第7節−1.帝王学
風月10日<鋤の日>。帝暦では、もう死の月の末。今年もまた、命の芽生えを促す天の月がやって来る。
昼下がり。雨のそぼ降るシェオ・フローリィは、雑貨市のような賑わいを見せている。
今朝から急に生温い東風が吹いてきて、大量の雪解け水がノイカーベル山の黒い岩肌を流れ始めた。舗装された溝と言わず、建物の敷居の上と言わず、所構わず茶色い水が溢れている。俄かに現れた無軌道な川が下町を押し流す前に、内務卿マルヴェは、住民達に避難命令を発した。
この時代の琺夜の民家は、簡素を旨として建てられている。丸い炉を中心として描いた円の上に、平たい石を積み上げて円錐状の壁と屋根を作り、場合によっては漆喰を塗って、床に板や藁を敷くだけの「どんぐり型石造建築」は、文明的ではないが、壊れても一日で再建できる優れ物だ。
セルズとの戦や占領統治時代の徴発で頻繁に破壊の憂き目に遭ったこともあり、非常事態にも慣れっこになった市外区民達は、今回も慌てず騒がず僅かな家財を纏め、ぽこぽこと驢馬の蹄も軽やかに、陽気に歌いながら山を登って来た。
曲がりくねった大通りは、セルズ人の使う荷車より幅が狭く、且つ琺夜の条例で定められた小ぶりな荷車の通行は妨げないよう敷かれている。組合長達の報告によれば、全員の避難が完了したそうだ。
中庭に木柱を打ち込み、布を張って即席の獣舎や天幕を作る者がいれば、開放した大広間では、女達が衝立を利用して赤ん坊に乳をやる場所を作っている。寝具用の藁と毛布も行き渡り、厨房からは庶民臭い大蒜やエシャロットの匂いが漂ってくる。ごった返す人ごみの中で敏捷い少女達が籠を抱え、この時とばかりに、余り生地で作ったゴーフル菓子だの、燻製肉とチーズを入れたガレットだのを売り歩いているのだから、ほとんどお祭り騒ぎだ。
例によってアガンテーヌ人の料理長とソルベーニュ人の給仕長とが配下の調理師団を引き連れ、「畏れ多くも高貴なる王后陛下の調理場を下賎な食品で穢されては一大事」と抗議するので、開放するのは来客用の厨房に限り、大事な真鍮の調理道具が持ち去られないよう見張りをつけることを取り決めて、どうにか納得させたところだ。
他に、勝手に排泄物を流す溝を掘ろうとする男達とそれを制止した歩哨が殴り合うという顛末はあったものの、今のところは大きな混乱もない。
現場を見て回り、人員を手配して必要な指示を出すマルヴェは、パンと干し無花果を貰う為に並ぶ子供達の列を通り過ぎた。
避難民に食事を振舞うよう命じた時、王家のパン職人と果物係は神聖な職を冒涜されたとでも感じたようだが、嬉しそうにはしゃぐ子供達に取り囲まれては、仏頂面も綻びかけている。後で王后陛下に頼んで、彼女の口から労いの言葉でも聞かせてやれば、後々蟠りが残ることもないだろう。彼らも先日の王太子暗殺未遂騒ぎで神経質になっているのだろうが、何かと職人のプライドを振り翳すのが厄介だ。
とある少女は真っ赤な頬をして、兄らしい少年と椛のような手を擦り合っている。可愛らしい光景に、ふと眉間の皺を緩めたマルヴェは、今日がどういう日なのかすっかり忘れていた。
誰かが手作りのオカリナを吹き鳴らしたのを皮切りに、下手な合唱が始まるまでは。
静もる森よ 目を覚ませ
マツユキソウよ 顔を出せ
ナナカマドの枝 燃え上がり
霧を起こせや 青い霧
ハンノキの歌よ 呼び覚ませ
シラカバの歌よ 呼び覚ませ
静もる森よ 目を覚ませ
マツユキソウよ 顔を出せ
金の枝よ ほとばしり
花冠の女王を連れて来い
ぞっと背筋が寒くなったマルヴェは、山の手の北西に広がる森に目を向けた。
今日は、古い祀りの日。あの森の中では、昨日の日没から唄い手が春を呼ぶ儀式を行なっている。今も七竈の枝を燃やしているのか、薄く立ち昇る煙が見える。
冬枯れの大地にも雪解け水を溜め込む森は、琺夜族の生活になくてはならない場所だ。王家が雇用する樹木医や森林官が定期的に枝を落とし、伐るべき木を伐り、若い木々が日光を享けられるよう、野生動物の食べる下草が枯れないよう管理している。
人々は間伐した木材で床板や家具を拵え、枯れ枝や打ち枝を拾い集めて燃料にする。春には樹間を通る風に花々が顔を揺らし、夏には甘い果実がたわわに実る。秋の森にばら撒かれた団栗は、野生の鹿、猪、鶉、雉、兎のみならず、人に飼われる豚や山羊の腹をも満たし、食卓を豊かにしてくれる。
あの森は、“斜面にある楢の森”というセルズ語を訛らせて“オアカンガールの森”、あるいは単に“森”と呼ばれる。
語源の通り、多数を占めるのは六十歳から二百歳ほどの若い楢だ。他に、この地で芽を出した木々も、遠国から齎された木々も入り乱れ、植生は多様で賑やかだが、樹齢が千年を超える木は少ない。陰鬱で暗い、果てしない闇が広がるメイシャの森とは空気が違う。
(そう・・違う。これは・・人に飼われた木々の群だ)
何とか心を落ち着かせたマルヴェは、耳を塞いで歌声から遠ざかった。
子供達が歌うのは、春の訪れを望む歌。陽気で軽やかな、心が浮き立つような調べ。
