第6節‐2.琅珂
「は、あぁぁ・・」
圧倒的な炎の陵虐が過ぎ、空気が冷えてくる。
女魔導士のエルネスティーネは、体の前に展開した最高防御の盾を解除した。
薄紫に輝く東の地平から、太陽が顔を出し始めた。
爽やかな払暁とは裏腹に、辺りは動物が焼けた後の脂っぽい臭いと、古い木が燃えたような香ばしい匂いに満ちている。十七人の人間達と、同じ数の翼馬達が、一瞬で蒸発してしまった。
「ま・・魔女・・みんなが・・他の皆は、どうなった・・どう・・」
たまたま彼女の背後にいて焼死を免れた騎士が、血走った目で翼馬を御しながら問い質す。
魔術で催眠状態にしてあるエルネスティーネの翼馬と違い、騎士の翼馬は悲しげに啼きながら暴れていた。
「死にました」
自明のことを告げ、エルネスティーネは唇を噛んだ。
咄嗟に地表まで急降下して逃れ得ていた二人が、降参の合図に翼馬を降りて脱いだマントを振っている。
最初は二四人いた騎士達は、僅か三人になっていた。崖下で脳震盪を起こし、目が覚めても気を失ったふりを続けている四人などは、顔の形が変わったとしてもまだ幸運とするべきだ。
(聞いてないぞ、こんなことっ・・)
三十歳のエルネスティーネは、碧龍天楼の王立神事院で自然魔術を専攻し、課程を修了した本物の魔導士である。現在は禁言院に所属するアテス神官と言った方が正確だが。
天空都市碧龍天楼に鎮座する半球形のドーム――禁言院は、複合的な役割を持つ施設である。世界最大の魔法研究、魔術開発組織の本部であり、天空神アテス信仰の宗教的聖地でもあり、アテスの教義に従って碧龍天楼に暮らす天空の民にとっては最高裁判所でもある。
そこに属するアテス神官は、研究者であり、魔導士であり、司祭であり、警察であり、判事であり、時には死刑執行人にもなる、といったところか。
アテスに仕える神官団には独自の階級組織があるが、エルネスティーネはそのピラミッドの七合目辺りにいる。エルネスティーネの上にいる一人が、彼女をここに送り込んだ張本人で、名をマルガレーテ=ビルキースと言う。
聖職者でありながら俗世の富にどっぷり浸かった老女で、金持ちの実家や碧龍天楼の貴族議会とべったり癒着している。この女が、「破壊神への信仰を打ち砕き、野蛮な琺夜族にアテスの教えを授ける為に、琺夜の王制を倒そう」と言い出したのが、エルネスティーネの不幸の始まりだ。
教えを授けるも何も、琺夜族はアテスをよく知っているし、崇めてもいる。ただ、彼らは碧龍天楼の常識では考えられないほど、いい加減な宗教観を持つ民族なのだ。ディーシェスのことは己らの祖神として敬っているが、その信仰は「荒ぶれる暴君を鎮める」といった性格が強い。他に、アテスを初めとする創世原初の神々から、土着の精霊、妖精、古代の偉人、英雄まで、縋れる権威になら何にでも縋れという節操のない連中なのだ。自らも血統的にはほとんど琺夜族であり、少女時代を地上で暮らしたマルガレーテが、それを知らない筈がない。
であれば、布教などただの建前で、実家に便宜を図ることが真の目的だとは、容易に知れることだ。が、事ある毎に天空の王に楯突く無礼な琺夜国王家を潰すというのは、所詮醜い心を捨てられない神官達にとっても、胸の空く妄想だった。
マルガレーテの提案は支持され、言い出した彼女とエルネスティーネが琺夜に派遣されることになった。
目的は三つ。
一つは、スノゥリィ家を倒し、琺夜をユーン家の支配の元に安定させること。
二つ目は、天空の民でありながらアテス信仰の普及に貢献しないペリード家を調査し、教義に則って裁くこと。
そして三つ目は、アルブリヒト=ユーンとジークリート=ビルキースとの婚姻関係を恙無く解消し、その賠償としてビルキース家が琺夜の経済界を支配できるように取り計らうこと。離婚後に同盟を解消されないよう、アルブリヒトの私生児シャルルにビルキース家の直系女子であるカロリーネを娶せることも忘れてはならない。
ビルキース一族は天空の民ではないが、ペリード一族と違って敬虔なアテスの信徒である。彼らが琺夜に対して相応の権力を持つようになれば、我々アテス神官がかの国に入国して教えを広めることも容易になる・・という屁理屈だ。
エルネスティーネは昔からあの先輩司祭が嫌いだったが、今回のことでは本当に呆れ返った。
