を打ち砕き、野蛮やばんな琺夜族にアテスの教えをさずける為に、琺夜の王制を倒そう」と言い出したのが、エルネスティーネの不幸の始まりだ。
 教えを授けるも何も、琺夜族はアテスをよく知っているし、あがめてもいる。ただ、彼らは碧龍天楼ルフトブルクの常識では考えられないほど、いい加減な宗教観を持つ民族なのだ。ディーシェスのことは己らの祖神としてうやまっているが、その信仰は「荒ぶれる暴君をしずめる」といった性格が強い。他に、アテスを初めとする創世そうせい原初の神々から、土着どちゃくの精霊、妖精、古代の偉人いじん英雄えいゆうまで、すがれる権威けんいになら何にでも縋れという節操せっそうのない連中なのだ。自らも血統けっとう的にはほとんど琺夜族であり、少女時代を地上で暮らしたマルガレーテが、それを知らない筈がない。
 であれば、布教ふきょうなどただの建前たてまえで、実家に便宜べんぎはかることが真の目的だとは、容易に知れることだ。が、事あるごと天空の王ケーニヒ・イム・ヒンメル楯突たてつく無礼な琺夜国王家をつぶすというのは、所詮しょせんみにくい心を捨てられない神官達にとっても、胸のく妄想だった。
 マルガレーテの提案は支持され、言い出した彼女とエルネスティーネが琺夜に派遣はけんされることになった。
 目的は三つ。
 一つは、スノゥリィ家を倒し、琺夜をユーン家の支配の元に安定させること。
 二つ目は、天空の民シエリスタでありながらアテス信仰の普及ふきゅう貢献こうけんしないペリード家を調査し、教義にのっとって裁くこと。
 そして三つ目は、アルブリヒト=ユーンとジークリート=ビルキースとの婚姻こんいん関係をつつが無く解消し、その賠償ばいしょうとしてビルキース家が琺夜の経済界を支配できるように取り計らうこと。離婚後に同盟を解消されないよう、アルブリヒトの私生児シャルルにビルキース家の直系女子であるカロリーネをめあわせることも忘れてはならない。
 ビルキース一族は天空の民シエリスタではないが、ペリード一族と違って敬虔けいけんなアテスの信徒である。彼らが琺夜に対して相応そうおうの権力を持つようになれば、我々アテス神官がかの国に入国して教えを広めることも容易になる・・という屁理屈へりくつだ。
 エルネスティーネは昔からあの先輩司祭が嫌いだったが、今回のことでは本当にあきれ返った。
 マルガレーテは妹から、「夫が息子を殺そうとしている」と相談を受けた。憔悴しょうすいしたジークリートを優しい笑顔でなぐさめながら、腹黒ばばあは同じように邪悪な姉と一緒に、冷徹れいてつおいを切り捨てる算段をつけたのだ。
 夫の指図で息子を殺されれば、ぐじぐじと思い悩むジークリートの心もきっぱりと琺夜から離れることだろう。それに、その甥っ子とは、かのフルリール・フォン・ペリードが執着しゅうちゃくする男のことではないか。クレイ・フェオの抹殺に立ち会えば、必ずフルリールがれる。甥一人の命が何と役に立つことだろう。
 琺夜に入国して早々、マルガレーテはペリード一族を“アテスの敵”と断定していた。彼女はマルヴェと琺夜国王妃の関係を「義理の母子でありながら男女の愛を交わす仲」だと語り、フルリールとクレイ・フェオの関係を「やや異常な、ともすれば同性愛的な親しさ」だと語った。アテスの教義において、近親相姦そうかんや同性愛は世界の秩序ちつじょを乱す許し難い悪である。発覚すれば、死を以って裁かれるほどの罪である。
 そうだ。やはりペリード一族はアテスの教えに背を向け、淫蕩いんとうに走っていたのだ。琺夜族はまことの神の愛を知らない哀れな愚民ぐみんであるから仕方がないとしても、ペリード公と言えば、神聖なる碧帝ブラオ・カイザー陛下のご細君さいくん、光の女神パリアの後継者たる皇妃様の、六親等しんとう内の親族ではないか。おそれ多くもアテスにその身を依代よりしろとしてお貸しする天空の王ケーニヒ・イム・ヒンメル陛下の威光いこうを誰よりもたたえるべき立場にありながら、これは断じて許し難い裏切りである。
 演説めいた話を聞く内に、エルネスティーネはいきどおり、おぞましさに震えながらペリード一族の“断罪”に同意したが、今思えば、あれも先輩の計略けいりゃくだったに違いない。
 フルリールの殺害をにんじられてから調べてみれば、あの色男は女性とのスキャンダルばかりが豊富な、よくいる恥知らずだった。アテスは婚姻こんいん外の姦通かんつうも禁じているし、女としてはこちらの方が憎らしいところだが、いちいち男女の仲を取り締まっていてはきりがないということで、神官がこれを罪として裁くことはない。けても、アテスの信徒として覚える不快感の度合いは、「同性愛者」と「プレイボーイ」では段違いである。
 だまされた、と思ったが、もはや後には退けない。
 クレイ・フェオを狙うアルブリヒト=ユーンの家臣達ヴァソに同行して、エルネスティーネはフルリールをいぶり出すことにした。
 追いついて驚いたことに、このクレイという男は巨大なたましいの持ち主だった。魔導士マガとして優秀なマルガレーテの甥であるにしても、ビルキース一族の中にこれほど大きな魂の持ち主は見たことがない。マルガレーテが甥の殺害を決めたのは、こうした嫉妬しっともあったのだろうか。
 魂は、魔術業界では“命の器ウィータエ・アルカ”とも呼ばれるように、神通力グリスたくわえるれ物に見立てることができる。平均的な神霊属ナプト人の場合、魂の外枠そとわくは生身の肉体と重なり合っていることが多いが、その男の魂は肉体の輪郭りんかくに収まらず、大きく外にはみ出していた。
 最も単純な魔法マギクスは、己の魂に蓄えた神通力グリス変換へんかんして発動する。つまり、魂が大きく、蓄えられる神通力グリスの質量が多いほど、強い魔導士になれる素質そしつがある。
 しかし、クレイはきちんと教育を受けた魔導士マグスではない。見たところ、魂を風船のように膨脹ぼうちょうあるいは収縮しゅうしゅくさせて神通力グリスの圧力を変化させ、肉体の質量を操作そうさできるタイプの超能力者アルセロイだろう。
 魔法を知らない戦士にとっては脅威きょういだろうが、研鑽けんさんを積んだ魔導士マガであるエルネスティーネの敵ではない。フルリールは強い魔導士マグスだが、二十人を超える戦士達を相手に戦えるほどの実力はない。
 面倒だし、良心のうずきを覚えないでもないが、仕事は簡単な筈だった。確実に達成たっせいできる任務にんむの筈だった。


