第7節−1.帝王学

 風月ヴァントーズ10日<鋤の日ベッシュ>。サフェイス暦では、もう死の月ディーシェノルの末。今年もまた、命の芽生えをうなが天の月アテルがやって来る。
 昼下がり。雨のそぼ降るシェオ・フローリィは、雑貨市バザールのようなにぎわいを見せている。
 今朝から急に生温い東風が吹いてきて、大量の雪解ゆきどけ水がノイカーベル山の黒い岩肌を流れ始めた。舗装ほそうされたみぞと言わず、建物の敷居しきいの上と言わず、所構わず茶色い水があふれている。にわかに現れた無軌道むきどうな川が下町フォブールを押し流す前に、内務卿ミニストル・ドゥ・ランテリユールマルヴェは、住民達に避難命令を発した。
 この時代の琺夜ほうやの民家は、簡素かんそむねとして建てられている。丸いを中心として描いた円の上に、平たい石を積み上げて円錐えんすい状の壁と屋根を作り、場合によっては漆喰しっくいを塗って、床に板やわらくだけの「どんぐり型石造建築」は、文明的ではないが、壊れても一日で再建できるすぐれ物だ。
 セルズとの戦や占領せんりょう統治とうち時代の徴発ちょうはつ頻繁ひんぱんに破壊のき目にったこともあり、非常事態にも慣れっこになった市外区民達フォブリャンは、今回もあわてずさわがずわずかな家財をまとめ、ぽこぽこと驢馬ろばひづめも軽やかに、陽気に歌いながら山を登って来た。
 曲がりくねった大通りは、セルズ人の使う荷車よりはばせまく、つ琺夜の条例で定められた小ぶりな荷車の通行はさまたげないようかれている。組合長達の報告によれば、全員の避難が完了したそうだ。
 中庭に木柱を打ち込み、布を張って即席の獣舎エターブル天幕ターントを作る者がいれば、開放した大広間では、女達が衝立パラヴァンを利用して赤ん坊に乳をやる場所を作っている。寝具用のわらと毛布も行き渡り、厨房キュイジーヌからは庶民臭い大蒜にんにくやエシャロットの匂いがただよってくる。ごった返す人ごみの中で敏捷はしっこい少女達がかごを抱え、この時とばかりに、余り生地で作ったゴーフル菓子ウーブリだの、燻製くんせい肉とチーズを入れたガレットだのを売り歩いているのだから、ほとんどお祭り騒ぎだ。
 例によってアガンテーヌ人アガンタン料理長エキュイエ・ドゥ・キュイジーヌソルベーニュ人ソルベーニャ給仕長メートル・ドテルとが配下の調理師団を引き連れ、「おそれ多くも高貴なる王后陛下サ・マジェステ・ラ・レーヌの調理場を下賎げせんな食品でけがされては一大事」と抗議こうぎするので、開放するのは来客用の厨房に限り、大事な真鍮しんちゅうの調理道具が持ち去られないよう見張りをつけることを取り決めて、どうにか納得させたところだ。
 他に、勝手に排泄物はいせつぶつを流すみぞを掘ろうとする男達とそれを制止した歩哨サンティネルが殴り合うという顛末てんまつはあったものの、今のところは大きな混乱もない。
 現場を見て回り、人員を手配して必要な指示を出すマルヴェは、パンと干し無花果いちじくを貰う為に並ぶ子供達の列を通り過ぎた。
 避難民に食事を振舞ふるまうよう命じた時、王家のパン職人パヌティエ果物係フリュイティエは神聖な職を冒涜ぼうとくされたとでも感じたようだが、嬉しそうにはしゃぐ子供達に取り囲まれては、仏頂面ぶっちょうづらほころびかけている。後で王后陛下に頼んで、彼女の口からねぎらいの言葉でも聞かせてやれば、後々わだかまりが残ることもないだろう。彼らも先日の王太子暗殺未遂みすい騒ぎで神経質になっているのだろうが、何かと職人のプライドを振りかざすのが厄介やっかいだ。
 とある少女は真っ赤な頬をして、兄らしい少年ともみじのような手をこすり合っている。可愛らしい光景に、ふと眉間みけんしわゆるめたマルヴェは、今日がどういう日なのかすっかり忘れていた。
 誰かが手作りのオカリナを吹き鳴らしたのを皮切りに、下手な合唱が始まるまでは。
 
