第2節.長男と四男

 風月ヴァントーズ2日<ハナミズキの日コルヌイエ>。今日も窓の外には雪がちらつき、昼間から薄暗い。
 弟がポルト蹴破けやぶったことには気付いていたが、マルヴェは舗装ほそう工事に関する書類から目を上げず、黙ってインク瓶アンクリエの中にペン先を突っ込んだ。
 書斎ビュローの中や廊下クーロワールに控えていた使用人達は、琅珂ろうがの足音を聞いた時点で逃げ出している。
 暖炉シュミネの中でまきぜ、バチン、という音と共に火の粉が舞い上がった。
 「・・顔を上げろ、マルヴェ」
 根負けした琅珂が口を開いてようやく、ちらと目を上げる。
 「宮廷では、琺夜の名で呼んで貰いたいね。何か御用かな、王太子殿下ヴォトル・アルテス・ロワイヤル・ル・プランス・エリティエ?」
 「ふざけるな!何だあの宣下せんげは!?そんな面倒なものになる気はないぞ!」
 マルヴェは署名した書類を脇に置き、次の書類を手に取った。
 「私にどうせよと?不満があるなら、王陛下サ・マジェステ・ル・ロワ奏上そうじょうするがいい」
 琅珂の怒りをあおっておいて、鼻を鳴らす。
 「・・それとも、ひまを持て余して私を笑いに来たのかね?」
 『おとしいれられた敗者』の顔を装って弟を睨みつけると、怒り狂う琅珂の片眉がぴくっと動いた。
 これが演技なのか本気なのか、しばし考える表情を見せたが、すぐにどうでも良くなったらしい。用件を口にした。
 「内務卿閣下ヴォトル・エクセランス・ル・ミニストル・ドゥ・ランテリユール司法警察ポリス・ジュディスィエールは貴様の管轄かんかつであろう。・・フースが投獄とうごくされた」
 「フース?」
 「エパノス・フース=アッシュダークだ」
 マルヴェはああ、と頷いた。
 琅珂の侍医じいを務めている少年だ。可哀相に、フルリールの悪戯いたずらに巻き込まれたのだろう。
 「お前の友人は何かしたのかね?」
 「王太子の暗殺未遂あんさつみすいだ!・・あいつの薬に水銀が入っていた」
 そらとぼけて尋ねると、予想通りの答えが返って来た。
 「未遂に終わって何よりだ」
 「貴様らの仕業しわざか?」
 マルヴェはペンプリュムを置いて、美しい色をした硝子細工ヴェロトリインク瓶アンクリエふたをした。
 「『貴様ら』とは、誰のことだ?根拠こんきょがあって口にしているのかね?」
 「・・追及して欲しいか?」
 「許可しよう。やってみるがいい。拷問ごうもんはお前の得意とするところだろう」
 「・・・・」
 どうせ、その哀れな子供がフルリールの名をしゃべることはないだろう。これで解決だ。
 書類を束ねて純銀の重しプレセパピエを乗せ、吸い取り紙ビュヴァールを片付け終わっても、相変わらず琅珂はそこに立っていた。
 何やらつらそうな、あまり見ない表情をしている。ひょっとして、この性格が破綻はたんした子供も、友人の裏切りに心を痛めるなどということがあるのか。
 「・・まだ言いたいことがあるのかね?」
 さっさと出て行け、という意味で問いかけると、ここで琅珂は長い溜め息をついた。
 そして、憤怒ふんぬに燃えていた目を閉じ、にこっと微笑む。
 「この国の司法しほうとは、実にふざけていると思わぬか?」
 マルヴェはぎょっとして、部屋の端から自分を見ている弟を見つめ返した。
 おだやかな表情をしていると、この子は恐ろしく母親に似ている。
 (瞭桜りょうおう様・・)
 かつて愛した女性の、美貌びぼうを受け継いだ息子。誰よりも憎らしい父親とそっくりな眼差しを持つ弟。
 彼にとっては、琅珂の存在そのものがこの世の悪夢だ。
 「俺がただ王子であった頃は、フルリールが俺に何をしようと無視していた癖に。王太子に指名された途端、フースを捕らえて罰するというのだ。ならば俺も、こんな国のやり方に従うつもりはない」
 マルヴェは眉間みけんしわを寄せた。
 「琺夜に愛想が尽きたなら、また出て行くがいい」
 「おや、俺は次期国王に指名された筈だが?」
 「案ずるな。誰もお前などに期待してはいない。王后陛下サ・マジェステ・ラ・レーヌも、先の父上の失言にはいたく失望なされたご様子。母君の不安を取り除いて差し上げるがいい」
 くす、と笑い声が聞こえた。
 「我が母をお気遣きづかい下さるのか?アサギ殿の手先ともあろうあなたが」
 ペン先を小箱にしまったマルヴェは、インク瓶を片付けようと手に取った。
 「・・さっきから何が言いたいのだ?私は忙しいのだがね」
 「これを見ろ」
 琅珂は唇を上げ、扉のかげから何かをり出した。
 妙なかたまりがごろごろと部屋の中に転がり込み、マルヴェの近くにやって来る。
 丸い、人の頭ぐらいの大きさの白い包み。
 一部にぽつぽつと赤い斑点はんてんがあるところを見ると、本当に人の生首のようだ。