マルガレーテは妹から、「夫が息子を殺そうとしている」と相談を受けた。憔悴したジークリートを優しい笑顔で慰めながら、腹黒婆は同じように邪悪な姉と一緒に、冷徹に甥を切り捨てる算段をつけたのだ。
夫の指図で息子を殺されれば、ぐじぐじと思い悩むジークリートの心もきっぱりと琺夜から離れることだろう。それに、その甥っ子とは、かのフルリール・フォン・ペリードが執着する男のことではないか。クレイ・フェオの抹殺に立ち会えば、必ずフルリールが釣れる。甥一人の命が何と役に立つことだろう。
琺夜に入国して早々、マルガレーテはペリード一族を“アテスの敵”と断定していた。彼女はマルヴェと琺夜国王妃の関係を「義理の母子でありながら男女の愛を交わす仲」だと語り、フルリールとクレイ・フェオの関係を「やや異常な、ともすれば同性愛的な親しさ」だと語った。アテスの教義において、近親相姦や同性愛は世界の秩序を乱す許し難い悪である。発覚すれば、死を以って裁かれるほどの罪である。
そうだ。やはりペリード一族はアテスの教えに背を向け、淫蕩に走っていたのだ。琺夜族は真の神の愛を知らない哀れな愚民であるから仕方がないとしても、ペリード公と言えば、神聖なる碧帝陛下のご細君、光の女神パリアの後継者たる皇妃様の、六親等内の親族ではないか。畏れ多くもアテスにその身を依代としてお貸しする天空の王陛下の威光を誰よりも称えるべき立場にありながら、これは断じて許し難い裏切りである。
演説めいた話を聞く内に、エルネスティーネは憤り、おぞましさに震えながらペリード一族の“断罪”に同意したが、今思えば、あれも先輩の計略だったに違いない。
フルリールの殺害を任じられてから調べてみれば、あの色男は女性とのスキャンダルばかりが豊富な、よくいる恥知らずだった。アテスは婚姻外の姦通も禁じているし、女としてはこちらの方が憎らしいところだが、いちいち男女の仲を取り締まっていては限がないということで、神官がこれを罪として裁くことはない。別けても、アテスの信徒として覚える不快感の度合いは、「同性愛者」と「プレイボーイ」では段違いである。
騙された、と思ったが、もはや後には退けない。
クレイ・フェオを狙うアルブリヒト=ユーンの家臣達に同行して、エルネスティーネはフルリールを燻り出すことにした。
追いついて驚いたことに、このクレイという男は巨大な魂の持ち主だった。魔導士として優秀なマルガレーテの甥であるにしても、ビルキース一族の中にこれほど大きな魂の持ち主は見たことがない。マルガレーテが甥の殺害を決めたのは、こうした嫉妬もあったのだろうか。
魂は、魔術業界では“命の器”とも呼ばれるように、神通力を蓄える容れ物に見立てることができる。平均的な神霊属人の場合、魂の外枠は生身の肉体と重なり合っていることが多いが、その男の魂は肉体の輪郭に収まらず、大きく外にはみ出していた。
最も単純な魔法は、己の魂に蓄えた神通力を変換して発動する。つまり、魂が大きく、蓄えられる神通力の質量が多いほど、強い魔導士になれる素質がある。
しかし、クレイはきちんと教育を受けた魔導士ではない。見たところ、魂を風船のように膨脹あるいは収縮させて神通力の圧力を変化させ、肉体の質量を操作できるタイプの超能力者だろう。
魔法を知らない戦士にとっては脅威だろうが、研鑽を積んだ魔導士であるエルネスティーネの敵ではない。フルリールは強い魔導士だが、二十人を超える戦士達を相手に戦えるほどの実力はない。
面倒だし、良心の疼きを覚えないでもないが、仕事は簡単な筈だった。確実に達成できる任務の筈だった。
「ほぅ、四人も残ったか。そこなる魔導士、なかなか見事な防御であるな」
(聞いてない・・魔王が出て来るなんて聞いてないっ・・!)
それは、古い民話に登場する、人の魂を抜く邪悪な榛木の精霊。まるで古の寓話から飛び出したかのような、現実離れしたとある個人を指す隠語。琺夜の王太子、琅珂。アテスの信徒が警戒する“悪”の筆頭である。
フルリールの異母弟だが、両者の不仲は有名だ。ここで彼が登場するなど、マルガレーテでさえ予想しなかった。
(まさか・・手を組んだと言うのか。スノゥリィとペリードが、互いの利権を守る為に?)