 「ほぅ、四人も残ったか。そこなる魔導士、なかなか見事な防御であるな」
 (聞いてない・・魔王エァルケーニヒが出て来るなんて聞いてないっ・・!)
 それは、古い民話に登場する、人の魂を抜く邪悪な榛木はんのきの精霊。まるでいにしえ寓話ぐうわから飛び出したかのような、現実離れしたとある個人を指す隠語ウムガングスシュプラーヘ。琺夜の王太子、琅珂。アテスの信徒しんと警戒けいかいする“悪”の筆頭ひっとうである。
 フルリールの異母弟だが、両者の不仲は有名だ。ここで彼が登場するなど、マルガレーテでさえ予想しなかった。
 (まさか・・手を組んだと言うのか。スノゥリィとペリードが、互いの利権を守る為に?)
 エルネスティーネは、背筋の冷える思いだった。
 そうだ。そう考えれば、有り得ないことではない。ユーンとビルキースだって、非常にあやうい綱渡りの同盟関係を結んでいるのだ。敵が同じことをしてもまるで不思議ではない。
 「して、まだ余と詠唱えいしょうきそうか?神の力をたのむ司祭なれば、余の力をしのぐこととてあたわざらん。試してみるか?」
 (遊ばれている・・)
 敵の笑顔に、爪にかけた栗鼠りすもてあそぶ猫を連想して、エルネスティーネはぐっと手綱たづなにぎり締めた。
 戦闘に特化した魔導士なら、こんな馬鹿げたさそいには決して乗らない。
 神に祈願きがんして自然を動かす力を貸し与えられる神官の魔術は、自らの神通力グリスで自然を支配する神族ルパーラの魔法よりも発動が遅い。古代神聖語コリトプスより速くステラ語の詠唱えいしょうを終えたとしても、多くの場合、このタイムラグのせいで押し負ける羽目はめになる。その上、神官だって、神に祈りを届けるには己の神通力グリスを消費する。無尽蔵むじんぞうに近い敵を相手に、いつまでも張り合える訳がない。
 「・・どうした?しゃべらないならこちらから攻めるぞ」
 「さ・・ごきげんようサルウェ・ボネ・ウィル!」
 エルネスティーネは、時間稼ぎに出ることにした。
 「我はエルネスティーネ=ループレヒトスム・エルネスティアナ・ロベルトゥス祖国はコードロークエスト・カルドロルカ・メア・パトリア親しい者は、しばしばティニと呼ぶサエペ・アー・ソダーリブス・エゴ・ティニ・アペルラートゥル我が名を得た人ウィル・ノーメン・メウム・ハビトゥスあなたの名はクォド・ノーメン・ティビ・エスト?」
 魔導士の世界には、いくつか遵守じゅんしゅすべき約束事が存在する。
 魔導士が魔導士に自分の名を与えた場合、与えられた魔導士は等価の情報を返さねばならない。
 美しい子供は、少しだけ眉間みけんしわを寄せた。「もう名乗っただろう」と言いたげに、それでも呆れ顔で帽子を脱ぐ。
 「我こそは琅珂エゴ・ロウガ・スム琺夜の者エクス・ホウユア・ウェニオー我が名はミヒ・ノーメン・エスト・・ステラ語でなくとも良いな?父なる祖に従えば、姓はシュエあざなリン、名は琅珂ランコォ。母なる祖に従えば、ディース・ドゥ・スノゥル・デュ・フロコンドネージュ・ドゥ・ニヴァブール。間もなく、ただのディース・ドゥ・スノゥルになる。当世のならわしでは、セルズ風に発音するが正しきところなれど、人なる者の内にこの名で我を呼ぶ者はない。・・我はこおれる灼熱しゃくねつてつきし炎の現身うつしみにして、死の息吹いぶきなる名を持つ者」
 魔王は、気障きざ仕種しぐさで前髪を掻き上げた。
 「・・ああ鬱陶うっとうしい。名なぞ一つで足りように。何たる面倒か」
 人の名前や呪文を瞬時に覚えなければならない魔導士は、すべからく短期記憶に優れている。エルネスティーネも例外でなく、今の長い名乗り文句を面食めんくらいつつも覚えることができた。
 言霊ことだまの法則に従い、相手の魂に触れる。相互干渉かんしょうが可能になる。
 しかし、それで確認できたのは、目の前の子供が間違っても幻想魔術プラエスティーギアートリアではないという、絶望的な事実だけだった。
 (あ・・私、死んだかも。はは・・)
 “凍れる灼熱”。“凍てつきし炎”。それらの矛盾する表現は、どちらも神学の世界で“死の王”ダイシェスを形容する言葉だ。そして“死の息吹”とは、死神ダイシェスの分身たる“破壊の王”ディーシェルのこと。魔王エァルケーニヒ以外に有り得ない名前だ。