 「・・・・」
 静止した塊の布がめくれ、中身が一部露出ろしゅつした時、マルヴェは、自分の手の中でインク瓶が割れる音を聞いた。
 やや栗色がかった、つやのいい黒髪。琺夜族スノゥリィ・ケルズの髪。忘れようもない、この色は・・
 「ぉ・・・・」
 まともな言葉を発することもできずにそれを見つめていると、けたたましい笑い声が聞こえた。
 「これは兄上、面白い顔をするではないか!」
 「お・・・・お前は母を・・母親を!」
 机を離れ、自分がそれほど早く動けないことも忘れてけ寄ろうとすると、足がもつれて転んでしまった。
 思わず右手をつくと、嫌な音がする。
 「無能な警察などに任せておくものか。フースをわなにかけた奴を切り刻んでやる!この国に、まともな正義などありはしないのだからな」
 琅珂が何か言っているのを聞きながら、マルヴェはうつろな頭で考える。
 ああ、同感だ。母親を殺して笑っているような子供を王太子として認めてしまうような国が、まともである筈がない。
 「陛下・・」
 「聞いているか、マルヴェ?」
 琅珂はてくてくと歩いて来て、生首を包んでいた布をぎ取った。
 ごろんと回転してマルヴェの方を向いたのは、まるで見覚えのない男の顔。・・と、長い髪の束。
 「姉上が散髪さんぱつしたのだ。ついでにごみを纏めて捨てに行くつもりだったのだが、一応あなたに伝えておくべきかと思い直してな。水銀を調達した薬剤師ファルマスィヤンだ」
 「・・・・」
 マルヴェはぼんやりと絨毯モケットの上に横座りしたまま、誰とも分からぬ男の生首を見つめた。
 この上なく悪趣味あくしゅみな方法でからかわれたのだと理解した頃には、既に弟は手の届かない場所にいる。
 顔を上げて目を合わせると、またしても琅珂は母親似の愛らしい笑顔を見せた。
 「なぁ兄上、犯人を教えてくれないか?あなたの協力でフースを救えるなら、血祭りに挙げるのはあと一人で良いのだぞ?」
 マルヴェは、弟の目が笑っていないことに気がついていた。
 この生首は、冗談ではない。
 琅珂は、「犯人の名を告げなければ、ペリード家全員の首をねてやる」と言っているのだ。勿論、フルリールの仕業であることを理解した上で。
 (フルリール・・)
 琅珂にも、弟の他に愛する者がいたらしい。実に、運が悪かった。
 自分が毒を盛られただけなら、ここまで怒ることはなかっただろう。せいぜいが、いつものようにペリード邸に殴り込んでフルリールの部屋を破壊する程度で済ませていただろう。ひきょうの存在も、今回はこいつの暴走を止められなかったか・・
 「・・・それを知って、どうする?たとえ黒幕くろまくを見つけ出しても・・医者ドクトゥールが不注意で王太子の身を危険にさらしたことはくつがえしようのない事実だ。お前の友は救えまい」
 琅珂は笑みを消した。やや眉をひそめたかと思えば、開き直ったように全く別種の笑みを浮かべる。
 その時は、逆らう者達を虐殺ぎゃくさつして友人を助け出し、そのまま国外に逃亡しようというのだろう。それこそ翡の存在以外に、琅珂をこの国につなぎ止めるものなどないのだから。
 そして、破壊神の化身ノゥ・リィ・ディーシェスと呼ばれるほどに無駄な暴力を有するこの子を、止められる者はいないだろう。
 こんなつまらない理由で琺夜の存亡そうぼうが左右されるなど、全くって冗談ではない。
 「・・王太子プランス・エリティエ宣下せんげを、拝命はいめいするがいい」
 「何?」
 琅珂の不愉快ふゆかいな顔にわずかな満足を見出しながら、マルヴェは吐き捨てるように言った。
 「王太子として戴冠たいかんし、エパノス=アッシュダークに恩赦おんしゃを与えてやるがいい!お前の友を救う方法は、それだけだ」
 「・・・・」
 琅珂が考え始めると、マルヴェは舌打ちして自分の両手を見た。
 右手は捻挫ねんざして青くれ、左手はインク瓶の破片はへんでずたずたに裂けている。変に体重がかかったらしく、右脚の付け根も痛い。
 痛みよりも、「減量しなさい」という医者の忠告に耳を貸さなかったことよりも、子供騙しの悪ふざけに翻弄ほんろうされてしまったのが、何よりも腹立たしい。
 しかしそもそも、なぐってでもフルリールを止めていれば・・