エルネスティーネは、背筋の冷える思いだった。
そうだ。そう考えれば、有り得ないことではない。ユーンとビルキースだって、非常に危うい綱渡りの同盟関係を結んでいるのだ。敵が同じことをしてもまるで不思議ではない。
「して、まだ余と詠唱を競うか?神の力を恃む司祭なれば、余の力を凌ぐこととて能わざらん。試してみるか?」
(遊ばれている・・)
敵の笑顔に、爪にかけた栗鼠を弄ぶ猫を連想して、エルネスティーネはぐっと手綱を握り締めた。
戦闘に特化した魔導士なら、こんな馬鹿げた誘いには決して乗らない。
神に祈願して自然を動かす力を貸し与えられる神官の魔術は、自らの神通力で自然を支配する神族の魔法よりも発動が遅い。古代神聖語より速くステラ語の詠唱を終えたとしても、多くの場合、このタイムラグのせいで押し負ける羽目になる。その上、神官だって、神に祈りを届けるには己の神通力を消費する。無尽蔵に近い敵を相手に、いつまでも張り合える訳がない。
「・・どうした?喋らないならこちらから攻めるぞ」
「さ・・ごきげんよう!」
エルネスティーネは、時間稼ぎに出ることにした。
「我はエルネスティーネ=ループレヒト。祖国はコードローク。親しい者は、しばしばティニと呼ぶ。我が名を得た人、あなたの名は?」
魔導士の世界には、いくつか遵守すべき約束事が存在する。
魔導士が魔導士に自分の名を与えた場合、与えられた魔導士は等価の情報を返さねばならない。
美しい子供は、少しだけ眉間に皺を寄せた。「もう名乗っただろう」と言いたげに、それでも呆れ顔で帽子を脱ぐ。
「我こそは琅珂。琺夜の者。我が名は・・ステラ語でなくとも良いな?父なる祖に従えば、姓は雪、字は玲、名は琅珂。母なる祖に従えば、ディース・ドゥ・スノゥル・デュ・フロコンドネージュ・ドゥ・ニヴァブール。間もなく、ただのディース・ドゥ・スノゥルになる。当世の慣わしでは、セルズ風に発音するが正しきところなれど、人なる者の内にこの名で我を呼ぶ者はない。・・我は凍れる灼熱。凍てつきし炎の現身にして、死の息吹なる名を持つ者」
魔王は、気障な仕種で前髪を掻き上げた。
「・・ああ鬱陶しい。名なぞ一つで足りように。何たる面倒か」
人の名前や呪文を瞬時に覚えなければならない魔導士は、須く短期記憶に優れている。エルネスティーネも例外でなく、今の長い名乗り文句を面食らいつつも覚えることができた。
言霊の法則に従い、相手の魂に触れる。相互干渉が可能になる。
しかし、それで確認できたのは、目の前の子供が間違っても幻想魔術ではないという、絶望的な事実だけだった。
(あ・・私、死んだかも。はは・・)
“凍れる灼熱”。“凍てつきし炎”。それらの矛盾する表現は、どちらも神学の世界で“死の王”ダイシェスを形容する言葉だ。そして“死の息吹”とは、死神の分身たる“破壊の王”ディーシェルのこと。魔王以外に有り得ない名前だ。
「して、我が名を得しエルネスティアナ。そなたはアルブリヒトの息子を殺害せんとする者か?」
「ひぅ、」
名前を呼ばれた途端、エルネスティーネは、くらっと意識が揺れるのを感じた。
「は・・ぁぁ、はい!」
質問に答えると、眩暈が止まる。
「エルネスティアナ、そなたは我を殺害せんとする者か?」
「いいえ!」
「ティニ、そなたはヂェルスベルク公の手先か?」
「・・違います」
「ティニ、そなたは誰に仕えている?」
「アテスに!」
「・・ティニ、そなたは禁言院の戒律を知っているか?」
「はい!」
「ふん・・」
矢継ぎ早の質問が途切れると、エルネスティーネは鞍の縁にしがみつき、肩で息をした。
名を呼ばれると、互いの魂の間に通り道ができる。質問に答えるまで、相手の毒々しい神通力に魂が締めつけられる。
(なんて・・桁外れの体積・・)
この魂はあまりに大きい。広大過ぎて、“彼”と“世界”を隔てる境界が見えない。どこからどこまでが彼の領域なのか、把握すらできない。
殺される。相手がその気になれば、一瞬で。
(冗談じゃない・・)
エルネスティーネは警戒されないように唇を閉じ、舌だけを動かしてアテスに対する祈りを唱えた。
瞬間移動の術が使えれば良いのだが、それは自分の分野ではない。いざとなれば風霊の力に頼るしかないが、敵の魔法は相当速い。死霊魔術でさっきの飛竜を構築することだってできるのだ。飛竜の翼で追われたら、逃げ切れる可能性は低い。
希望があるとすれば、エルネスティーネを殺しても、魔王には何の得もないということだ。それどころか、スノゥリィ家にとって非常に困った事態になるということだ。
彼がその事実に思い至るだけの脳味噌と分別を持っていてくれたならば・・
琅珂は、だんだん苛々してきた。
礼儀に適った挨拶をされたからこちらも応じたが、こういうやり取りは得意ではない。ついでに、古代神聖語を使う琅珂は、天上派の魔術学習者が共通語とするステラ語もあまり得意ではない。
自分より弱い魔法使いの名前を知れば、好きなだけ情報を引き出すことができる。が、質問は曖昧ではいけない。相手に馴染みのない言葉で話しかけてもいけない。解釈の余地が一切なく、スノゥリェンヌ語で言うところの「はい」か「いいえ」で答えられるものが望ましい。要領を得ない質問をしてしまうと、情報に踊らされてしまう。
現に琅珂は、訳が分からなくなっていた。
(何故アテスの神官が出て来る?)