けれども、マルヴェは知っている。それは、古い古い起源を持つ唄。琺夜族がこの地に住み着く前、ガシュクジュール盆地全体が古木の棲み処だった頃、この地が黒森という広大な森林の一部だった頃から伝わる唄なのだ。神や精霊の棲む、深い闇の中に呼びかける唄なのだ。
六歳の頃、夜族の司祭に連れられて行ったメイシャの森を思い出すと、マルヴェは今でも震えが止まらなくなる。
父がまだ正式な琺夜王ではなく、アウグステやファルツがよちよち歩きの幼児で、今森で唄っているフルリールが叔母の腹の中にいた時代。後に起こる虐殺の悲劇など影さえ見えなかった頃、マルヴェは母に手を引かれて夜族の隊商と共にガシュクジュール中を移動する日々を送っていた。
片目に傷のある司祭は、琺夜族が忘れ去った古い神秘をよく記憶していた。彼は、いずれ琺夜の王となるだろうマルヴェにも、苔生した古い知識を分けてくれたのだ。
――七竈の霧は、彼の地に生きるモノの姿を露にする。
年老いた司祭の木肌のような手を握り、七竈の枝を焚いた薄煙の中で、マルヴェは緑の闇を見た。
深い深い、底無しの闇の中から、得体の知れないモノがこちらを見つめ、嗅ぎ、触れようとする。
あれほどおぞましい体験は、後にも先にもしたことがない。
司祭の手を振り払い、煙の中から逃げ出したことを覚えている。
恐ろしい気配は、どこまでもどこまでも着いてきた。喉の奥に血の味がするまで走って、母親の脚にしがみついた。下着が濡れていることに気がついたのは、戻って来た司祭が失望の溜め息をついた時だった。
(・・くだらん)
執務室の扉の前まで、まだがっちりと耳を塞いでいたマルヴェは、自分に呆れつつ、強張った肩の力を抜いた。
待たせておいた侍従は表情を変えず、手紙が届いていると言って、扉を開けてくれた。暖炉に移動する侍従をすぐに出るからと制止して、代わりに小さな蝋燭を持って来させる。
嫌な汗をかいた。今日は湯浴みをする時間があるだろうか。
森に祈りを捧げなければ春が来ないなど、これほど馬鹿な迷信もない。惑星は運動しているのだから、春は人の営みなど知らぬげにやって来る。今年は気流の影響で少しばかり寒気が長引いているが、それは森に祈ってもどうしようもないことだ。
フルリールが病を圧して唄っても、現実的には全くの無駄なのだ。いや、琺夜の文化と慣習を守ることで民衆を慰撫するという役割を否定する気はないが。
(いかんいかん・・)
マルヴェは燭台を手元に引き寄せ、机の上に置かれた自分宛の郵便物を手に取った。
(防山に動き有・・か。院の分家筋のマダム・サレア=パルフィーナがパルフィスカに入城・・ヂェルスベルク公と接触する可能性も視野に入れ鋭意警戒中・・またか)
ちょっと目頭に手を当ててから、次の手紙に移る。赤い封蝋に爪をかけると、まるで乾いた血のように砕けた欠片が飛び散った。
「どこの安物だ・・劣悪な蜜蝋を使いおって」
直ちに羽箒で机の上から払い落とし、不快な赤色を忘れようと努める。
病弱で人見知りの激しい弟は、生まれた時から死と闇の世界の縁に立っていた。だから逆に人の世界には馴染み難いのだと言って、司祭は長兄の嫉妬心を和らげた。
その言葉に、マルヴェは心から納得して生きている。それでも時折、あの時の挫折が狂おしいほどの屈辱となって心に蘇ることがある。
伝説によれば、琺夜の王はメイシャの森で即位の儀を行い、“森の王”と交わした契約を生涯守り続けると言う。いずれ琺夜の王になりたいマルヴェにとって、そこは未知の世界だ。
古い信仰がほとんど忘れ去られた今でも、琺夜族は豊作と豊猟を王の手柄とし、飢饉や天災の責任もまた王にあると考えている。e葵は春の遅れを“死と破壊の神の怒り”のせいにして琅珂を王太子に指名したが、頭でっかちの貴族達はともかく、庶民の多くはそれで納得するのである。
ほら、陛下は正しかった。無慈悲な死の神が機嫌を直したから、豊饒の女神が大地の神の元に帰るのを許してくれたじゃないか、と。
「・・くだらない」
歴史を顧れば、祈祷や予言を行なう司祭がムラの統率者を兼ねることは、あらゆる社会の形成初期に見られる現象だ。共同体が成長して一定以上の大きさになれば、多くの場合、政治的権力と宗教的権力は分担されるようになる。長に“天空の王”を据えるような特殊な政治体制を選択するのでなければ、琺夜も、いい加減に旧習を改めるべき時が来ているのではないか。
今や、この国を引っ張って行けるのは、古臭い森に籠もって精霊の話を聞く呪術師では有り得ない。『国』を治めんとするならば、まず何よりも『人』を見なければならないのだから。千三百四十万の人民を一人たりと飢えさせることのない指導者。彼らの口を満たし、より一層豊かな生活を追求する政治家こそが、一国の長となるべきではないか。
(それができるのは・・)
『兄様・・いる?』
「っ!!」
マルヴェは苦笑いをして、遅れてやってきたノックの音を聞いた。
「ああ・・玉葉か」
平静を装いつつ、散らばしてしまった書類を集める。