 
  静もる森よ 目を覚ませ
  マツユキソウよ 顔を出せ
  
  ナナカマドの枝 燃え上がり
  霧を起こせや 青い霧
  ハンノキの歌よ 呼び覚ませ
  シラカバの歌よ 呼び覚ませ
  
  静もる森よ 目を覚ませ
  マツユキソウよ 顔を出せ
  金の枝よ ほとばしり
  花冠の女王を連れて来い
 
 
 ぞっと背筋が寒くなったマルヴェは、山の手オトゥールの北西に広がる森に目を向けた。
 今日は、古いまつりの日。あの森の中では、昨日の日没から唄い手バルドが春を呼ぶ儀式を行なっている。今も七竈ななかまどの枝を燃やしているのか、薄く立ち昇る煙が見える。
 冬枯れの大地にも雪解ゆきどけ水をめ込む森は、琺夜族の生活になくてはならない場所だ。王家が雇用こようする樹木医アルボリステ森林官フォレスティエが定期的に枝を落とし、るべき木を伐り、若い木々が日光をけられるよう、野生動物の食べる下草がれないよう管理している。
 人々は間伐かんばつした木材で床板や家具をこしらえ、枯れ枝や打ち枝を拾い集めて燃料にする。春には樹間を通る風に花々が顔を揺らし、夏には甘い果実がたわわに実る。秋の森にばらかれた団栗どんぐりは、野生の鹿しかいのししうずらきじうさぎのみならず、人に飼われる豚や山羊の腹をも満たし、食卓を豊かにしてくれる。
 あの森は、“斜面にある楢の森オーク・ハンガー”というセルズ語をなまらせて“オアカンガールの森ラ・フォレ・ドアカンガール”、あるいは単に“フォレ”と呼ばれる。
 語源の通り、多数を占めるのは六十歳から二百歳ほどの若いならだ。他に、この地で芽を出した木々も、遠国からもたらされた木々も入り乱れ、植生は多様でにぎやかだが、樹齢が千年を超える木は少ない。陰鬱いんうつで暗い、果てしない闇が広がるメイシャの森とは空気が違う。
 (そう・・違う。これは・・人に飼われた木々のむれだ)
 何とか心を落ち着かせたマルヴェは、耳をふさいで歌声から遠ざかった。
 子供達が歌うのは、春のおとずれを望む歌。陽気で軽やかな、心が浮き立つような調べ。
 けれども、マルヴェは知っている。それは、古い古い起源を持つ唄。琺夜族がこの地に住み着く前、ガシュクジュール盆地ぼんち全体が古木のだった頃、この地が黒森ラ・スィルヴ・ノワールという広大な森林の一部だった頃から伝わる唄なのだ。神や精霊のむ、深い闇の中に呼びかける唄なのだ。
 六歳の頃、ノワール族の司祭ドリュイドに連れられて行ったメイシャの森を思い出すと、マルヴェは今でも震えが止まらなくなる。
 父がまだ正式な琺夜王ではなく、アウグステやファルツがよちよち歩きの幼児で、今森で唄っているフルリールが叔母アサギの腹の中にいた時代。後に起こる虐殺ぎゃくさつの悲劇など影さえ見えなかった頃、マルヴェは母に手を引かれてノワール族の隊商たいしょうと共にガシュクジュール中を移動する日々を送っていた。
 片目に傷のある司祭ドリュイドは、琺夜族が忘れ去った古い神秘をよく記憶していた。彼は、いずれ琺夜の王となるだろうマルヴェにも、苔生こけむした古い知識を分けてくれたのだ。
 ――七竈ななかまどの霧は、の地に生きるモノの姿をあらわにする。
 年老いた司祭ドリュイドの木肌のような手を握り、七竈の枝をいた薄煙の中で、マルヴェは緑の闇を見た。
 深い深い、底無しの闇の中から、得体えたいの知れないモノがこちらを見つめ、ぎ、触れようとする。
 あれほどおぞましい体験は、後にも先にもしたことがない。
 司祭ドリュイドの手を振り払い、煙の中から逃げ出したことを覚えている。
 恐ろしい気配は、どこまでもどこまでも着いてきた。のどの奥に血の味がするまで走って、母親の脚にしがみついた。下着がれていることに気がついたのは、戻って来た司祭ドリュイドが失望の溜め息をついた時だった。
 (・・くだらん)
 執務しつむ室のとびらの前まで、まだがっちりと耳をふさいでいたマルヴェは、自分に呆れつつ、強張こわばった肩の力を抜いた。
 待たせておいた侍従じじゅうは表情を変えず、手紙が届いていると言って、扉を開けてくれた。暖炉シュミネに移動する侍従をすぐに出るからと制止して、代わりに小さな蝋燭ろうそくを持って来させる。
 嫌な汗をかいた。今日は湯浴ゆあみをする時間があるだろうか。
 森にいのりをささげなければ春が来ないなど、これほど馬鹿な迷信もない。惑星は運動しているのだから、春は人のいとなみなど知らぬげにやって来る。今年は気流の影響で少しばかり寒気かんきが長引いているが、それは森に祈ってもどうしようもないことだ。
 フルリールが病をして唄っても、現実的には全くの無駄むだなのだ。いや、琺夜の文化と慣習かんしゅうを守ることで民衆を慰撫いぶするという役割を否定する気はないが。
 (いかんいかん・・)
 マルヴェは燭台しょくだいを手元に引き寄せ、机の上に置かれた自分あての郵便物を手に取った。
 (防山フォンソンに動き有・・か。グエンの分家筋のマダム・サレア=パルフィーナがパルフィスカに入城・・ヂェルスベルク公と接触せっしょくする可能性も視野しやに入れ鋭意えいい警戒けいかい中・・またか)
 ちょっと目頭に手を当ててから、次の手紙に移る。赤い封蝋ふうろうに爪をかけると、まるでかわいた血のようにくだけた欠片かけらが飛び散った。
 「どこの安物だ・・劣悪れつあく蜜蝋みつろうを使いおって」
 ただちに羽箒はねぼうきで机の上から払い落とし、不快な赤色を忘れようとつとめる。
 病弱で人見知りの激しい弟は、生まれた時から死と闇の世界のふちに立っていた。だから逆に人の世界には馴染なじにくいのだと言って、司祭ドリュイドは長兄の嫉妬しっと心をやわらげた。
 その言葉に、マルヴェは心から納得して生きている。それでも時折ときおり、あの時の挫折ざせつくるおしいほどの屈辱くつじょくとなって心によみがえることがある。
 伝説によれば、琺夜の王はメイシャの森で即位そくいの儀を行い、“森の王”と交わした契約けいやく生涯しょうがい守り続けると言う。いずれ琺夜の王になりたいマルヴェにとって、そこは未知の世界だ。
 古い信仰しんこうがほとんど忘れ去られた今でも、琺夜族は豊作と豊猟を王の手柄てがらとし、飢饉ききんや天災の責任もまた王にあると考えている。e葵しゅうきは春の遅れを“死と破壊の神ディーシェスの怒り”のせいにして琅珂ろうが王太子プランス・エリティエに指名したが、頭でっかちの貴族達はともかく、庶民の多くはそれで納得するのである。
 ほら、陛下は正しかった。無慈悲な死の神ダイシェスが機嫌を直したから、豊饒の女神ヴォラ大地の神カリブンクルの元に帰るのを許してくれたじゃないか、と。

 「・・くだらない」
 歴史をかえりみれば、祈祷きとう予言よげんを行なう司祭がムラの統率者をねることは、あらゆる社会の形成初期に見られる現象げんしょうだ。共同体が成長して一定以上の大きさになれば、多くの場合、政治的権力と宗教的権力は分担ぶんたんされるようになる。おさに“天空の王ケーニヒ・イム・ヒンメル”をえるような特殊とくしゅな政治体制を選択するのでなければ、琺夜も、いい加減に旧習きゅうしゅうあらためるべき時が来ているのではないか。
 今や、この国を引っ張って行けるのは、古臭い森にもって精霊の話を聞く呪術師シャマンでは有り得ない。『国』を治めんとするならば、まず何よりも『人』を見なければならないのだから。千三百四十万の人民を一人たりとえさせることのない指導者。彼らの口を満たし、より一層いっそう豊かな生活を追求ついきゅうする政治家こそが、一国の長となるべきではないか。
 (それができるのは・・)
 『兄様・・いる?』
 「っ!!」
 