頭を捻ったが、良く分からない。禁言院、碧龍天楼と繋がりがあるとすれば、ペリード家しか思いつかないが、琅珂はそもそもペリード家のフルリールに助けを求められたのだ。
(フルリールが恐れるならば、『天』の勢力か?)
しかし、天空の民がクレイ・フェオを、あるいはクロディーヌを狙う理由となると、ちょっと思いつかない。
(ユーンが『天』と繋がっているのか?いや、・・ビルキースとかいう奴らもいたな・・分からん)
マルヴェと玉葉の話を思い出してみたが、予備知識のない琅珂は、すぐに考えても無駄だという結論に達した。
それはそうと、アテスの神官を殺せば、禁言院と碧龍天楼政府が外交筋を通して何か言って来るだろう。王妃と姉が激怒するのは別に構わないが、これ以上フルリールの策に嵌まってやるのも業腹だ。
(あの野郎が)
何しろ、あの兄が頭を下げたのだ。相応の面倒事に巻き込まれていることは疑いない。が、考えるのも面倒になってきた。
(殺すか)
王太子が左手を突き出した途端、女魔導士が消えた。
それを見て、クレイは静かに息を吸った。
「クレイさん・・こっち来るぞ。悪魔殿が」
アントニアが、極度の緊張で逆に落ち着いた声で言った。
「どうします隊長?」
アルノーは、アントニアの前に立っている。その顔があんまり必死なので、クレイは固い顔を崩して笑ってしまった。
そうか。お前も小さい形で女を守ろうってか。どう見たって幅の足りねぇ盾だが、その心意気は嫌いじゃねぇ。
「手は出すなよ、お前ら」
「・・了解」
「心中する気配になったら言ってくれよ」
演技でもないことを言うアントニアを軽く小突いて、クレイは翼馬から降り立った人影に近づく。
翼馬を肩に乗せた十二歳の王太子は、うんと首を伸ばしてこちらを見上げた。まっすぐ立てば、頭の高さがクレイの腹辺りに来る。
なるほど。只者ではない。懐のステファノスが小さくなる筈だ。
背丈は小さく、目鼻立ちも可愛らしい少女のようだが、身に纏う軍服ときたらどうだ。真新しいのは首に巻いたレースのスカーフばかりで、黒い羅紗織はぺらぺらのくたくた、下に着る革鎧の形に添って白い筋が見える。頑丈な軍靴にも折り皺が目立ち、右肩から斜め掛けにした革の剣帯には使い込んだ艶がある。この年で、まるで戦歴三十年の熟練兵のようではないか。軍服をこれだけ着こなしながら、綺麗な顔に傷がないというのも、実力の程を窺わせる。
「ユーン家のクレイ・フェオか」
「はい。・・殿下」
「ふん。女は・・あそこか」
クレイは、頭が真っ白になった。
王太子がちらと視線を流した先に、クロディーヌがいる。
「私、あ・・あのっ・・!」
「な・・」
何ということだ。隠れていろと言ったのに、白い息を弾ませながらこちらに走って来る。
駄目だ。この王太子は魔法使いだ。彼のたった一言で、クロディーヌの命は絶たれてしまう。
(畜生っ!)
クレイは、アントニアに借りた剣を抜き放った。
くきぇ〜、と、変な鳴き声が遠ざかって行く。
(・・・何故こうなる?)