小さな妹は侍従を押し退け、音もなく扉を開けて、滑り込むように部屋に入って来た。ごつい軍靴で絨毯を踏みしめ、しっかりと足跡を残していく。衛生隊の白い軍服は、泥跳ねを浴びて少し汚れている。髪は頭の後ろで纏められ、解れ毛も何となく愛らしい。
まったく、我が弟妹はどうなっているのだ。まるで躾がなっていない。まともな訪い方すら知らない者ばかりではないか。
説教しようとしたマルヴェだが、軍服姿の玉葉に在りし日の誰かを重ねて見惚れてしまい、叱るタイミングを逃してしまった。
「兄様・・どうする?ああ、その顔じゃ、ルノードの報告はまだなのね。大変よ、ちょっと」
マルヴェが何か言う前に、玉葉はいきなり捲し立てた。興奮しているらしく、瞳を潤ませ、頻りに唇を舐めている。
「落ち着きなさい。ああ、顔が真っ赤じゃないか。お前が来ると知っていれば、暖炉に火を入れておいたのに」
席を立ったマルヴェは、上着の上に着たままだった毛皮のマントを脱いで玉葉の細い肩に着せ掛けた。
彼女が喜ぶなど碌なことではないだろうが、ここ数年反抗期の妹が近頃何かと側に寄って来るのが嬉しくもあり、マルヴェはあまり強く出られない。
「どうしたと言うんだね?要点を簡潔に話しなさい」
美しい妹は、上目遣いでマルヴェの様子を窺った。たっぷりと焦らしてから、密やかに紅い唇を開く。
「・・やっちゃったわよ、琅の奴」
「 死に往くものを見過ぐして 命の場所を奪はんと 」
「 契り交はせし老びたるも 世に忽なるなまめかしきも 」
「 生まれたものを撫で目守り 命の場所を造らんと 」
「 此の面彼の面に絆されたるは 並べて世に旧る道に相応はむ 」
澄んだ声が二つ、掛け合いのように音を重ね合う。
フルリールは楢の木の下に胡坐を掻き、伐り立ての宿木で輪を編んでいた。伝統に忠実に、毛織の貫頭衣一枚を腰縄で留め、裸足で、長い髪をそのまま垂らしている。足元には小さな焚火が燻り、その隣に、人型の焼き菓子、干し林檎、麦酒、それに前後の肢を縛られた仔山羊が並んでいる。
「 その有様は一向に 世の理につきづきし 」
「 現人どもよ所得な 此の面の並べて遷ろひぬとも 」
琅珂は、年を取った常磐樫の枝の間にいた。
縺れ合った枝と木肌を覆う苔をハンモック代わりに、頭を後ろに傾けて、変な姿勢で眠っている。
フルリールは乱れた髪の下から、声に合わせて動く白い喉を睨み続けていた。庭常の汁で縁取った目に、仄暗い敵意を湛えて。
「・・どうして人はそうあれないのかね」
フルリールは出来上がった緑の輪を仔山羊の首に掛け、緑色黒曜石の小刀で一息に喉を掻き切った。
それから、哀れな動物の後ろ肢を持って立ち上がり、楢の木の根元を一巡する。命の色をした輪が完成すると、再び焚火の側に腰を下ろし、項垂れた死骸を恭しく投げ入れた。
熱い灰が舞い上がり、鎌首を擡げた炎が生贄を呑み込む。
「・・・・ぬむ」
美味しそうな匂いで目を覚ましたらしい。上体を起こした琅珂は、いきなり宙に飛んだ。
軽やかに枝から枝に飛び移り、居心地の良さそうな楡の太枝にだらりと凭れる。そして、また動かなくなった。例えるならば猿か、樹上の豹か。
「・・ん。唄い手の仕事とやらは、これで終わりか?」
「・・・・」
フルリールは焼けた仔山羊の肢を掴み、小刀で毛皮を剥いで肉を切り取った。軽く振り被って、骨がついたままの腿肉を放り投げてやる。
木の上で受けた琅珂は、胡散臭そうな顔をした。ちょっと匂いを嗅いでから、それこそ獣のように慣れた様子で齧り付き、「塩気がないな」と文句を言った。剣帯にぶら下げた小物入れから調味料を取り出し、適当に振りかけて、今度は「血が抜けていない」、「肉が硬い」と喧しい。
菜食を好むフルリールも、素手で骨を持ち上げ、深呼吸をしてから、肉に犬歯を立てた。
筋っぽい食感と共に、口の中に血の味が広がる。嘔吐きそうになったが、我慢して咀嚼を続けた。
これは、ささやかな命を森に捧げ、春に沢山の命が育まれるように願う儀式だ。馬鹿馬鹿しい伝統だが、唄い手である以上、琺夜の民が望む祀りは行なわねばならない。
本来は生贄をそこに残し、他の供物と共に全てを森に還しても良いのだが、フルリールの拘りとして、ここで殺めた命は一滴なりと我が身に取り込むのが礼儀なのである。自分の後を継ぐ者がいるとしたら、やはり同じことをさせるつもりだった。
時を越えて延々と繰り返される祭儀が、意味のない屠殺に成り果ててしまわない為にも。
フルリールがどうにか骨から肉を剥ぎ取り終えた頃には、琅珂は木の下に食べ滓を散らばして、二度目の昼寝を決め込んでいた。
「・・カルドロルカのエルネスティアナ=ロベルトゥス、つまりコードローク出身のアテス神官エルネスティーネ=ループレヒトなら、放っておいて構わない」
服の隠しから取り出した亜麻のハンカチで口を拭き、喋り始めても、木の上の無礼者はまだ目を閉じている。
「彼女はただの使い走りで、げほっ・・ご主人様はマルガレーテ=ビルキース。あの老いぼれ鼠も大概しぶといけど、獲物の周りを爪の長い黒猫がうろついてると知れば、猫の注意が他所を向くまで物陰でじっとしてるだろうさ」