 
 マルヴェは苦笑いをして、遅れてやってきたノックの音を聞いた。
 「ああ・・玉葉ぎょくようか」
 平静をよそおいつつ、散らばしてしまった書類を集める。
 小さな妹は侍従を押し退け、音もなく扉を開けて、すべり込むように部屋に入って来た。ごつい軍靴ぐんか絨毯モケットみしめ、しっかりと足跡を残していく。衛生隊セルヴィス・ドゥ・サンテの白い軍服は、泥跳どろはねを浴びて少し汚れている。髪は頭の後ろでまとめられ、ほつれ毛も何となく愛らしい。
 まったく、我が弟妹はどうなっているのだ。まるでしつけがなっていない。まともなおとない方すら知らない者ばかりではないか。
 説教しようとしたマルヴェだが、軍服姿の玉葉にりし日の誰かを重ねて見惚みとれてしまい、しかるタイミングを逃してしまった。
 「兄様・・どうする?ああ、その顔じゃ、ルノードの報告はまだなのね。大変よ、ちょっと」
 マルヴェが何か言う前に、玉葉はいきなりまくし立てた。興奮しているらしく、瞳をうるませ、しきりに唇をめている。
 「落ち着きなさい。ああ、顔が真っ赤じゃないか。お前が来ると知っていれば、暖炉シュミネに火を入れておいたのに」
 席を立ったマルヴェは、上着の上に着たままだった毛皮のマントを脱いで玉葉の細い肩に着せ掛けた。
 彼女が喜ぶなどろくなことではないだろうが、ここ数年反抗期の妹が近頃何かと側に寄って来るのが嬉しくもあり、マルヴェはあまり強く出られない。
 「どうしたと言うんだね?要点を簡潔かんけつに話しなさい」
 美しい妹は、上目づかいでマルヴェの様子をうかがった。たっぷりとらしてから、ひそやかに紅い唇を開く。
 「・・やっちゃったわよ、琅の奴」
 
 
 



 「 死に往くものを見過ぐしてムォーロル・セルタ・スィ 命の場所を奪はんとファルィセルタ 」
   「 ちぎり交はせしびたるも 世にゆるかせなるなまめかしきも 」
 「 生まれたものを撫で目守りリュィーロル・アルカ・スィ 命の場所を造らんとファルィトルタ 」
   「 ほだされたるは べて世にる道に相応ふさはむ 」

 澄んだ声が二つ、け合いのように音を重ね合う。
 フルリールはならの木の下に胡坐あぐらき、り立ての宿木やどりぎで輪をんでいた。伝統に忠実に、毛織けおり貫頭衣かんとうい一枚を腰縄こしなわで留め、裸足はだしで、長い髪をそのまま垂らしている。足元には小さな焚火たきびくすぶり、その隣に、人型の焼き菓子、干し林檎りんご麦酒セルヴォワーズ、それに前後のあししばられた仔山羊が並んでいる。
 
 「 その有様は一向にアルト・アルカ・ゥイ・ノイル 世の理につきづきしトリィ・アズ・ハルモリカ 」
   「 現人うつせみどもよ所得ところうな べてうつろひぬとも 」
 
 琅珂は、年を取った常磐樫ときわがしの枝の間にいた。
 もつれ合った枝と木肌をおおこけをハンモック代わりに、頭を後ろにかたむけて、変な姿勢で眠っている。
 フルリールは乱れた髪の下から、声に合わせて動く白いのどにらみ続けていた。庭常にわとこの汁で縁取ふちどった目に、仄暗ほのくらい敵意をたたえて。
 「・・どうして人はそうあれないのかね」
 フルリールは出来上がった緑の輪を仔山羊の首にけ、緑色りょくしょく黒曜石こくようせきの小刀で一息に喉をき切った。
 それから、哀れな動物の後ろ肢を持って立ち上がり、楢の木の根元を一巡ひとめぐりする。命の色をした輪が完成すると、再び焚火の側に腰を下ろし、項垂うなだれた死骸しがいうやうやしく投げ入れた。
 熱い灰が舞い上がり、鎌首かまくびもたげた炎が生贄いけにえを呑み込む。
 
 
 「・・・・ぬむ」
 美味しそうな匂いで目を覚ましたらしい。上体を起こした琅珂は、いきなり宙に飛んだ。
 軽やかに枝から枝に飛び移り、居心地の良さそうなにれの太枝にだらりともたれる。そして、また動かなくなった。例えるならばさるか、樹上のひょうか。
 「・・ん。唄い手の仕事とやらは、これで終わりか?」
 「・・・・」
 フルリールは焼けた仔山羊の肢をつかみ、小刀で毛皮をいで肉を切り取った。軽く振りかぶって、骨がついたままの腿肉を放り投げてやる。
 木の上で受けた琅珂は、胡散臭うさんくさそうな顔をした。ちょっと匂いをいでから、それこそ獣のように慣れた様子でかじり付き、「塩気がないな」と文句を言った。剣帯サンテュロンにぶら下げた小物入れから調味料を取り出し、適当に振りかけて、今度は「血が抜けていない」、「肉が硬い」とやかましい。
 菜食を好むフルリールも、素手で骨を持ち上げ、深呼吸をしてから、肉に犬歯けんしを立てた。
 すじっぽい食感と共に、口の中に血の味が広がる。嘔吐えずきそうになったが、我慢して咀嚼そしゃくを続けた。
 これは、ささやかな命を森に捧げ、春に沢山の命がはぐくまれるように願う儀式だ。馬鹿馬鹿しい伝統だが、唄い手バルドである以上、琺夜の民が望むまつりは行なわねばならない。
 本来は生贄をそこに残し、他の供物くもつと共に全てを森にかえしても良いのだが、フルリールのこだわりとして、ここであやめた命は一滴いってきなりと我が身に取り込むのが礼儀なのである。自分の後をぐ者がいるとしたら、やはり同じことをさせるつもりだった。
 時を越えて延々えんえんと繰り返される祭儀が、意味のない屠殺とさつに成り果ててしまわない為にも。
 