長剣が、足元の雪を撥ね上げる。琅珂の魔法で一度溶けてから固まった地面であれば、飛び散るのはほとんど氷粒だ。
飛び退きながら、琅珂は舌打ちした。
「うおおおっ!」
さっと屈むと、頭の上を風が通り抜ける。
「っ!」
ぎし、と音がした。
男の膝裏を蹴った足が、万力のような指に掴まれる。
抵抗をものともせずに振り回され、背骨から地面に叩きつけられる。鈍い痛みが、容易く闘争本能に火を点けた。
「舐めるな!」
ぎっと目を吊り上げ、上半身を撓らせて飛び起きる。そのまま、上にいるクレイの額に頭突きをくれてやる。
今頃、女の悲鳴が耳を衝いた。ぱさ、という軽い音は、飛ばされた帽子が落ちたのだろう。
「かっ・・」
意識に生じた一瞬の空白が、滾る感情を初期化する。
頭が割れるかと思った。恐ろしく硬い。クレイはちょっと後ろに反っただけで、まるで怯まない。それどころか、剣を握る拳で殴りつけてきた。
ぶんと唸った拳からどうにか頭を逸らし、腰に提げた短剣を抜けば、足首から手が離れる。この距離なら剣より速く刺せる、と思った途端にだ。
剣が一突きするのに合わせ、仰け反ると見せかけて、逆に屈んで距離を詰める。クレイの方もフェイントのつもりだったらしく、大きな左膝が目の前に迫って来たが、ぎりぎりまで引きつけておいて、さっと横に逃げる。
体格も膂力も敵わないが、初動だけは確実にこちらが速い。
「ふっ」
短い呼気と共に、翼馬が張りついているらしい腹に拳を突き上げる。長い右脚が蹴りの動作を始める瞬間に腕を引き、密着したままくるりと回って、右脇腹に刃を打ち込む。
がん、と音がして、血が飛んだ。
(は、嘘だろう?)
骨を砕くつもりが、皮膚一枚裂いただけで刃先が曲がってしまった。感覚のない左手から短剣を滑り落としつつ、後ろに跳ぶ。
クレイがさせじと追って来たが、やはり肋骨下の急所への一撃はそれなりに効いたらしい。剣を突き出す動きが鈍い。琅珂は剣を掻い潜り、思い切り前に出ながら右手で太刀を抜刀した。
低い姿勢で半円形に空気を薙げば、クレイは琅珂の体を跳び越えて躱したが、着地時につるりと足を滑らせた。足をばたつかせて結局尻餅を着いた途端、男の顔に絶望が過ぎる。
「・・・・」
跳び退いて大きく間合いを空けた琅珂は、男の強張りを理解して、ぽいと太刀を放った。
「呪文を唱える気はないぞ」
武器を捨てたことでクレイが逆に警戒を強めたのを知って、断言する。
「・・・・」
「フルリールに教えられたか?魔法使いは呪文を唱える前に叩き潰せとでも?」
苦笑に混ぜて問いかければ、クレイのでかい図体から変な力みが消えた。
「・・『僕のくそ親父と真っ黒い弟は規格外だから戦うな』とも言われたな。そう言えば」
そんなことを言いつつ、クレイの精悍な顔は笑っていなかった。目の動きを追えば、そこに蒼い顔で立ち竦む元小間使いがいる。
「クロディーヌをどうする気だ?」
「クロディーヌ?・・ああ」
琅珂は肩の力を抜き、前髪を掻き上げた。そうだった。こいつはあの女を救おうとしたのだ。
「別に。生きておるならそれで良い」
クレイは怪訝そうな顔をした。
「彼女を追って来たんじゃないのか?」
「・・如何にも。折角赦しを与えた女にこうも早く死なれては、余の立場がないのでな」
それは、たった今考えた言い訳だった。
フルリールは、弟に屈してまでこの男を守ろうとした事実を、本人に知られたくないだろう。
こいつに教えてやれば身悶えして苦悩する兄の姿を拝めるかもしれないが、何となく、琅珂はそれが嫌だった。