「仲間の鼠どもが戻って来る可能性は?」
どうやら、話は聞いているらしい。
「だとしても、襲うのは家猫の方さ。もともとそれが目的だからね。あいつに、可愛い翡を人質に取るような度胸はないよ」
「・・それは貴様の憶測であろう」
フルリールは、ふ、と口元を歪めた。
ふざけた罪をこじつけて自分とマルヴェを殺そうとした老女は、今頃さぞかし保身に奔走していることだろう。
「彼女にそんな余裕はないね。・・と言うより、アウグステが与えてくれない。ビルキースは、ペリード・インダストリーエンを敵に回した」
「・・・何だそれは?」
「お前に言っても分からないだろうけど、姉さんの会社は王立神事院に巨額の寄付を投じてて、魔道具産業界のマーケットシェア60%強を占めている。報復措置として経済制裁を匂わせれば、禁言院はウチと手を切るよりもマルガレーテを切り捨てるさ。陰謀ってのは、こそこそやるから効果が高いんだよね」
琅珂は、苔に指を擦りつけて脂を拭き取っている。
「・・『天』の社会構造は良く知らんが。手負いの獣こそ獰猛であろう」
フルリールは、むっとして琅珂を睨み上げた。
「・・・何だって?」
「マルガレーテとやらが右足を失ってヂェルスベルクに這い戻ったのが、マルヴェが琺夜に戻って来たのと同じ日だそうだ。貴様は妙に奴らの動向に詳しかったな。その癖、クレイ・フェオが襲撃される直前まで放置していたが。貴様、一昨日はどこで何をしていた?メイシャに行っていたなど、嘘だろう」
大方、ヂェルスベルク公から聞き出したのだろう。今まで黙っていたなんて、嫌な奴だ。
「・・拷問はお前ほど得意じゃないけどね。二度と僕の顔を忘れられないぐらいの目には遭わせてやったよ。彼女がお前を攻撃する気になるとしても、それは僕を片付けた後のことさ」
「・・・・」
フルリールは少し考えながら、目の周りの化粧を拭った。
明け方、儀式の途中に、クレイが琅珂の腕を引いて来た時は、驚いた。
どうも、一戦共闘して気が合ったらしい。
長年の確執を知っていながら、満面の笑顔で「お前ら喧嘩してると俺が気まずいだろ。兄弟仲直りしろよ」とか言い出す親友の強引さと無神経さにも呆れ果てたが、それよりも、この横暴小僧がおとなしく引き摺られて来るなんて。クレイの脚衣や長靴には、小さな足跡がいくつもついていたが。
「それよりも、さっき・・お前が喋ってたのは、彼の言葉かい?」
フルリールの問いかけに、琅珂は目を瞬いた。楡の木肌を撫で擦りつつ、さっきまで寝床にしていた常磐樫に顔を向ける。
「俺の口が動いたか?斯くも若い森には、語る木もあるまい。グラーヌムの如き妙な老け方をした植物なぞ」
「お前は本当に間抜けだね」
フルリールは、罅割れた声で笑った。
「何も感じなかったのかい。わざわざ口を貸さなくたって、彼らは常に雄弁じゃないか。凡庸な詩人だって、野薔薇が小夜鳴鳥に歌を返すことがあるって知ってるのに。あの鳥が雄だってことは、何故か気付かないみたいだけど」
琅珂は欠伸を噛み殺した。
「舞台の上でやっておれ」
「寓話の虚構は美しいね。本物の草木の声は・・とても痛々しくて、心が張り裂けそうになる。お前には聴こえないのか?聴く気がないのか?」
「そこの宿木は、楢とうまくやっておるな。あちらの栴檀は、そろそろ木蔦の抱擁が苦しくなってきたと嘆いておるが」
琅珂は腰から短剣を抜き、隣の“オカリナの木”から伸びている枝を掴まえた。梨のような形の“オカリナの実”を切り取り、ちょっと振ってみる。ぽっかりと一つ空いた穴に口を寄せ、軽く息を吹き込むと、ひゅろろぅ、と音が鳴った。
中が空洞の“実”は、短剣で穿ってうまく穴を足せば、なかなか良い笛になる。夏頃、まだ穴が空いていないものには小さな虫がいっぱい入っているから、ぶつかった時に割れるように切り込みを入れ、フルリールに投げつけても面白い。
「そんなものに感けて、どうなる?放っておけば奴らが地面から根を引き抜いて暴れ出すとでも?ここの木どもは、去勢した牛のようにおとなしいではないか」
琅珂は、短剣の先で“実”を突きながら言った。
この木は、他の場所で見たことがない。図鑑に載っていなかったから、こいつがどこからやってきたのか、故郷でどう呼ばれているのかは分からない。フルリールなら知っているだろうが、話しかけるのも癪で、訊いたことはない。
「ノイカーベルに生きる命は、全てが人の家畜のようなものだから。木々だって、生きている時から材木なんだよ。楢も宿木も。榛木も樺も菩提樹も糸杉もトネリコも樫も栗も林檎も庭常も榛もポプラもオリーブもレモンもアカシアも・・・・皆。そうじゃなかった時代を知ってる年寄りも、自由な木々から生まれた胞子や団栗達も、人の都合で遠い国から移植された木々も、人の支配を受け入れている」
「それがどうした?こいつらには悲壮感なぞ欠片もないぞ」
フルリールは、年寄り臭く強張った背筋をゆっくりと伸ばした。