 「してアウテム我が名を得しエルネスティアナエルネスティアナ・ノーメン・メウム・ハビタ。そなたはアルブリヒトの息子を殺害せんとする者か?」
 「ひぅ、」
 名前を呼ばれた途端、エルネスティーネは、くらっと意識が揺れるのを感じた。
 「は・・ぁぁ、はいスム
 質問に答えると、眩暈めまいが止まる。
 「エルネスティアナ、そなたは我を殺害せんとする者か?」
 「いいえノン・スム!」
 「ティニ、そなたはヂェルスベルク公の手先か?」
 「・・違いますニヒル・ディキス
 「ティニ、そなたは誰に仕えている?」
 「アテスにアティー!」
 「・・ティニ、そなたは禁言院の戒律かいりつを知っているか?」
 「はいクレド!」
 「ふん・・」
 矢継やつぎ早の質問が途切れると、エルネスティーネはくらふちにしがみつき、肩で息をした。
 名を呼ばれると、互いの魂の間に通り道ができる。質問に答えるまで、相手の毒々しい神通力グリスに魂が締めつけられる。
 (なんて・・けた外れの体積・・)
 この魂はあまりに大きい。広大過ぎて、“彼”と“世界”をへだてる境界きょうかいが見えない。どこからどこまでが彼の領域なのか、把握はあくすらできない。
 殺される。相手がその気になれば、一瞬で。
 (冗談じゃない・・)
 エルネスティーネは警戒されないように唇を閉じ、舌だけを動かしてアテスに対するいのりをとなえた。
 瞬間移動テレポーテーションの術が使えれば良いのだが、それは自分の分野ではない。いざとなれば風霊の力に頼るしかないが、敵の魔法は相当速い。死霊魔術マギーア・デースペーラートルムでさっきの飛竜ドラゴン構築こうちくすることだってできるのだ。飛竜の翼で追われたら、逃げ切れる可能性は低い。
 希望があるとすれば、エルネスティーネを殺しても、魔王エァルケーニヒには何の得もないということだ。それどころか、スノゥリィ家にとって非常に困った事態になるということだ。
 彼がその事実に思い至るだけの脳味噌のうみそ分別ふんべつを持っていてくれたならば・・
 
 
 琅珂は、だんだん苛々いらいらしてきた。
 礼儀にかなった挨拶をされたからこちらも応じたが、こういうやり取りは得意ではない。ついでに、古代神聖語コリトプスを使う琅珂は、天上カエリコラエ派の魔術学習者が共通語とするステラ語もあまり得意ではない。
 自分より弱い魔法使いの名前を知れば、好きなだけ情報を引き出すことができる。が、質問は曖昧あいまいではいけない。相手に馴染なじみのない言葉で話しかけてもいけない。解釈かいしゃく余地よちが一切なく、スノゥリェンヌ語で言うところの「はいウィ」か「いいえノン」で答えられるものが望ましい。要領ようりょうを得ない質問をしてしまうと、情報におどらされてしまう。
 現に琅珂は、訳が分からなくなっていた。
 (何故アテスの神官が出て来る?)
 頭をひねったが、良く分からない。禁言院きんげんいん碧龍天楼へきりゅうてんろうつながりがあるとすれば、ペリード家しか思いつかないが、琅珂はそもそもペリード家のフルリールに助けを求められたのだ。
 (フルリールが恐れるならば、『天』の勢力か?)
 しかし、天空の民シエリスタがクレイ・フェオを、あるいはクロディーヌを狙う理由となると、ちょっと思いつかない。
 (ユーンが『天』と繋がっているのか?いや、・・ビルキースとかいう奴らもいたな・・分からん)
 マルヴェと玉葉の話を思い出してみたが、予備知識のない琅珂は、すぐに考えても無駄だという結論に達した。
 それはそうと、アテスの神官を殺せば、禁言院きんげんいん碧龍天楼へきりゅうてんろう政府が外交すじを通して何か言って来るだろう。王妃と姉が激怒するのは別に構わないが、これ以上フルリールの策にまってやるのも業腹ごうはらだ。
 (あの野郎が)
 何しろ、あの兄が頭を下げたのだ。相応そうおうの面倒事に巻き込まれていることは疑いない。が、考えるのも面倒になってきた。
 (殺すか)