 マルヴェは立ち上がり、小さな弟の側まで歩いて行って、威圧いあつするように見下ろした。
 「・・・クレイ・フェオ=ユーンを知っているか?」
 「財務卿ミニストル・デ・フィナーンスか?次期ヂェルスベルク公爵、だったか?」
 「それはクレイ・ジール=ユーン。その弟の、クレイ・フェオだ。宮廷では無名だが、十八で大隊長にまで上り詰めた男だ。士官学校エコル・ミリテールにも行かず、叩き上げでな。昔からフォーゲルの面倒をてくれている」
 マルヴェは心の中で、兄弟喧嘩に巻き込むことになった知人に頭を下げた。
 「萌芽ほうがの友人だ。取り巻きでも崇拝者すうはいしゃでもない・・ただ一人の友人だ。その男を護衛ごえい任命にんめいするがいい。実力から見ても、然程さほど不自然な異動いどうではあるまい」
 琅珂は、訳が分からないという顔をした。
 「何を言っている?何故わざわざフルリールの手駒てごまを側に置かねばならん?」
 マルヴェは一瞬冗談じょうだんかと思ったが、すぐに気がついて首を振った。
 琅珂は人の悪意には敏感だが、良心や愛情を利用するという考え方は苦手らしい。・・とすれば、あの生首も双子の姉の差金さしがねか。
 「くが、エパノスが萌芽ほうがの侍医であれば、お前はどう思う?」
 琅珂は、はっと目を見開いた。かと思うと、物凄く嫌そうな顔をする。本当に、考えもしなかったらしい。
 「・・・やはり、フルリールか?」
 マルヴェは答えず、傷ついた両手を背中に回した。
 「手続きは私に任せるがいい。さすれば、フローも二度とお前に嫌がらせを仕掛けたりはするまい。ただし癇癪かんしゃくを起こして殺してはいかんぞ」
 「・・・・」
 琅珂は、また黙り込んだ。やはり機嫌は悪そうだが、ひとまず殺気は収まっている。
 今フルリールを始末するか、それともマルヴェの提案に乗るか、どちらが得か考えているのだろう。
 そして、フルリールを殺しても友人の為にならないのなら、翡の悲しみを無視してまで暴挙ぼうきょに出るのは割に合わない・・という結論に達したらしく、心底苦りきった顔で前髪を掻き上げた。
 「私としても、無益むえきな争いなどうんざりしているのでな・・これで事を収めないかね?」


 

腹黒バトル第一戦。引き分け。