大きく広がった楢の枝の分れ目に、所々丸く繁った宿木は、そこだけ明るい緑色をしている。それを見上げ、眩しそうに、寂しそうに目を細めた。
「・・それでも、言いたいことはあるさ。ご主人様に不満のない奴隷なんていないからね」
琅珂は手を止めて、兄の顔を見た。数秒、時間をかけて見つめた。
フルリールは、嫌らしくにやけてはいなかった。鼻先に馬糞を近づけたような顰め面でもなかった。
「・・良く、喋るではないか。いつもこそこそと他人の陰からものを言う奴が」
ふと右肩に違和感を覚えた琅珂は、短剣を持った手でふさふさしたものを捕まえた。親指と人差し指で抓んでみれば、尻尾の大きな栗鼠がぶら下がっている。
「・・・・」
胴体がびょんびょんと跳ね、小さな四肢がぴこぴこと動く。玉葉なら歓声を上げるかもしれないが、琅珂は翼馬の方が好きだ。彼らなら、こんな風にちみちみ動き回るだけでなく、面白い反撃をやらかしてくれる。
気付けば、フルリールの膝の周りにも、毛長鼬だの黒歌鳥だのと小動物や小鳥が集っている。食べ残しでも拾いに来たのかと思いきや、兎達までじゃれているではないか。何とも妙な光景だ。
「・・この辺りの生物は、貴様に懐いておるのであろうよ。俺には何も語らん。グラーヌムの森の木どもは、翼馬どもにも負けず喧しいがな」
ぽいと放り捨てると、栗鼠はくるりと反転して懲りずに右腕を駆け上り、首の後ろを回って、左腕を降りて来た。乾いた実の穴をちょっと覗き込み、食べるものがないと分かると、前足でちょこちょこと顔を洗い始める。
隣の木から山猫が睨んでいるのに気がついて、琅珂は微かに笑った。この森の動物達には、フルリールの側では狩りをしないという決まり事でもあるのだろうか。
「お前は・・メイシャの、あのおどろおどろしい怨嗟の声を・・」
フルリールは、頭に冬眠明けのヤマネを載せている。
例えば、透き通るような白磁、傷のない緑柱石、天然の琥珀金。例えば、ごてごてと飾りのついた剣、無駄な細密画の描かれた盾、尖った装飾が手を傷つけてしまう食器。
極上の素材で造られた、悪趣味で残念な芸術品。フルリールとは、そういうものではなかったか。
「グラーヌムの眷属どもは、琺夜族の兄弟であろう。あれほどに心地良い場所はない」
フルリールは、手入れされた眉を動かした。熟考するような素振りをしてから、大袈裟に頭を振る。
「あぁ・・お前は人間じゃなかったな」
ぱき。
驚いた栗鼠が、きぃと鳴いて逃げて行く。山猫が後を追ったが、狩りには失敗したようだ。
「・・何切れてんだ。本当のことだろ。世界は・・少なくともメイシャの誇り高き木々は、お前を僕みたいな人間だとは認識してないんだろ?お前は人類を除くあらゆる命から愛されてるし、僕の感じてる痛みなんてさっぱり分からないだろう」
「・・・・」
琅珂は短剣を鞘に戻し、割れてしまった“オカリナ”を投げ捨てた。
扱けた頬。隈のできた腫れぼったい目。汚らしく流れ落ちた植物の汁に染まった、産毛と呼ぶには目立つ無精髭。蜘蛛の巣や小枝を引っ掛け、斑に血を浴びた髪の毛と襤褸。見下ろせば、そんな姿がそこにある。
驕慢な宝飾品が、何時であれ見せた事のない輝きを伴って。
フルリールは、すぅと息を吸った。
「この森も、メイシャの森も、かつては一つの黒き森だった。人は、森の命を少しずつ貰って生きてきた。少しずつ少しずつ、沢山の命を糧にして・・増え過ぎた。恐ろしい速度で、今も増えている。うじゃうじゃうじゃうじゃ・・気持ち悪い」
琅珂は幹に凭れて曇天を仰いだ。
「昨今の天空の民らしからぬことを言うではないか」
天空の民は、傲慢な人類の中でも取り分け“ヒト”という生物の命が抜きん出て尊いものだと信じている。神の意思を汲み取ることを忘れた神官達が、天空神の愛を誤解して、人は世界のあらゆる存在を資源とすることが許される上位者なのだとさえ触れ回っているらしい。
「僕は、彼らの同胞である前に、唄い手だもの。人の想いと願いを唄にして森に伝え、森の痛みを全身全霊で受け止めて、その声を人に伝えるのが使命。大地の恵みを享ける代わりに、森を守る。取り分け、同じ人間達から。それが、琺夜の王と森の王との間に交わされた誓約だっただろう」
「ああ」
琅珂は、何となく拍子抜けした。なるほど。それがこいつの誇りということか。受け継いだ務めを当たり前に果たすことが、こいつには己に陶酔できるほどの自信になっているのか。
フルリールは、疲れ切ったように首を垂れた。
「『ああ』じゃないよ『ああ』じゃ。お前は大、失、格だ。それだけ良い目と耳があっても、お前は見ないし、聞こうとしない。お前の声が森に届くのは、“声が大きい”からに過ぎないんだろ?お前はある意味、僕の親戚達が理想としてる人間の在り方そのものじゃないか。メイシャのあらゆる命は、お前の命一つの方が上等で掛け替えのないものだと思っている。はっ!お前はそれが当たり前で生きて来たんだからな。森の命も、人の営みも、お前にとっては他人事なんだろう?」
森はねっとりとした霧雨に包まれ、服や髪が殊更に重い。