 
 
 
 王太子が左手を突き出した途端、女魔導士が消えた。
 それを見て、クレイは静かに息を吸った。
 「クレイさん・・こっち来るぞ。悪魔殿ル・ディヤーブルが」
 アントニアが、極度の緊張で逆に落ち着いた声で言った。
 「どうします隊長シェフ?」
 アルノーは、アントニアの前に立っている。その顔があんまり必死なので、クレイは固い顔を崩して笑ってしまった。
 そうか。お前も小さいなりで女を守ろうってか。どう見たってはばの足りねぇ盾だが、その心意気は嫌いじゃねぇ。
 「手は出すなよ、お前ら」
 「・・了解アンタンデュ
 「心中する気配になったら言ってくれよ」
 演技でもないことを言うアントニアを軽く小突こづいて、クレイは翼馬から降り立った人影に近づく。
 翼馬を肩に乗せた十二歳の王太子は、うんと首を伸ばしてこちらを見上げた。まっすぐ立てば、頭の高さがクレイの腹辺りに来る。
 なるほど。只者ではない。ふところのステファノスが小さくなる筈だ。
 背丈は小さく、目鼻立ちも可愛らしい少女のようだが、身にまとう軍服ときたらどうだ。真新しいのは首に巻いたレースのスカーフクラヴァットばかりで、黒い羅紗織らしゃおりはぺらぺらのくたくた、下に着る革鎧の形にって白いすじが見える。頑丈がんじょう軍靴ぐんかにも折りじわが目立ち、右肩から斜め掛けにした革の剣帯サンテュロンには使い込んだつやがある。この年で、まるで戦歴三十年の熟練兵のようではないか。軍服をこれだけ着こなしながら、綺麗な顔に傷がないというのも、実力の程をうかがわせる。
 「ユーン家のクレイ・フェオか」
 「はい。・・殿下ヴォトル・アルテス
 「ふん。女は・・あそこか」
 クレイは、頭が真っ白になった。
 王太子がちらと視線を流した先に、クロディーヌがいる。
 「私、あ・・あのっ・・!」
 「な・・」
 何ということだ。隠れていろと言ったのに、白い息を弾ませながらこちらに走って来る。
 駄目だ。この王太子は魔法使いだ。彼のたった一言で、クロディーヌの命は絶たれてしまう。
 (畜生メルドゥっ!)
 クレイは、アントニアに借りた剣を抜き放った。
 
 

 くきぇ〜、と、変な鳴き声が遠ざかって行く。
 (・・・何故こうなる?)
 長剣が、足元の雪をね上げる。琅珂の魔法で一度溶けてから固まった地面であれば、飛び散るのはほとんど氷粒だ。
 飛び退きながら、琅珂は舌打ちした。
 「うおおおっ!」
 さっとかがむと、頭の上を風が通り抜ける。
 「っ!」
 ぎし、と音がした。
 男の膝裏ひざうらを蹴った足が、万力まんりきのような指につかまれる。
 抵抗をものともせずに振り回され、背骨から地面に叩きつけられる。にぶい痛みが、容易たやすく闘争本能に火を点けた。
 「めるな!」
 ぎっと目を吊り上げ、上半身をしならせて飛び起きる。そのまま、上にいるクレイのひたいに頭突きをくれてやる。
 
 