 
 フルリールがどうにか骨から肉をぎ取り終えた頃には、琅珂は木の下に食べかすを散らばして、二度目の昼寝を決め込んでいた。
 「・・カルドロルカのエルネスティアナ=ロベルトゥス、つまりコードローク出身のアテス神官エルネスティーネ=ループレヒトなら、放っておいて構わない」
 服の隠しから取り出した亜麻リンネルのハンカチで口をき、しゃべり始めても、木の上の無礼者はまだ目を閉じている。
 「彼女はただの使い走りで、げほっ・・ご主人様はマルガレーテ=ビルキース。あの老いぼれねずみ大概たいがいしぶといけど、獲物えものの周りを爪の長い黒猫がうろついてると知れば、猫の注意が他所よそを向くまで物陰ものかげでじっとしてるだろうさ」
 「仲間の鼠どもが戻って来る可能性は?」
 どうやら、話は聞いているらしい。
 「だとしても、おそうのは家猫の方さ。もともとそれが目的だからね。あいつに、可愛いひきょうを人質に取るような度胸どきょうはないよ」
 「・・それは貴様の憶測おくそくであろう」
 フルリールは、ふ、と口元をゆがめた。
 ふざけた罪をこじつけて自分とマルヴェを殺そうとした老女は、今頃さぞかし保身ほしん奔走ほんそうしていることだろう。
 「彼女にそんな余裕はないね。・・と言うより、アウグステが与えてくれない。ビルキースは、ペリード・インダストリーエンを敵に回した」
 「・・・何だそれは?」
 「お前に言っても分からないだろうけど、姉さんの会社は王立神事院おうりつしんじいんに巨額の寄付きふとうじてて、魔道具産業界のマーケットシェアマルクト・アンタイル60%強を占めている。報復ほうふく措置そちとして経済制裁せいさいを匂わせれば、禁言院きんげんいんはウチと手を切るよりもマルガレーテを切り捨てるさ。陰謀いんぼうってのは、こそこそやるから効果が高いんだよね」
 琅珂は、こけに指をこすりつけてあぶらを拭き取っている。
 「・・『天』の社会構造は良く知らんが。手負いの獣こそ獰猛どうもうであろう」
 フルリールは、むっとして琅珂をにらみ上げた。
 「・・・何だって?」
 「マルガレーテとやらが右足を失ってヂェルスベルクにい戻ったのが、マルヴェが琺夜に戻って来たのと同じ日だそうだ。貴様は妙に奴らの動向どうこうに詳しかったな。その癖、クレイ・フェオが襲撃しゅうげきされる直前まで放置ほうちしていたが。貴様、一昨日おとといはどこで何をしていた?メイシャに行っていたなど、嘘だろう」
 大方、ヂェルスベルク公から聞き出したのだろう。今まで黙っていたなんて、嫌な奴だ。
 「・・拷問ごうもんはお前ほど得意じゃないけどね。二度と僕の顔を忘れられないぐらいの目には遭わせてやったよ。彼女がお前を攻撃する気になるとしても、それは僕を片付けた後のことさ」
 「・・・・」
 フルリールは少し考えながら、目の周りの化粧けしょうぬぐった。
 明け方、儀式の途中に、クレイが琅珂の腕を引いて来た時は、驚いた。
 どうも、一戦共闘して気が合ったらしい。
 長年の確執かくしつを知っていながら、満面の笑顔で「お前ら喧嘩けんかしてると俺が気まずいだろ。兄弟仲直りしろよ」とか言い出す親友の強引さと無神経さにもあきれ果てたが、それよりも、この横暴おうぼう小僧がおとなしく引きられて来るなんて。クレイの脚衣キュロット長靴ボットには、小さな足跡がいくつもついていたが。
 「それよりも、さっき・・お前が喋ってたのは、の言葉かい?」
 