琅珂は前髪を掻き上げ、考えた。ぐだぐだと貶されているが、さて、腹を立てるべきなのか。
「・・メイシャを守るのが唄い手の役目ならば、貴様はカタルシアの存続を許したjhを憎むべきであろう。あの史実をふざけた劇に仕立ておったのはどこのどいつだ?」
とりあえず言動の矛盾を突いてみると、フルリールはいつもの嫌らしい顔つきになった。
「ジーラッハとセルシアの決闘も、jh王の男気も、人の物語としては美談だろ。森の王との契約を守るべき琺夜の王としては、前代未聞の失態だけど。その事でも、森は怒ってる。あの時からずっと、僕らが契約を蔑ろにしてるから」
琅珂は鼻を鳴らした。
面倒臭くなってきた。フルリールは、そんな自明の事を並べ立ててどうしたいのか。
「勝手に集まって、あんなところに国を造った馬鹿共は、今日だってグラーヌムの眷属を殺しているんだから。jhは、マダム・セルシアを騙し討ちしてでも、カタルシアを破壊するべきだった。グラーヌムの森を百年先まで奴らの自由にさせるなんて。・・ま、過ぎたことさ。これは、不戦条約の期日が過ぎた後で、僕らが片付けるべき問題だよ」
「『僕ら』?」
「・・ここだけじゃないよ。衛星の目で見てみれば、もう一目瞭然なんだ。世界中のあちこちで、人間は世界を食い潰そうとしてる。千年・・もたないな、二百年後には、もうメイシャは荒野になっているかもしれない。だから、お前なんかが生まれてしまったんだろ?カッコウの托卵より禍々しいやり方でさ。死の霆を呼ぶトネリコの王よ、あんたは滅ぶべき人の容を乗っ取って、僕の弟だなんて気持ちの悪い演技を続けてるんだろう?」
「・・・・」
どうも、分からない。こいつの話は不愉快だが、怒りに切り替えるには熱が足りない。
「なあ、ディーシェス。教えてくれよ。あんたが浄化の為にやって来たなら、そんなところで何をしてるんだ?森は悲鳴を上げている。あんたが何もしないでいる間に、世界は軋んできているぞ」
「・・・・」
やはり、眼球を煮溶かしてやるには熱が足りない。愚かなフルリールは、それでも挑発しているつもりなのだろうか。
最低限聞きたいことは聞いた。生温い温度が気持ち悪くなってきた琅珂は、勢い良く枝を蹴りつけた。
泥水を撥ね上げて泥濘んだ地面に降り立ち、帰り道に足を踏み出す。
「・・今日はクレイ・フェオの顔を立ててやったが。やはり貴様は理解できん。胸糞悪い」
友人の名前を出すと、顔に散った泥を拭っていたフルリールは、びく、と震えた。
「大体、貴様の言うことは矛盾だらけだ。戯けた妄想は知らんがな。友人を救いたいと言っていた奴が、人類に滅亡せよとは」
「何がおかしい?」
フルリールは、心底不思議そうに首を傾げた。
「この世から綺麗さっぱり人がいなくなるなら、僕はフェオが死んだって気にしないよ」
足を止めた琅珂は、細い煙を上げる熾を挟んで、窶れ気味の美貌を見下ろした。
生きた人間の顔に、黒い穴が空いて見えることがあるとは知らなかった。
「知らなかったか?僕は人間が大嫌いだ。琺夜族だろうが天空の民だろうが、ヒトって種族は全部嫌いだ。お前も嫌いだけど、うん、上を行くな」
「・・・・」
背筋の冷たさは馴染みがなさ過ぎて、琅珂はそれを怖気だと思わなかった。
「僕は、お前と違って人間なんだ。お前のようには流せないんだよ。人に苛まれる木々の声がいつも耳から離れなくて、可哀相で、何とかしてあげたいのに、僕も苛める奴らの同類なんだ。
・・それが本当に気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて、どんなに謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても謝っても許されなくて、人は自分勝手で醜くて汚くて恥さらしで、もう、皆さっさと死んじゃえばいいのに。みーんな死んだら、僕も安心して自殺するんだけどなー・・とか、そんなことを毎日考えてた時期もあった訳だ」
「・・おい」
「母上とかファルなんかは、僕をe葵から遠ざけて、更正させようと頑張ったんだ。僕がこうなったのは、別にクソ親父のせいじゃないと思うけど。お前を育てた女とは比べられやしないけど、彼らの苦労も想像がつくだろ?家族の愛情は感じてたよ?でも、彼らが僕を守ってくれるのは、結局のところ彼らに近しい血を残す為だろ。僕のことなんか丸きり理解しようとしない。彼らはつまり、言うところの、地に足の着いた生活ってやつをこよなく愛してて、自分達に見えないもののことなんかどうでもいいんだよね」
「どうでもいいな。貴様の変態ぶりなぞ聞きたくもない」
琅珂は吐き捨てた。
うざい。何のつもりなのだろう。話を聞けば聞くほどに、果てしなく気色悪い。
「フェオも、勿論そういう汚い人間の一人だよ」
「・・・もう良いから黙」
ふっと、フルリールの顔貌に色が戻ってきた。
「あいつは、僕が大切だと思っているものを否定しやしないけど、理解もしない。僕が人間が大嫌いだって言ってるのに、僕の手を引いて、人の輪の中に入れようとするんだよ」