 今頃、女の悲鳴が耳をいた。ぱさ、という軽い音は、飛ばされた帽子が落ちたのだろう。
 「かっ・・」
 意識に生じた一瞬の空白が、たぎる感情を初期化する。
 頭が割れるかと思った。恐ろしく硬い。クレイはちょっと後ろに反っただけで、まるでひるまない。それどころか、剣を握る拳で殴りつけてきた。
 ぶんとうなった拳からどうにか頭をらし、腰にげた短剣を抜けば、足首から手が離れる。この距離なら剣より速く刺せる、と思った途端にだ。
 剣が一突きするのに合わせ、ると見せかけて、逆に屈んで距離を詰める。クレイの方もフェイントのつもりだったらしく、大きな左膝が目の前に迫って来たが、ぎりぎりまで引きつけておいて、さっと横に逃げる。
 体格も膂力りょりょくも敵わないが、初動だけは確実にこちらが速い。
 「ふっ」
 短い呼気こきと共に、翼馬が張りついているらしい腹にこぶしを突き上げる。長い右脚が蹴りの動作を始める瞬間に腕を引き、密着みっちゃくしたままくるりと回って、右脇腹にやいばを打ち込む。
 がん、と音がして、血が飛んだ。
 (は、嘘だろう?)
 骨をくだくつもりが、皮膚一枚いただけで刃先が曲がってしまった。感覚のない左手から短剣を滑り落としつつ、後ろに跳ぶ。
 クレイがさせじと追って来たが、やはり肋骨ろっこつ下の急所への一撃はそれなりにいたらしい。剣を突き出す動きがにぶい。琅珂は剣を掻いくぐり、思い切り前に出ながら右手で太刀たち抜刀ばっとうした。
 低い姿勢で半円形に空気をげば、クレイは琅珂の体を跳び越えてかわしたが、着地時につるりと足をすべらせた。足をばたつかせて結局尻餅しりもちを着いた途端、男の顔に絶望がぎる。
 
 