 
 フルリールの問いかけに、琅珂は目を瞬いた。にれの木肌をさすりつつ、さっきまで寝床にしていた常磐樫ときわがしに顔を向ける。
 「俺の口が動いたか?くも若い森には、語る木もあるまい。グラーヌムのごとき妙なけ方をした植物なぞ」
 「お前は本当に間抜けだね」
 フルリールは、罅割ひびわれた声で笑った。
 「何も感じなかったのかい。わざわざ口を貸さなくたって、彼らは常に雄弁ゆうべんじゃないか。凡庸ぼんような詩人だって、野薔薇のばら小夜鳴鳥ナイティンゲールに歌を返すことがあるって知ってるのに。あの鳥がおすだってことは、何故か気付かないみたいだけど」
 琅珂は欠伸あくびみ殺した。
 「舞台の上でやっておれ」
 「寓話ぐうわ虚構きょこうは美しいね。本物の草木の声は・・とても痛々しくて、心が張り裂けそうになる。お前には聴こえないのか?聴く気がないのか?」
 「そこの宿木やどりぎは、ならとうまくやっておるな。あちらの栴檀せんだんは、そろそろ木蔦きづた抱擁ほうようが苦しくなってきたと嘆いておるが」
 琅珂は腰から短剣を抜き、隣の“オカリナの木”から伸びている枝をつかまえた。なしのような形の“オカリナの実”を切り取り、ちょっと振ってみる。ぽっかりと一つ空いた穴に口を寄せ、軽く息を吹き込むと、ひゅろろぅ、と音が鳴った。
 中が空洞の“実”は、短剣で穿ほじってうまく穴を足せば、なかなか良い笛になる。夏頃、まだ穴が空いていないものには小さな虫がいっぱい入っているから、ぶつかった時に割れるように切り込みを入れ、フルリールに投げつけても面白い。
 「そんなものにかまけて、どうなる?放っておけば奴らが地面から根を引き抜いて暴れ出すとでも?ここの木どもは、去勢きょせいした牛のようにおとなしいではないか」
 琅珂は、短剣の先で“実”をつつきながら言った。
 この木は、他の場所で見たことがない。図鑑ずかんっていなかったから、こいつがどこからやってきたのか、故郷でどう呼ばれているのかは分からない。フルリールなら知っているだろうが、話しかけるのもしゃくで、訊いたことはない。
 「ノイカーベルに生きる命は、全てが人の家畜のようなものだから。木々だって、生きている時から材木なんだよ。なら宿木やどりぎも。榛木はんのきかば菩提樹ぼだいじゅ糸杉いとすぎもトネリコもかしくり林檎りんご庭常にわとこにれもポプラもオリーブもレモンもアカシアも・・・・皆。そうじゃなかった時代を知ってる年寄りも、自由な木々から生まれた胞子ほうし団栗どんぐり達も、人の都合で遠い国から移植いしょくされた木々も、人の支配を受け入れている」
 「それがどうした?こいつらには悲壮ひそう感なぞ欠片もないぞ」
 フルリールは、年寄り臭く強張った背筋せすじをゆっくりと伸ばした。
 大きく広がった楢の枝の分れ目に、所々丸くしげった宿木は、そこだけ明るい緑色をしている。それを見上げ、まぶしそうに、さびしそうに目を細めた。
 「・・それでも、言いたいことはあるさ。ご主人様に不満のない奴隷どれいなんていないからね」
 琅珂は手を止めて、兄の顔を見た。数秒、時間をかけて見つめた。
 フルリールは、嫌らしくにやけてはいなかった。鼻先に馬糞ばふんを近づけたようなしかめ面でもなかった。
 「・・良く、喋るではないか。いつもこそこそと他人のかげからものを言う奴が」
 ふと右肩に違和感を覚えた琅珂は、短剣を持った手でふさふさしたものを捕まえた。親指と人差し指でつまんでみれば、尻尾しっぽの大きな栗鼠りすがぶら下がっている。
 「・・・・」
 胴体がびょんびょんとね、小さな四肢ししがぴこぴこと動く。玉葉なら歓声かんせいを上げるかもしれないが、琅珂は翼馬よくばの方が好きだ。彼らなら、こんな風にちみちみ動き回るだけでなく、面白い反撃をやらかしてくれる。
 気付けば、フルリールのひざの周りにも、毛長鼬けながいたちだの黒歌鳥くろうたどりだのと小動物や小鳥がたかっている。食べ残しでも拾いに来たのかと思いきや、うさぎ達までじゃれているではないか。何とも妙な光景だ。
 「・・この辺りの生物は、貴様になついておるのであろうよ。俺には何も語らん。グラーヌムの森の木どもは、翼馬どもにも負けずやかましいがな」
 ぽいと放り捨てると、栗鼠はくるりと反転してりずに右腕を駆け上り、首の後ろを回って、左腕を降りて来た。かわいた実の穴をちょっとのぞき込み、食べるものがないと分かると、前足でちょこちょこと顔を洗い始める。
 隣の木から山猫がにらんでいるのに気がついて、琅珂はかすかに笑った。この森の動物達には、フルリールの側では狩りをしないという決まり事でもあるのだろうか。
 「お前は・・メイシャの、あのおどろおどろしい怨嗟えんさの声を・・」
 フルリールは、頭に冬眠明けのヤマネをせている。
 例えば、透き通るような白磁はくじ、傷のない緑柱石エメラルド、天然の琥珀金エレクトラム。例えば、ごてごてと飾りのついた剣、無駄な細密画の描かれたたてとがった装飾が手を傷つけてしまう食器。
 極上の素材で造られた、悪趣味で残念な芸術品。フルリールとは、そういうものではなかったか。
 「グラーヌムの眷属けんぞくどもは、琺夜族の兄弟であろう。あれほどに心地良い場所はない」
 フルリールは、手入れされた眉を動かした。熟考じゅっこうするような素振そぶりをしてから、大袈裟おおげさに頭を振る。
 「あぁ・・お前は人間じゃなかったな」
 ぱき。
 驚いた栗鼠が、きぃと鳴いて逃げて行く。山猫が後を追ったが、狩りには失敗したようだ。
 「・・何切れてんだ。本当のことだろ。世界は・・少なくともメイシャのほこり高き木々は、お前を僕みたいな人間だとは認識してないんだろ?お前は人類を除くあらゆる命から愛されてるし、僕の感じてる痛みなんてさっぱり分からないだろう」
 「・・・・」
 琅珂は短剣をさやに戻し、割れてしまった“オカリナ”を投げ捨てた。
 けた頬。くまのできたれぼったい目。汚らしく流れ落ちた植物の汁に染まった、産毛うぶげと呼ぶには目立つ無精髭ぶしょうひげ蜘蛛くもの巣や小枝を引っ掛け、まだらに血を浴びた髪の毛と襤褸ぼろ。見下ろせば、そんな姿がそこにある。
 驕慢きょうまんな宝飾品が、何時なんどきであれ見せた事のない輝きをともなって。
 フルリールは、すぅと息を吸った。
 「この森も、メイシャの森も、かつては一つの黒き森ネイル・シルーアだった。人は、森の命を少しずつもらって生きてきた。少しずつ少しずつ、沢山の命をかてにして・・増え過ぎた。恐ろしい速度で、今も増えている。うじゃうじゃうじゃうじゃ・・気持ち悪い」
 琅珂はみきもたれて曇天どんてんあおいだ。