「・・・・」
少しばかり思うところがあって、琅珂は話を遮ることをしなかった。
「で、僕を社会から排斥しようとするまともな人間達から守ってくれる。僕が、本当に歪んでて、人を傷つけることしかしないって分かってて、ね。分かってる癖に、いつも僕を叱るんだ。まるで僕を・・そう、救える、とか思ってるみたいに。無駄だよね。馬鹿だよねぇ。放っておいてくれたらいいのに。本当に身勝手な独善者だと思わないか?」
「・・だから何だ?」
フルリールは、幸せそうに頬を染めて笑った。
「でも、あいつを通して聴くと、魔法をかけたみたいに世界の音楽が変わるんだ」
「・・・・」
「あいつは、世界の中で特別な存在って訳じゃない。僕の側にいてくれたのはたまたまフェオだったけど、あいつ程度に善良で純粋な馬鹿は、どこにでもいる。だから、だからこそ、僕はこうも思えるんだよ。人の奏でる旋律は、偉大な交響曲を粉砕し兼ねないほどおぞましいのに、時々、泣きなくなるほど美しい響きが混じってる。一人一人が別の誰かを補い合って、思い遣りの糸で編まれた繊細な網は、綻びだらけだけど、凄く綺麗なんだ。
・・この森だってさ、人に搾取されるだけじゃない。適度に間引かれることで、若い木も老いた木も平等に日を浴びることができる。この森を塒にする動物達も、山崩れや火事をそれほど心配しなくていい。人が枯れ枝を拾うから、魚達は澄んだ小川で産卵できる。全部がこんな調子なら、こういう在り方も美しい・・って、今は思える。だって、原初の“唄”が紡がれた昔、人は偉大なスコアに欠かせない声部で、自然の織り上げた秩序を支える糸の一筋だったんだ。その頃の人々は、自然の全てに心を見出して、自分にとって善いものも悪いものも、全部受け入れてたんだろうね」
「・・・・」
「唄い手が、森と人との仲立ちを果たす者ならば、僕はフェオに出会えたから唄い手になれた。あいつがいるから、僕は人間の本質よりも幻想を信じていられる。森の痛みを、人の気持ちで受け入れることができる」
「・・・・」
「でも、僕は弱いからさ。あいつがいなくなったら、きっと、あの雑音の中に隠された調和が聞こえなくなってしまう。全ての音が不快になって、森の悲鳴に押し潰されたら、もう唄い手ではいられない。母上や、兄さん達や、アウグステや琳のことだって、愛していると確信できなくなる。後はジアンのように、森の命と同化することを望むだけさ」
「・・・・」
「・・・・」
ようやく沈黙が訪れると、琅珂は顔を歪めて息を吐き捨てた。
「・・惚気はそれで終わりか?」
「イヤだなぁ。惚気に聞こえたかい?」
フルリールは頬に手を当て、何やらくねくね動いている。
琅珂はこめかみの辺りに引き攣る感触を覚えながらも、聞き流した。
「・・で、何が言いたい?」
「フェオはお前に惚れたかい?」
琅珂は、ぎりっと歯を噛み鳴らした。
「いい加減に・・!」
「・・冗談じゃないよ。そうだといいんだけど」
フルリールは、寂しそうな顔をする。
琅珂は、更にちょっと引いた。不気味だ。いつぞや、こいつが舞台で“妖精姫”だかの役をやった時、劇場に向かう道が大渋滞になったが、琺夜の国民はどいつもこいつも頭が沸いているのではないか。
「あいつは、戦うことしかできない男なんだ。おまけに、他人の為にしか生きられない。いつも、戦う理由を与えてくれる人間を探してる。四、五世紀も前の叙事詩を手繰れば、あんな性格の英雄がいるけど。人間の性質が面倒臭くなった今じゃ、ただの死にたがりさ。駄目な奴にばかり惹かれて、そいつの為に平気で命を懸けてしまう。・・お前、気に入られただろ?」
「・・・・俺を貶したつもりか?貴様の自虐か?」
「何言ってるんだ?どう聞いても友達自慢だろ」
「・・・・」
疲れてきた。
「だから、真面目にやれ。適当に遊んで、後始末をマルヴェに放り投げるなよ」
琅珂はちょっと考えて、目を剥いた。
今のは、まさか、そういう意味なのだろうか。
「貴様・・。・・待て。話が見えんぞ。どういう論理でそうなる?」
フルリールは溜め息をついた。
「全く、マルヴェやファルツもそうだけど、どうして男って馬鹿なのかな?一から十まで筋道立てて説明しなきゃ理解できないなんて、僕の女友達を見習いなよ。ブランシュって無学歴だけど気が回る女でさ」
「・・ブランシュ?」
「ブランシュの話なんかしてないだろ。フェオに、死に場所をやるとか言ったらしいな」
勝手なことをほざくなと反駁しようとした時、フルリールの声が急に低くなった。
「そう言っておけば、変に期待されないとか、やばくなったら道連れになる前に見限って立ち去るだろうとか、そういう生温いことを考えてたんだろう?」
琅珂は驚いた。
フルリールの考えていることなど、さっぱり理解できない。ところがこの兄は、遥かに自分のことを良く知っている。側に寄るどころか、視界に入れるのも嫌な人物を、そこまで観察していたとは。
(・・真面目に、俺を狩るつもりだったか?)