 「・・・・」
 跳び退いて大きく間合いを空けた琅珂は、男の強張こわばりを理解して、ぽいと太刀を放った。
 「呪文をとなえる気はないぞ」
 武器を捨てたことでクレイが逆に警戒を強めたのを知って、断言する。
 「・・・・」
 「フルリールに教えられたか?魔法使いは呪文を唱える前に叩き潰せとでも?」
 苦笑に混ぜて問いかければ、クレイのでかい図体ずうたいから変なりきみが消えた。
 「・・『僕のくそ親父と真っ黒い弟は規格きかく外だから戦うな』とも言われたな。そう言えば」
 そんなことを言いつつ、クレイの精悍せいかんな顔は笑っていなかった。目の動きを追えば、そこにあおい顔で立ちすくむ元小間使いがいる。
 「クロディーヌをどうする気だ?」
 「クロディーヌ?・・ああ」
 琅珂は肩の力を抜き、前髪を掻き上げた。そうだった。こいつはあの女を救おうとしたのだ。
 「別に。生きておるならそれで良い」
 クレイは怪訝けげんそうな顔をした。
 「彼女を追って来たんじゃないのか?」
 「・・如何いかにも。折角せっかくゆるしを与えた女にこうも早く死なれては、余の立場がないのでな」
 それは、たった今考えた言い訳だった。
 フルリールは、弟にくっしてまでこの男を守ろうとした事実を、本人に知られたくないだろう。
 こいつに教えてやれば身悶みもだえして苦悩する兄の姿をおがめるかもしれないが、何となく、琅珂はそれが嫌だった。
 あんな奴に配慮してやる義理ぎりはないが、そんな薄汚い嫌がらせをするのは弱い奴だけだ。俺は強いのだから、卑劣ひれつな真似をして男を下げることはない。
 冷たい地面に腰を落として、何故か泣き出したクロディーヌを見つめて、クレイは、何とも形容し難い間抜け面になった。
 「・・・あの魔導士の女、殺したんじゃないのか?」
 琅珂は眉をひそめた。
 「奴なら逃げたぞ。風に乗って、目にも留まらぬ速さでな。追うほどの理由もない」
 「・・あんた、ニヴァルバラ公だってな。不法侵入者は殺すんじゃないのか?」
 問われて、琅珂は気まずい思いをした。
 王太子であるからには不法な暴力を振るうな。さわぎを起こすなというのは無理だろうが、やりたければ正義と言い張れるだけの理屈を整えてからやれ。
 王妃にそんな説教をされたこともあり、ついつい形ばかりの爵位しゃくいかざして偉そうなことを言ったが、とどのつまりは自分が暴れたかっただけである。すると、俺も薄汚い奴らのやり方に迎合げいごうしてしまったのか。
 「ほぉお・・そうか。へぇ、うん。へへへ・・」
 答えられずにいると、クレイは、今度は不気味に笑い出した。
 「・・何か、おかしいか?」
 「ん?ああいや・・あんた、意外にいい奴だな」
 「いっ」
 琅珂は、あまりの不気味さに後退した。
 何だこいつは。何なんだこいつは。さっきから何が言いたいのかさっぱり分からない。フルリールの友人ならべきことだが、ちょっと頭がおかしいんじゃないのか。
 クレイは胡坐あぐらをかき、片手でばんばん膝を叩いている。その膝がばきっと硬い雪にめり込んで、よろけては一人で笑っている。これを本当の馬鹿力と言うのだろうか。
 「いやいや、うん。悪くねぇ。悪くねぇぞ。カマくさい顔して意外に骨っぽいしな」
 「かまくさい・・」
 「あれだけ容赦ようしゃねぇくせに女は殺せねぇなんざ、まさに琺夜族じゃねぇか。ああ、あんたが王太子か。次期国王陛下か。いやいや、いいじゃねぇか」
 「・・女を殺さない訳ではない。あやつは、単に面倒で見逃した・・」
 琅珂は口を閉じた。
 何故だろう。本心を語っているのに、れ隠しに聞こえる。案の定、クレイは誤解した。
 「またまた、照れるんじゃねぇよ!女に甘くていいじゃねぇか。琺夜ってのは騎士道の国なんだからよ!共存共栄、女尊じょそん男卑だんひが琺夜の正義じゃねぇか。あんた、その国の王になるんだぜ。国民の父にしちゃ、見栄みばえはちと貧弱ひんじゃくだが、まあ良しとするさ」
 「・・・・」
 琅珂は、只管ひたすらに困惑した。どうやらこの男は、自分の人格をいちじるしく誤解しているらしい。ついでに琺夜の正義とは一体何だ。
 騎士道シュヴァルリとは、武勇、謙虚けんきょ忠誠ちゅうせい、高徳、礼儀、高潔、献身けんしんなどといった文学世界の幻想のことではなかったか。頭のいた恋愛詩人トルヴェール台頭たいとうして、殊更ことさらに「か弱き婦人への献身」だの「享楽きょうらく的欲望にらない洗練された愛フィナムール」だのと訳の分からない定義ていぎを足したりもしているようだが、すると、この男はその辺りの空想を信じ込んで現実に実践じっせんしようという大馬鹿なのか。その馬鹿に、同類と看做みなされたということか。
 「貴様・・」
 琅珂は、静かに殺気を発した。
 この馬鹿が勝手に何を誤解しようとどうでもいいような気もするが、どうも忌々いまいましい。気恥きはずかしい。一刻も早く間違いを正さねばすっきりしない。ああ、こうなったらフルリールのことを言ってしまおうか。
 「余は、」
 「隊長ぉおお!あんた何言ってんだ馬鹿じゃないのか〜!!せっかく王太子殿下が寛大かんだいにもお許し下さるような感じなのに何カマくさいとか貧弱だとか可愛らしいとか失礼なこと言ってんだど阿呆あほう〜!」
 (・・・・。・・ちょっと待て。言ったかこいつ?)
 「ぶわははははははクレイさん!あんた命知らずもいいとこだな!」
 駆け寄って来るクレイの仲間らしい二人を見て、出端でばなくじかれた琅珂は目を瞬いた。
 小さい男と、でかい女。そして変な男。何だこいつらは。旅芸人の一座か。
 「・・クレイ・フェオ、貴様、」
 「お許しを殿下!身共みどもの隊長はくなる考えなしの、ええ、ご覧の通りの無礼者でございますが、断じて悪気ではないんです。ただ何と申しましょうか・・少しばかりここ・・が足りないと申しましょうか、端的たんてきに馬鹿と申しましょうか・・」
 「何あわててんだちびちゃん。殿下は、んな小さいこと気にするような御仁ごじんじゃねぇよ。わざわざ女一人のことを気にして、こんなド田舎いなかまで足を運ばれるような方なんだ。俺ぁ感動したね。クレイさんが突進とっしんしたって、魔法で焼き殺したりしなかったじゃねぇか。こんな失礼な言葉づかいにも文句を言いやしねぇだろ。かざり物じゃねぇ、本物の善と悪とを見分ける目をお持ちなんだよ。背丈せたけはてめぇよりっこいが、ああ、比べもんにならねぇぐらいうつわのでけぇお人なんだよ」
 「小さいとか言うな小っこいとか!」
 「・・・・」
 そうまで持ち上げられてしまうと、もう何も言えなくなる。今更何を言うのも間抜けだ。
 (・・こいつは瓊佳けいかだ。あのいのしし女と同類だ・・)
 気分だけがつかれ果てた琅珂は、深い溜め息をついて前髪をき上げる。
 シェオ・フローリィの中庭で見た時から変な男だとは思っていたが、連れの仲間もやはり変だ。こんな奴らが三人もそろったら、もうどうしようもない。
 「きあー!王子様!おお見たかちびちゃん?可愛いぞ!笑ったぞ!滅茶苦茶めちゃくちゃ可愛いぞ!」
 「何をさわいでるんだ背高。女みたいにきゃぴきゃぴしやがって。殿下の母君は絶世の美女と名高い王后おうこう陛下、フロコンドネージュ家のセリーズ様なんだぞ。お美しいのは当然だろうが」
 よくもまあ、恥ずかしげもなくぽんぽんと賛辞さんじが出て来るものだ。宮廷人の阿諛あゆ追従ついしょうだって、ここまで大袈裟おおげさなのは聞いたことがない。
 呆れながら、琅珂はあごに手を当てた。
 (笑っていたか・・)
 「アルノー、双子の王女様ってのは、やっぱり美人だったよな?」
 「隊長シェーフ?あんたおそれ多くも王女殿下に手ぇ出そうとか考えてないですよね?」
 「当たり前だ。いくらなんでも十二歳はれてない。付き合うなら十七歳からだな。できればこう・・曲線が、」