 「昨今さっこん天空の民シエリスタらしからぬことを言うではないか」
 天空の民は、傲慢ごうまんな人類の中でも取り分け“ヒト”という生物の命が抜きん出てとうといものだと信じている。神の意思をみ取ることを忘れた神官達が、天空神アテスの愛を誤解して、人は世界のあらゆる存在を資源とすることが許される上位者なのだとさえれ回っているらしい。
 「僕は、彼らの同胞どうほうである前に、唄い手バルドだもの。人の想いと願いを唄にして森に伝え、森の痛みを全身全霊で受け止めて、その声を人に伝えるのが使命。大地の恵みをける代わりに、森を守る。取り分け、同じ人間達から。それが、琺夜の王と森の王との間に交わされた誓約ゲッシュだっただろう」
 「ああ」
 琅珂は、何となく拍子ひょうし抜けした。なるほど。それがこいつの誇りということか。受け継いだつとめを当たり前に果たすことが、こいつには己に陶酔とうすいできるほどの自信になっているのか。
 フルリールは、つかれ切ったように首をれた。
 「『ああ』じゃないよ『ああ』じゃ。お前は大、失、格だ。それだけ良い目と耳があっても、お前は見ないし、聞こうとしない。お前の声が森に届くのは、“声が大きい”からに過ぎないんだろ?お前はある意味、僕の親戚しんせき達が理想としてる人間のり方そのものじゃないか。メイシャのあらゆる命は、お前の命一つの方が上等でえのないものだと思っている。はっ!お前はそれが当たり前で生きて来たんだからな。森の命も、人のいとなみも、お前にとっては他人事なんだろう?」
 森はねっとりとした霧雨きりさめに包まれ、服や髪が殊更ことさらに重い。
 琅珂は前髪をき上げ、考えた。ぐだぐだとけなされているが、さて、腹を立てるべきなのか。
 「・・メイシャを守るのが唄い手の役目ならば、貴様はカタルシアの存続そんぞくを許したjhそうきを憎むべきであろう。あの史実をふざけた劇に仕立ておったのはどこのどいつだ?」
 とりあえず言動の矛盾むじゅんを突いてみると、フルリールはいつもの嫌らしい顔つきになった。
 「ジーラッハとセルシアの決闘も、jh王の男気も、人の物語としては美談びだんだろ。森の王との契約を守るべき琺夜の王としては、前代未聞ぜんだいみもん失態しったいだけど。その事でも、森は怒ってる。あの時からずっと、僕らが契約をないがしろにしてるから」
 琅珂は鼻を鳴らした。
 面倒臭くなってきた。フルリールは、そんな自明の事を並べ立ててどうしたいのか。
 「勝手に集まって、あんなところに国を造った馬鹿共は、今日だってグラーヌムの眷属けんぞくを殺しているんだから。jhは、マダム・セルシアをだまちしてでも、カタルシアを破壊するべきだった。グラーヌムの森を百年先まで奴らの自由にさせるなんて。・・ま、過ぎたことさ。これは、不戦条約の期日が過ぎた後で、僕らが片付けるべき問題だよ」
 「『僕ら』?」
 「・・ここだけじゃないよ。衛星ほしの目で見てみれば、もう一目瞭然いちもくりょうぜんなんだ。世界中のあちこちで、人間は世界を食いつぶそうとしてる。千年・・もたないな、二百年後には、もうメイシャは荒野こうやになっているかもしれない。だから、お前なんかが生まれてしまったんだろ?カッコウの托卵たくらんより禍々まがまがしいやり方でさ。死のいかずちを呼ぶトネリコの王よ、あんたは滅ぶべき人のかたちを乗っ取って、僕の弟だなんて気持ちの悪い演技を続けてるんだろう?」
 「・・・・」
 どうも、分からない。こいつの話は不愉快ふゆかいだが、怒りに切り替えるには熱が足りない。
 「なあ、ディーシェス。教えてくれよ。あんたが浄化ジェノスィドの為にやって来たなら、そんなところで何をしてるんだ?森は悲鳴を上げている。あんたが何もしないでいる間に、世界はきしんできているぞ」
 「・・・・」
 やはり、眼球を煮溶にとかしてやるには熱が足りない。愚かなフルリールは、それでも挑発ちょうはつしているつもりなのだろうか。
 最低限聞きたいことは聞いた。生温なまぬるい温度が気持ち悪くなってきた琅珂は、勢い良く枝をりつけた。
 泥水をね上げて泥濘ぬかるんだ地面に降り立ち、帰り道に足をみ出す。
 「・・今日はクレイ・フェオの顔を立ててやったが。やはり貴様は理解できん。胸糞むなくそ悪い」
 友人の名前を出すと、顔に散った泥をぬぐっていたフルリールは、びく、と震えた。
 「大体、貴様の言うことは矛盾だらけだ。たわけた妄想もうそうは知らんがな。友人を救いたいと言っていた奴が、人類に滅亡せよとは」
 「何がおかしい?」
 フルリールは、心底不思議そうに首をかしげた。
 「この世から綺麗きれいさっぱり人がいなくなるなら、僕はフェオが死んだって気にしないよ」
 足を止めた琅珂は、細い煙を上げるおきはさんで、やつれ気味の美貌びぼうを見下ろした。
 生きた人間の顔に、黒い穴が空いて見えることがあるとは知らなかった。
 「知らなかったか?僕は人間が大嫌いだ。琺夜族だろうが天空の民シエリスタだろうが、ヒトって種族は全部嫌いだ。お前も嫌いだけど、うん、上を行くな」
 「・・・・」
 背筋の冷たさは馴染なじみがなさ過ぎて、琅珂はそれを怖気おぞけだと思わなかった。
 「僕は、お前と違って人間なんだ。お前のようには流せないんだよ。人にさいなまれる木々の声がいつも耳から離れなくて、可哀相かわいそうで、何とかしてあげたいのに、僕もいじめる奴らの同類なんだ。
 ・・それが本当に気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて、どんなに謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても許されなくて、人は自分勝手でみにくくて汚くてはじさらしで、もう、皆さっさと死んじゃえばいいのに。みーんな死んだら、僕も安心して自殺するんだけどなー・・とか、そんなことを毎日考えてた時期もあったわけだ」
 「・・おい」
 「母上とかファルなんかは、僕をe葵しゅうきから遠ざけて、更正こうせいさせようと頑張がんばったんだ。僕がこうなったのは、別にクソ親父のせいじゃないと思うけど。お前を育てた女とは比べられやしないけど、彼らの苦労も想像がつくだろ?家族の愛情は感じてたよ?でも、彼らが僕を守ってくれるのは、結局のところ彼らに近しい血を残す為だろ。僕のことなんか丸きり理解しようとしない。彼らはつまり、言うところの、地に足の着いた生活ってやつをこよなく愛してて、自分達に見えないもののことなんかどうでもいいんだよね」
 「どうでもいいな。貴様の変態へんたいぶりなぞ聞きたくもない」