「祭司としても、壊し屋としても、お前は出来損ないなんだ。せめて、お前の為に死ぬつもりになってる馬鹿を裏切るなよ。ああいう馬鹿は、今の琺夜じゃまだそれほど珍しくない。旧い生き方に誇りを持っている戦士達は、マルヴェが作ろうとしてる琺夜では生きられない。本当、あいつ僕より不器用なんだから」
お前が王になれ。
一応本気で言われていると分かり、しかしやはり納得できず、琅珂は苛ついた。
こいつの思考は、あっちこっちに飛ぶ上に、かなり偏屈で、どうも噛み合わない。まるでお喋り好きの女達の話を聞いているようだ。
「・・・それは、貴様の望みではないのか?俺に言うのは筋違いであろう」
「僕の望みはね、人としての、僕の望みは・・あいつの武勲詩を歌ってやることだった」
フルリールは、ぞっとするほど綺麗な目をして、
「僕は、あいつの主にはなれない。だから、フェオの好きな琺夜だけは守りたかった。・・水銀は、人の感じる力、考える力を凍らせる。鉱物毒には“冬眠”でも対抗し難いから、あれってマルヴェに使うことも考えてたんだよね、ここだけの話」
唐突に自白した。
「・・・は?」
琅珂は、これで兄を殺しても正義が成り立つことに気がついた。にも拘らず、言葉が出て来ない。
こいつは、マルヴェを『愛している』と言った筈だ。マルヴェを守って戦った筈だ。あいつを『家族』だと・・
「クソ親父が、お前じゃなくてマルヴェを指名してたら。『強い琺夜』を守りたい玉葉も、色々と勘違いしたe葵の妾達も、皆がマルヴェの命を狙ってた。ファルツは・・どうする気だったのかな?愛する妻子に離縁状を渡して実家に帰らせてるけど。あの日、本当はスノゥリィ家の平和が終わる筈だったんだ。ヂェルスベルク公とビルキース財閥は、その隙を突けたんだよ」
フルリールは遠くを見つめている。その顔が穏やかなことは、誰かにとって救いになるのだろうか。
「でも、全部調子が狂った。お前は理想も野心も柵もないのに、気紛れで戦場に出て来たら最強だ。そんな奴が何を仕出かすか、皆、それだけは全然読めなかったから。まぁ、クソ親父の考えは知らないけど。僕とヂェルスベルク公以外は様子見に回ったんだよね」
「・・・・」
雨足が強くなってきた。
「・・結局、お前が一番甘かったな。僕を殺したら後には引けないって所にまで頭が回ったのは意外だったけどね。責任取るのが嫌で逃げ回った挙句マルヴェに言い包められるなんて、ダサいにも程があるよ」
「・・・耳が痛いな」
琅珂が認めると、フルリールは少し目を見開いた。驚愕の表情は一瞬で消え、いよいよ失望したように長い息を吐き出す。
「だが、考えが甘いのは貴様も同じであろう。貴様を殺した後で、俺が唄い手の務めを継ぐとでも思ったのか?」
フルリールは、小雨に煙る熾火に唾を吐き捨てた。琅珂にとっては一番見慣れた表情で、長い髪をばさっと背中に払う。
「はは・・違うかい。お前は何もかも舐めきってるけど、少なくとも、グラーヌムの森を愛していると思っていたよ。違うって言うなら、ああ、お前の言う通りだ。何をしても、何もしなくても、存在してるだけで迷惑な有害物質に、ほんの僅かでも期待した僕が愚かだったよ」
それは、心底からの軽蔑と憎悪。
琅珂が今まで傷つけ、殺してきた、幾千幾万の人間達の感情を煮詰めても、この男一人の呪詛に勝るだろうか。
(・・仲直り、とはな)
クレイの奴も、言ってくれたものだ。こいつと仲が良かったことなど、一度もなかったのに。
昔は、どうして憎まれるのか分からなかった。乳母の腕に抱かれて、初めて顔を合わせた時から、フルリールは緑柱石の瞳に憎悪を滾らせていた。木蔭から覗き見た時、とても優しい、とても綺麗な声で歌う兄が、どうして自分に気付いた途端、怖い顔になってしまうのか。全く理解できず、悲しかったこともある。
遠い昔にどうでも良くなった事実を、今になって知ることになった。あの時自分がどうしていようと、こいつとは決して仲良くなれなかったということを。
琅珂は、ゆっくりと前髪を掻き上げた。
「・・ところで貴様、高音の伸びが弱くなったな」
反応は、劇的だった。
一瞬で頬の赤みを失ったフルリールは、喉に手を当て、焦点のぶれた目を地に落とす。
なるほど。
こいつも、もう少年とは言い難い年だ。唄い手であることが生き甲斐の男が、その美声を失いつつある。焦っていたのは、そういうことか。
溜飲を下げた琅珂は、シェオ・フローリィに向かって歩き出した。
フルリールにとっては、何より残酷な一言。それで満足していたのに、横を通り過ぎた時、更に意地悪な気分になった。
「・・ああ、俺がクレイに言ったことは、本気だぞ」
「っ!」
激情と共に膨れ上がる神通力を背中に感じて、唇に笑みが浮かぶ。
甲高い鳴き声と羽ばたきの音がして、小さな影がいくつも琅珂を避けるように飛び過ぎていく。
「何だ?」
「・・・・」
わざわざ振り返って笑いかけてやると、フルリールは悔しそうに目を伏せ、握り締めていた小刀を下ろした。
攻撃されたら顔でも潰してやろうかと思ったが、こいつには無分別になれるほどの度胸もないようだ。
「・・フローレン・スノゥリィ・ペリメダエ・シルウァ」
フルリールは、低い呻き声を漏らした。
「跪拝せよ」
琅珂の一言で、白い顔がまともに泥濘の中に突っ込んだ。
「・・がっ、ぶ・・っ!」
どうにか抗おうと細い指で土を掻き毟る兄を見下ろし、琅珂は笑おうとした。ところが、胸が空くことはなく、逆に苛立ちが募る。
馬鹿らしい。こんな弱者を相手に、自分は何をやっているのだろうか。
「・・戻れ」
強制の呪文を解いてやると、フルリールは地面に転がり、無様に着崩れた布切れを握って咳き込み始めた。そうしながらも、凄まじい形相でこちらを睨み続けている。
そう言えば、こいつは翡よりも体が弱かった。もう風邪は完治したのだろうか。よくもまあ長い時間、こんな薄着で唄い続けたものだ。
「喜べ。貴様の望み通りであろう?」
兄の矜持を認めながらも、琅珂は冷笑と皮肉以外に、それに応じる術を持たなかった。
「精々期待しておれ。俺が奴を使い潰す前に、その喉が潰れないことを祈っておるぞ」
腹黒・・とゆーか何かが捻じ曲がった人々。はい、7節−2に続きます。
泣かせた女とファンは星の数だけど、素朴な友達は一人しかいないフロー兄さん。「森≧友達>家族≫||越えられない壁||≫恋人」が彼基準。
傍から見ると痛い人だけど、「美人に変態いない」フィルターかかった一般人は、天才は紙一重とか思ってくれるらしい。
どこの中二病よ!こんなチートキャラ考えた奴!こんなの視点じゃピンチとかwktk展開にしようがないんだよ!
こいつ生んだ頃はリアだったものの、今となっては・・ とか、病気当時にはなかった日本語(?)で綴ってみたり。
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