 「訊いてねぇよ!てか、そういう問題じゃねぇよ!」
 「あの・・ええと、坊ちゃん」
 「うお、クロディーヌいつの間に!顔が怖いぞ!何怒ってんだ?」
 「別に・・本当にデリカシーが無いのね」
 「何ぃ?アルノー!俺が何をした!?」
 「ふ〜・・またれられる前に振られましたね」
 今度ははっきりと、琅珂はき出した。
 まったく、何という馬鹿な連中だろう。だが不思議と、
 (清々すがすがしい、な)
 シェオ・フローリィにいるのは、顔ににやけた笑みを作りながら、腹の中で何を考えているか分からない奴らばかりだ。
 比べると、この連中は何と違うことだろう。
 考えたままのことを素直に口に出し、それでどうなるかなど考えない。その言葉には、深読みする余地よちがない。
 「・・貴様ら、よく今まで琺夜で生きて来られたな」
 思わず言うと、小さな男にがっしりと右手をにぎられ、我が意を得たりとばかりにぶんぶん振り回された。
 「そうでしょう?やっぱり殿下もそう思われますか!この隊長殿ときたら、本当に何度軍紀ぐんきを乱して将軍に大目玉を食らったことか!このアントニアと一緒になって筋肉馬鹿共がいつもいつも何か仕出かす度に身共みどもがどれだけ身のちぢむ思いをするかこいつらは全く理解しないんですよ!隊長ときたら実力から言っても、まあ何と言うか家柄から言っても、いえ好ましいことではありませんが、公家の子息ともなればとっくに連隊長コロネルぐらいに任命されていておかしくはないんですが、実家からは勘当かんどう同然、上官との折り合いも悪く、親友のフルリール王子が何かアレなせいで別れた女性に変なうわさを流されて、何と言いますか処世しょせいが下手で!先日国王陛下に逆らったと聞いた時には、ええ、血の気が引きましたよ。ああ、そのせつは身共も本当に感謝しております。殿下がいらっしゃらなければ、今頃この馬鹿隊長は首になわつけてぶらぶら揺れておりましたでしょうから・・ぐす
 「ちびちゃん、よくしゃべるな。つーか泣いてるか?王子様引いてるぞ」
 「う・・うるさいぞ背高!俺はなぁ、お前らみたいな体力馬鹿とつるんだせいで、いっつも気苦労を抱えてんだよ!殿下なら理解して下さるに違いねぇだろう!」
 「・・・大変だな」
 適当に言ってやれば、大袈裟な男は感極かんきわまって抱きついてきた。
 腕をほどきつつ空を見上げれば、空気は赤みの強い紫から白に変わりつつある。
 (・・・・)
 琅珂は、一抹いちまつさびしさを感じて男を突き放した。
 そうだ。こいつらは愉快ゆかいだが、やはり長生きはできまい。琺夜には、胸が悪くなるような人の悪意、作為さくいが入り乱れ、どろどろに煮詰につまっているのだ。純粋で素直な人間は、守る者がいなければ、あっという間にまれてしまう。
 「聞け。今、この国には王がおらぬ」
 大きな声で言うと、やかましい三人が途端とたんに黙りこくった。クロディーヌはどこまで知っているのか、薄く浮かべていた笑みを消して顔を伏せる。
 「ユーン家が暗躍あんやくしておる。王家は、既にユーン家を敵と見做みなした。王后陛下サ・マジェステ・ラ・レーヌはアルブリヒトを殺す気だ。事によれば、一族郎党ろうとう諸共もろともにな。もっとも、ペリード家の知遇ちぐうを得る貴様は生き残れようが。内戦が始まれば、貴様はどちらの味方につく気だ、クレイ・フェオ?」
 少しは頭が回るなら、この男も王家に利用されようとしていることに気付くだろう。この王太子が決して善意の救い手などではないとさっするだろう。
 琅珂は、これこそ自分に相応ふさわしいと信じる冷笑を浮かべた。
 気の良い奴らに間違った偶像ぐうぞうを抱かせておくこともない。自分は薄汚いスノゥリィ家の人間だ。恐れと憎しみの眼差しこそが心地ここち良いのだ。
 「親父をぶん殴る!」
 「、」
 力強く答えられて、琅珂は思考停止におちいった。
 「はん!親父の奴、土台どだいが玉無し野郎なんだよ。女子供相手にゃえらそうにり返るくせ、大の男にすごまれりゃ、こそこそと影に隠れるような意気地いくじなしなんだ。内戦なんざ大袈裟なことにしやしねぇさ。王家が敵にするまでもねぇ。拳骨げんこつ一発でしてくるさ」
 クレイがばきばきと指の骨を鳴らせば、小さい男がしたり顔でうなずく。
 「そうですね。隊長、王太子殿下がこうして教えて下さったからには、まだ根源を断つ余地があるということです」
 「よっしゃ!んじゃあ、この足でヂェルスベルクに乗り込むか!」
 大きな女が天にこぶしを突き上げたところで、琅珂はいつものマルヴェのように深い深い溜め息をついた。
 駄目だこいつらは。
 「クロディーヌ、あんたはどうする?王太子殿下がこういうお人なら、ル・フォワイエまで行くこたぁないか?」
 「え・・」
 「隊長、それこそ一刻も早くアルブリヒトの旦那だんなをぶちのめせばいいんです。彼女も家に帰れるじゃないですか」
 「おお!頭いいなアルノー!」
 「へぇ。あんた、ヂェルスベルクの子なのか?」
 なかば諦めつつも何か言ってやろうと顔を上げた時、琅珂はクレイと目が合った。
 浮かれ騒ぐ馬鹿面かと思いきや、男の目はわっていた。スカーフクラヴァットを締めていない首のけんも、不自然なぐらいっている。
 (こいつは・・)
 分かっている。抜き差しならない状況だと見極めている。大切なものを失うかもしれないと怖れている。己だけでなく、大事な部下の命も危険にさらす責任を理解している。
 気付いてみれば、大きい女と小さい男も、心得たように目で会話をしている。馬鹿な隊長について行くことに、一寸の迷いもない。
 すると、こいつらは本気で内戦を止めようとしているのか。
 戦略を練ることもなく、ただ本能と拳だけで、そんなことができると信じているのか。
 「・・・・」
 違う。こいつらは普通ただの馬鹿ではない。何となれば、危険に無頓着とんちゃくな戦士が生き残れるほど、琺夜は甘い国ではない。戦況せんきょうを正しく見通し、それでも危険に飛び込んで現実を引っくり返そうとする真の愚か者を、琺夜族は騎士シュヴァリエと呼んで来たのだ。そうしてぎりぎりの選択の中で生き残る者をこそ、英雄と呼ぶのではなかったか。
 とすると、ああ、そうだ。こいつらは、
 「・・上策じょうさくとは言えぬな」
 琅珂が言うと、クレイが不思議な眼差しを向けてきた。
 「じゃあ、あんたがぶちこわしてくれるのか?思い上がったくそ親父と、くさり切った琺夜をよ」
 「琺夜をぶち壊す、と来たか」
 何故か無性むしょうに楽しくなって、琅珂はくくっと喉を鳴らした。
 「それは考えなんだな・・」
 笑いを収めて、目を閉じる。
 なるほど。そうか。いいかもしれない。
 どうせ、壊すことしかできない俺だ。こんなに心がおどるなら、いっそ、こいつらをだまし通すのもいいかもしれない。琺夜をぶち壊すのもいいかもしれない。
 ちょうど、ひまを持てあましていたところだ。
 琅珂は上を向き、かっと目を見開いた。眼球に朝日を浴び、決意してくるりと首を回す。
 変なものを見たような顔をして、四人が一様いちよう背筋せすじを伸ばした。
 「貴様ら、俺について来るか?」
 「連れて行けよ、我が君モン・セニュール
 クレイは、実に軽く答えた。
 おろおろしているクロディーヌはともかく、クレイの部下二人も異存がないのを確認し、地面に右手をつく。
 来れトルノ ヒュルソーン 雪を纏いてヒュルス・ア・ダルウェ その身と為せエル・ケラ・カッサ
 凍った雪が飛竜ドラゴンの背中になってむくっと持ち上がれば、途端とたんに子供のような歓声かんせいが上がった。
 「うおお!何だこれ!魔法か?魔法なのか?」
 「ドラゴンだ背高!すげっ、うろこでけっ!ドラゴンに乗ってるぞ!うひぇー!」
 「そーかそーか、やっぱりご立派りっぱな王子様だ。税金の無駄遣むだづかいじゃなかったって訳だな」
 「う・・わぁ・・」