 琅珂は吐き捨てた。
 うざい。何のつもりなのだろう。話を聞けば聞くほどに、果てしなく気色悪い。
 「フェオも、勿論もちろんそういう汚い人間の一人だよ」
 「・・・もう良いから黙」
 ふっと、フルリールの顔貌がんぼうに色が戻ってきた。
 「あいつは、僕が大切だと思っているものを否定しやしないけど、理解もしない。僕が人間が大嫌いだって言ってるのに、僕の手を引いて、人の輪の中に入れようとするんだよ」
 「・・・・」
 少しばかり思うところがあって、琅珂は話をさえぎることをしなかった。
 「で、僕を社会から排斥はいせきしようとするまともな人間達から守ってくれる。僕が、本当にゆがんでて、人を傷つけることしかしないって分かってて、ね。分かってる癖に、いつも僕をしかるんだ。まるで僕を・・そう、救える、とか思ってるみたいに。無駄むだだよね。馬鹿だよねぇ。放っておいてくれたらいいのに。本当に身勝手な独善者どくぜんしゃだと思わないか?」
 「・・だから何だ?」
 フルリールは、幸せそうにほおめて笑った。
 「でも、あいつを通して聴くと、魔法をかけたみたいに世界の音楽が変わるんだ」
 「・・・・」
 「あいつは、世界の中で特別な存在って訳じゃない。僕のそばにいてくれたのはたまたまフェオだったけど、あいつ程度に善良で純粋じゅんすいな馬鹿は、どこにでもいる。だから、だからこそ、僕はこうも思えるんだよ。人のかなでる旋律メローディアは、偉大な交響曲スィンフォニーア粉砕ふんさいし兼ねないほどおぞましいのに、時々、泣きなくなるほど美しい響きエウフォニーアが混じってる。一人一人が別の誰かをおぎない合って、思いりの糸でまれた繊細せんさいあみは、ほころびだらけだけど、凄く綺麗きれいなんだ。
 ・・この森だってさ、人に搾取さくしゅされるだけじゃない。適度てきど間引まびかれることで、若い木も老いた木も平等に日をびることができる。この森をねぐらにする動物達も、山崩れや火事をそれほど心配しなくていい。人が枯れ枝を拾うから、魚達はんだ小川で産卵できる。全部がこんな調子なら、こういうり方も美しい・・って、今は思える。だって、原初げんしょの“唄”がつむがれた昔、人は偉大なスコアパルティトゥーラに欠かせない声部パルテで、自然のり上げた秩序ちつじょを支える糸の一筋ひとすじだったんだ。その頃の人々は、自然の全てに心を見出して、自分にとって善いものも悪いものも、全部受け入れてたんだろうね」
 「・・・・」
 「唄い手バルドが、森と人との仲立なかだちを果たす者ならば、僕はフェオに出会えたから唄い手バルドになれた。あいつがいるから、僕は人間の本質よりも幻想げんそうを信じていられる。森の痛みを、人の気持ちで受け入れることができる」
 「・・・・」
 「でも、僕は弱いからさ。あいつがいなくなったら、きっと、あの雑音の中に隠された調和アルモニーアが聞こえなくなってしまう。全ての音が不快になって、森の悲鳴に押しつぶされたら、もう唄い手バルドではいられない。母上や、兄さん達や、アウグステやりんのことだって、愛していると確信できなくなる。後はジアンのように、森の命と同化することを望むだけさ」
 「・・・・」
 「・・・・」
 ようやく沈黙が訪れると、琅珂は顔をゆがめて息を吐き捨てた。
 「・・惚気のろけはそれで終わりか?」
 「イヤだなぁ。惚気に聞こえたかい?」
 フルリールは頬に手を当て、何やらくねくね動いている。
 琅珂はこめかみの辺りに引きる感触を覚えながらも、聞き流した。
 「・・で、何が言いたい?」
 「フェオはお前にれたかい?」
 琅珂は、ぎりっと歯を噛み鳴らした。
 「いい加減に・・!」
 「・・冗談じゃないよ。そうだといいんだけど」
 フルリールは、さびしそうな顔をする。
 琅珂は、更にちょっと引いた。不気味だ。いつぞや、こいつが舞台で“妖精姫”だかの役をやった時、劇場テアートルに向かう道が大渋滞じゅうたいになったが、琺夜の国民はどいつもこいつも頭がいているのではないか。
 「あいつは、戦うことしかできない男なんだ。おまけに、他人の為にしか生きられない。いつも、戦う理由を与えてくれる人間を探してる。四、五世紀も前の叙事詩エポペ手繰たぐれば、あんな性格の英雄えいゆうがいるけど。人間の性質が面倒臭くなった今じゃ、ただの死にたがりさ。駄目だめな奴にばかりかれて、そいつの為に平気で命をけてしまう。・・お前、気に入られただろ?」
 「・・・・俺をけなしたつもりか?貴様の自虐じぎゃくか?」
 「何言ってるんだ?どう聞いても友達自慢じまんだろ」
 「・・・・」
 疲れてきた。
 「だから、真面目にやれ。適当に遊んで、後始末をマルヴェに放り投げるなよ」
 琅珂はちょっと考えて、目をいた。
 今のは、まさか、そういう意味なのだろうか。
 「貴様・・。・・待て。話が見えんぞ。どういう論理ろんりでそうなる?」
 フルリールは溜め息をついた。
 「全く、マルヴェやファルツもそうだけど、どうして男って馬鹿なのかな?一から十まで筋道すじみち立てて説明しなきゃ理解できないなんて、僕の女友達を見習いなよ。ブランシュって無学歴だけど気が回る女でさ」
 「・・ブランシュ?」
 「ブランシュの話なんかしてないだろ。フェオに、死に場所をやるとか言ったらしいな」
 勝手なことをほざくなと反駁はんばくしようとした時、フルリールの声が急に低くなった。
 「そう言っておけば、変に期待きたいされないとか、やばくなったら道連れになる前に見限みかぎって立ち去るだろうとか、そういう生温いことを考えてたんだろう?」
 琅珂は驚いた。
 フルリールの考えていることなど、さっぱり理解できない。ところがこの兄は、はるかに自分のことを良く知っている。そばに寄るどころか、視界に入れるのも嫌な人物を、そこまで観察していたとは。
 (・・真面目に、俺を狩るつもりだったか?)
 「祭司プレートルとしても、壊し屋ブリズルとしても、お前は出来損できそこないなんだ。せめて、お前の為に死ぬつもりになってる馬鹿を裏切るなよ。ああいう馬鹿は、今の琺夜じゃまだそれほど珍しくない。ふるい生き方に誇りを持っている戦士達は、マルヴェが作ろうとしてる琺夜では生きられない。本当、あいつ僕より不器用なんだから」
 お前が王になれ。
 一応本気で言われていると分かり、しかしやはり納得できず、琅珂はいらついた。
 こいつの思考は、あっちこっちに飛ぶ上に、かなり偏屈へんくつで、どうもみ合わない。まるでおしゃべり好きの女達の話を聞いているようだ。
 「・・・それは、貴様の望みではないのか?俺に言うのは筋違すじちがいであろう」