あんな奴に配慮してやる義理はないが、そんな薄汚い嫌がらせをするのは弱い奴だけだ。俺は強いのだから、卑劣な真似をして男を下げることはない。
冷たい地面に腰を落として、何故か泣き出したクロディーヌを見つめて、クレイは、何とも形容し難い間抜け面になった。
「・・・あの魔導士の女、殺したんじゃないのか?」
琅珂は眉を顰めた。
「奴なら逃げたぞ。風に乗って、目にも留まらぬ速さでな。追うほどの理由もない」
「・・あんた、ニヴァルバラ公だってな。不法侵入者は殺すんじゃないのか?」
問われて、琅珂は気まずい思いをした。
王太子であるからには不法な暴力を振るうな。騒ぎを起こすなというのは無理だろうが、やりたければ正義と言い張れるだけの理屈を整えてからやれ。
王妃にそんな説教をされたこともあり、ついつい形ばかりの爵位を翳して偉そうなことを言ったが、とどのつまりは自分が暴れたかっただけである。すると、俺も薄汚い奴らのやり方に迎合してしまったのか。
「ほぉお・・そうか。へぇ、うん。へへへ・・」
答えられずにいると、クレイは、今度は不気味に笑い出した。
「・・何か、おかしいか?」
「ん?ああいや・・あんた、意外にいい奴だな」
「いっ」
琅珂は、あまりの不気味さに後退した。
何だこいつは。何なんだこいつは。さっきから何が言いたいのかさっぱり分からない。フルリールの友人なら有り得べきことだが、ちょっと頭がおかしいんじゃないのか。
クレイは胡坐をかき、片手でばんばん膝を叩いている。その膝がばきっと硬い雪にめり込んで、よろけては一人で笑っている。これを本当の馬鹿力と言うのだろうか。
「いやいや、うん。悪くねぇ。悪くねぇぞ。カマくさい顔して意外に骨っぽいしな」
「かまくさい・・」
「あれだけ容赦ねぇくせに女は殺せねぇなんざ、まさに琺夜族じゃねぇか。ああ、あんたが王太子か。次期国王陛下か。いやいや、いいじゃねぇか」
「・・女を殺さない訳ではない。あやつは、単に面倒で見逃した・・」
琅珂は口を閉じた。
何故だろう。本心を語っているのに、照れ隠しに聞こえる。案の定、クレイは誤解した。
「またまた、照れるんじゃねぇよ!女に甘くていいじゃねぇか。琺夜ってのは騎士道の国なんだからよ!共存共栄、女尊男卑が琺夜の正義じゃねぇか。あんた、その国の王になるんだぜ。国民の父にしちゃ、見栄えはちと貧弱だが、まあ良しとするさ」
「・・・・」
琅珂は、只管に困惑した。どうやらこの男は、自分の人格を著しく誤解しているらしい。ついでに琺夜の正義とは一体何だ。
騎士道とは、武勇、謙虚、忠誠、高徳、礼儀、高潔、献身などといった文学世界の幻想のことではなかったか。頭の沸いた恋愛詩人が台頭して、殊更に「か弱き婦人への献身」だの「享楽的欲望に因らない洗練された愛」だのと訳の分からない定義を足したりもしているようだが、すると、この男はその辺りの空想を信じ込んで現実に実践しようという大馬鹿なのか。その馬鹿に、同類と看做されたということか。
「貴様・・」
琅珂は、静かに殺気を発した。
この馬鹿が勝手に何を誤解しようとどうでもいいような気もするが、どうも忌々しい。気恥ずかしい。一刻も早く間違いを正さねばすっきりしない。ああ、こうなったらフルリールのことを言ってしまおうか。
「余は、」
「隊長ぉおお!あんた何言ってんだ馬鹿じゃないのか〜!!せっかく王太子殿下が寛大にもお許し下さるような感じなのに何カマくさいとか貧弱だとか可愛らしいとか失礼なこと言ってんだど阿呆〜!」
(・・・・。・・ちょっと待て。言ったかこいつ?)