 ピュュロロロロロ・・ヴュユロロフュロロロ・・

 眠そうなき声を上げたヒュルソーンは、鉤爪かぎづめのついた四肢でぐわしっとがけの両側をつかんだ。長い首を持ち上げて、翼を広げられる場所までよたよたとよじ登る。
 ぐぎぇえぇええええ!!
 いささか乱暴に右肩に舞い降りた翼馬の天狼が、ナワバリを主張するかの如く競ってえる。
 生き残ったヂェルスベルク公の家臣達がしりを掛けて逃げて行くのが見えたが、琅珂は無視することにした。
 「・・地位も名誉も約束できんぞ。俺はいつ失脚しっきゃくするか分からんからな」
 背中を向けて言い放てば、笑い声が聞こえて来る。
 聞いたか?地位と名誉だとよ。はん、そんなもの欲しけりゃ、はなからこんな隊長の下についてないぜ。お前らそりゃあどういう意味だ?
 ざわめきを心地良く聞きながら、琅珂はにっと唇を上げた。
 「地位も名誉も約束できんが・・死に場所ぐらいは、くれてやる」
 
 
 

琅ちゃん独壇場。長いって話ですね、ええ。もちっと文章削れって話ですね。
やっとリクエストっぽい感じになったような。・・やっと。
今更ですが、このお話は「君影脳内世界におけるノン・フィクション」です。
実在する人物、宗教、団体、歴史とは一切関わりがありません。