 「僕の望みはね、人としての、僕の望みは・・あいつの武勲詩ジェストを歌ってやることだった」
 フルリールは、ぞっとするほど綺麗な目をして、
 「僕は、あいつのセニュールにはなれない。だから、フェオの好きな琺夜だけは守りたかった。・・水銀は、人の感じる力、考える力を凍らせる。鉱物毒には“冬眠”でも対抗たいこうにくいから、あれってマルヴェに使うことも考えてたんだよね、ここだけの話」
 唐突とうとつに自白した。
 「・・・は?」
 琅珂は、これで兄を殺しても正義が成り立つことに気がついた。にもかかわらず、言葉が出て来ない。
 こいつは、マルヴェを『愛している』と言ったはずだ。マルヴェを守って戦った筈だ。あいつを『家族』だと・・
 「クソ親父が、お前じゃなくてマルヴェを指名してたら。『強い琺夜』を守りたい玉葉も、色々と勘違いしたe葵のめかけ達も、皆がマルヴェの命をねらってた。ファルツは・・どうする気だったのかな?愛する妻子に離縁状を渡して実家に帰らせてるけど。あの日、本当はスノゥリィ家の平和が終わる筈だったんだ。ヂェルスベルク公とビルキース財閥ざいばつは、そのすきけたんだよ」
 フルリールは遠くを見つめている。その顔が穏やかなことは、誰かにとって救いになるのだろうか。
 「でも、全部調子がくるった。お前は理想も野心もしがらみもないのに、気紛きまぐれで戦場に出て来たら最強だ。そんな奴が何を仕出しでかすか、皆、それだけは全然読めなかったから。まぁ、クソ親父の考えは知らないけど。僕とヂェルスベルク公以外は様子見に回ったんだよね」
 「・・・・」
 雨足が強くなってきた。
 「・・結局、お前が一番甘かったな。僕を殺したら後には引けないって所にまで頭が回ったのは意外だったけどね。責任取るのが嫌で逃げ回った挙句あげくマルヴェに言いくるめられるなんて、ダサいにも程があるよ」
 「・・・耳が痛いな」
 琅珂が認めると、フルリールは少し目を見開いた。驚愕の表情は一瞬で消え、いよいよ失望したように長い息を吐き出す。
 「だが、考えが甘いのは貴様も同じであろう。貴様を殺した後で、俺が唄い手の務めをぐとでも思ったのか?」
 フルリールは、小雨にけぶ熾火おきびつばを吐き捨てた。琅珂にとっては一番見慣れた表情で、長い髪をばさっと背中に払う。
 「はは・・違うかい。お前は何もかもめきってるけど、少なくとも、グラーヌムの森を愛していると思っていたよ。違うって言うなら、ああ、お前の言う通りだ。何をしても、何もしなくても、存在してるだけで迷惑な有害物質に、ほんのわずかでも期待した僕が愚かだったよ」
 それは、心底からの軽蔑けいべつと憎悪。
 琅珂が今まで傷つけ、殺してきた、幾千幾万の人間達の感情を煮詰めても、この男一人の呪詛じゅそまさるだろうか。
 (・・仲直り、とはな)
 クレイの奴も、言ってくれたものだ。こいつと仲が良かったことなど、一度もなかったのに。
 昔は、どうして憎まれるのか分からなかった。乳母の腕に抱かれて、初めて顔を合わせた時から、フルリールは緑柱石エメラルドの瞳に憎悪をたぎらせていた。木蔭こかげからのぞき見た時、とても優しい、とても綺麗な声で歌う兄が、どうして自分に気付いた途端とたん、怖い顔になってしまうのか。全く理解できず、悲しかったこともある。
 遠い昔にどうでも良くなった事実を、今になって知ることになった。あの時自分がどうしていようと、こいつとは決して仲良くなれなかったということを。
 琅珂は、ゆっくりと前髪を掻き上げた。
 「・・ところで貴様、高音の伸びが弱くなったな」
 反応は、劇的げきてきだった。
 一瞬でほおの赤みを失ったフルリールは、のどに手を当て、焦点しょうてんのぶれた目を地に落とす。
 なるほど。
 こいつも、もう少年とは言いがたい年だ。唄い手バルドであることが生き甲斐がいの男が、その美声を失いつつある。あせっていたのは、そういうことか。
 溜飲りゅういんを下げた琅珂は、シェオ・フローリィに向かって歩き出した。
 フルリールにとっては、何より残酷な一言。それで満足していたのに、横を通り過ぎた時、更に意地悪な気分になった。
 「・・ああ、俺がクレイに言ったことは、本気だぞ」
 「っ!」
 激情と共にふくれ上がる神通力グリスを背中に感じて、唇に笑みが浮かぶ。
 甲高かんだかい鳴き声と羽ばたきの音がして、小さな影がいくつも琅珂を避けるように飛び過ぎていく。
 「何だ?」
 「・・・・」
 わざわざ振り返って笑いかけてやると、フルリールは悔しそうに目を伏せ、握り締めていた小刀を下ろした。
 攻撃されたら顔でも潰してやろうかと思ったが、こいつには無分別むふんべつになれるほどの度胸もないようだ。
 「・・フローレン・スノゥリィ・ペリメダエ・シルウァ」
 フルリールは、低いうめき声をらした。
 「跪拝せよゼルハ
 琅珂の一言で、白い顔がまともに泥濘ぬかるみの中に突っ込んだ。
 「・・がっ、ぶ・・っ!」
 どうにかあらがおうと細い指で土を掻きむしる兄を見下ろし、琅珂は笑おうとした。ところが、胸がくことはなく、逆に苛立いらだちがつのる。
 馬鹿らしい。こんな弱者を相手に、自分は何をやっているのだろうか。
 「・・戻れサルカ
 強制の呪文を解いてやると、フルリールは地面に転がり、無様ぶざまに着崩れた布切れを握ってき込み始めた。そうしながらも、凄まじい形相ぎょうそうでこちらを睨み続けている。
 そう言えば、こいつは翡よりも体が弱かった。もう風邪かぜは完治したのだろうか。よくもまあ長い時間、こんな薄着で唄い続けたものだ。
 「喜べ。貴様の望み通りであろう?」
 兄の矜持きょうじを認めながらも、琅珂は冷笑と皮肉以外に、それに応じるすべを持たなかった。
 「精々せいぜい期待しておれ。俺が奴を使い潰す前に、そののどが潰れないことを祈っておるぞ」
 
 
 


腹黒・・とゆーか何かが捻じ曲がった人々。はい、7節−2に続きます。
泣かせた女とファンは星の数だけど、素朴な友達は一人しかいないフロー兄さん。「森≧友達>家族≫||越えられない壁||≫恋人」が彼基準。
傍から見ると痛い人だけど、「美人に変態いない」フィルターかかった一般人は、天才は紙一重とか思ってくれるらしい。
どこの中二病よ!こんなチートキャラ考えた奴!こんなの視点じゃピンチとかwktk展開にしようがないんだよ!
こいつ生んだ頃はリアだったものの、今となっては・・ とか、病気当時にはなかった日本語(?)で綴ってみたり。

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