「ぶわははははははクレイさん!あんた命知らずもいいとこだな!」
駆け寄って来るクレイの仲間らしい二人を見て、出端を挫かれた琅珂は目を瞬いた。
小さい男と、でかい女。そして変な男。何だこいつらは。旅芸人の一座か。
「・・クレイ・フェオ、貴様、」
「お許しを殿下!身共の隊長は斯くなる考えなしの、ええ、ご覧の通りの無礼者でございますが、断じて悪気ではないんです。ただ何と申しましょうか・・少しばかりここが足りないと申しましょうか、端的に馬鹿と申しましょうか・・」
「何慌ててんだちびちゃん。殿下は、んな小さいこと気にするような御仁じゃねぇよ。わざわざ女一人のことを気にして、こんなド田舎まで足を運ばれるような方なんだ。俺ぁ感動したね。クレイさんが突進したって、魔法で焼き殺したりしなかったじゃねぇか。こんな失礼な言葉遣いにも文句を言いやしねぇだろ。飾り物じゃねぇ、本物の善と悪とを見分ける目をお持ちなんだよ。背丈はてめぇより小っこいが、ああ、比べもんにならねぇぐらい器のでけぇお人なんだよ」
「小さいとか言うな小っこいとか!」
「・・・・」
そうまで持ち上げられてしまうと、もう何も言えなくなる。今更何を言うのも間抜けだ。
(・・こいつは瓊佳だ。あの猪女と同類だ・・)
気分だけが疲れ果てた琅珂は、深い溜め息をついて前髪を掻き上げる。
シェオ・フローリィの中庭で見た時から変な男だとは思っていたが、連れの仲間もやはり変だ。こんな奴らが三人も揃ったら、もうどうしようもない。
「きあー!王子様!おお見たかちびちゃん?可愛いぞ!笑ったぞ!滅茶苦茶可愛いぞ!」
「何を騒いでるんだ背高。女みたいにきゃぴきゃぴしやがって。殿下の母君は絶世の美女と名高い王后陛下、フロコンドネージュ家のセリーズ様なんだぞ。お美しいのは当然だろうが」
よくもまあ、恥ずかしげもなくぽんぽんと賛辞が出て来るものだ。宮廷人の阿諛追従だって、ここまで大袈裟なのは聞いたことがない。
呆れながら、琅珂は顎に手を当てた。
(笑っていたか・・)
「アルノー、双子の王女様ってのは、やっぱり美人だったよな?」
「隊長?あんた畏れ多くも王女殿下に手ぇ出そうとか考えてないですよね?」
「当たり前だ。いくらなんでも十二歳は熟れてない。付き合うなら十七歳からだな。できればこう・・曲線が、」
「訊いてねぇよ!てか、そういう問題じゃねぇよ!」
「あの・・ええと、坊ちゃん」
「うお、クロディーヌいつの間に!顔が怖いぞ!何怒ってんだ?」
「別に・・本当にデリカシーが無いのね」
「何ぃ?アルノー!俺が何をした!?」
「ふ〜・・また惚れられる前に振られましたね」
今度ははっきりと、琅珂は噴き出した。
まったく、何という馬鹿な連中だろう。だが不思議と、
(清々しい、な)
シェオ・フローリィにいるのは、顔ににやけた笑みを作りながら、腹の中で何を考えているか分からない奴らばかりだ。
比べると、この連中は何と違うことだろう。
考えたままのことを素直に口に出し、それでどうなるかなど考えない。その言葉には、深読みする余地がない。
「・・貴様ら、よく今まで琺夜で生きて来られたな」
思わず言うと、小さな男にがっしりと右手を握られ、我が意を得たりとばかりにぶんぶん振り回された。
「そうでしょう?やっぱり殿下もそう思われますか!この隊長殿ときたら、本当に何度軍紀を乱して将軍に大目玉を食らったことか!このアントニアと一緒になって筋肉馬鹿共がいつもいつも何か仕出かす度に身共がどれだけ身の縮む思いをするかこいつらは全く理解しないんですよ!隊長ときたら実力から言っても、まあ何と言うか家柄から言っても、いえ好ましいことではありませんが、公家の子息ともなればとっくに連隊長ぐらいに任命されていておかしくはないんですが、実家からは勘当同然、上官との折り合いも悪く、親友のフルリール王子が何かアレなせいで別れた女性に変な噂を流されて、何と言いますか処世が下手で!先日国王陛下に逆らったと聞いた時には、ええ、血の気が引きましたよ。ああ、その節は身共も本当に感謝しております。殿下がいらっしゃらなければ、今頃この馬鹿隊長は首に縄つけてぶらぶら揺れておりましたでしょうから・・ぐす」
「ちびちゃん、よく喋るな。つーか泣いてるか?王子様引いてるぞ」
「う・・うるさいぞ背高!俺はなぁ、お前らみたいな体力馬鹿とつるんだせいで、いっつも気苦労を抱えてんだよ!殿下なら理解して下さるに違いねぇだろう!」
「・・・大変だな」
適当に言ってやれば、大袈裟な男は感極まって抱きついてきた。
腕を解きつつ空を見上げれば、空気は赤みの強い紫から白に変わりつつある。
(・・・・)
琅珂は、一抹の寂しさを感じて男を突き放した。
そうだ。こいつらは愉快だが、やはり長生きはできまい。琺夜には、胸が悪くなるような人の悪意、作為が入り乱れ、どろどろに煮詰まっているのだ。純粋で素直な人間は、守る者がいなければ、あっという間に呑まれてしまう。
「聞け。今、この国には王がおらぬ」
大きな声で言うと、喧しい三人が途端に黙りこくった。クロディーヌはどこまで知っているのか、薄く浮かべていた笑みを消して顔を伏せる。
「ユーン家が暗躍しておる。王家は、既にユーン家を敵と見做した。王后陛下はアルブリヒトを殺す気だ。事によれば、一族郎党諸共にな。もっとも、ペリード家の知遇を得る貴様は生き残れようが。内戦が始まれば、貴様はどちらの味方につく気だ、クレイ・フェオ?」
少しは頭が回るなら、この男も王家に利用されようとしていることに気付くだろう。この王太子が決して善意の救い手などではないと察するだろう。
琅珂は、これこそ自分に相応しいと信じる冷笑を浮かべた。
気の良い奴らに間違った偶像を抱かせておくこともない。自分は薄汚いスノゥリィ家の人間だ。恐れと憎しみの眼差しこそが心地良いのだ。
「親父をぶん殴る!」
「、」
力強く答えられて、琅珂は思考停止に陥った。
「はん!親父の奴、土台が玉無し野郎なんだよ。女子供相手にゃ偉そうに踏ん反り返るくせ、大の男に凄まれりゃ、こそこそと影に隠れるような意気地なしなんだ。内戦なんざ大袈裟なことにしやしねぇさ。王家が敵にするまでもねぇ。拳骨一発で伸してくるさ」
クレイがばきばきと指の骨を鳴らせば、小さい男がしたり顔で頷く。
「そうですね。隊長、王太子殿下がこうして教えて下さったからには、まだ根源を断つ余地があるということです」
「よっしゃ!んじゃあ、この足でヂェルスベルクに乗り込むか!」
大きな女が天に拳を突き上げたところで、琅珂はいつものマルヴェのように深い深い溜め息をついた。
駄目だこいつらは。
「クロディーヌ、あんたはどうする?王太子殿下がこういうお人なら、ル・フォワイエまで行くこたぁないか?」
「え・・」
「隊長、それこそ一刻も早くアルブリヒトの旦那をぶちのめせばいいんです。彼女も家に帰れるじゃないですか」
「おお!頭いいなアルノー!」
「へぇ。あんた、ヂェルスベルクの子なのか?」
半ば諦めつつも何か言ってやろうと顔を上げた時、琅珂はクレイと目が合った。
浮かれ騒ぐ馬鹿面かと思いきや、男の目は据わっていた。スカーフを締めていない首の腱も、不自然なぐらい起っている。
(こいつは・・)
分かっている。抜き差しならない状況だと見極めている。大切なものを失うかもしれないと怖れている。己だけでなく、大事な部下の命も危険に晒す責任を理解している。
気付いてみれば、大きい女と小さい男も、心得たように目で会話をしている。馬鹿な隊長について行くことに、一寸の迷いもない。
すると、こいつらは本気で内戦を止めようとしているのか。
戦略を練ることもなく、ただ本能と拳だけで、そんなことができると信じているのか。
「・・・・」
違う。こいつらは普通の馬鹿ではない。何となれば、危険に無頓着な戦士が生き残れるほど、琺夜は甘い国ではない。戦況を正しく見通し、それでも危険に飛び込んで現実を引っくり返そうとする真の愚か者を、琺夜族は騎士と呼んで来たのだ。そうしてぎりぎりの選択の中で生き残る者をこそ、英雄と呼ぶのではなかったか。
とすると、ああ、そうだ。こいつらは、
「・・上策とは言えぬな」
琅珂が言うと、クレイが不思議な眼差しを向けてきた。
「じゃあ、あんたがぶち壊してくれるのか?思い上がったくそ親父と、腐り切った琺夜をよ」
「琺夜をぶち壊す、と来たか」
何故か無性に楽しくなって、琅珂はくくっと喉を鳴らした。
「それは考えなんだな・・」
笑いを収めて、目を閉じる。
なるほど。そうか。いいかもしれない。
どうせ、壊すことしかできない俺だ。こんなに心が躍るなら、いっそ、こいつらを騙し通すのもいいかもしれない。琺夜をぶち壊すのもいいかもしれない。
ちょうど、暇を持て余していたところだ。
琅珂は上を向き、かっと目を見開いた。眼球に朝日を浴び、決意してくるりと首を回す。
変なものを見たような顔をして、四人が一様に背筋を伸ばした。
「貴様ら、俺について来るか?」
「連れて行けよ、我が君」
クレイは、実に軽く答えた。
おろおろしているクロディーヌはともかく、クレイの部下二人も異存がないのを確認し、地面に右手をつく。
「来れ ヒュルソーン 雪を纏いて その身と為せ」
凍った雪が飛竜の背中になってむくっと持ち上がれば、途端に子供のような歓声が上がった。
「うおお!何だこれ!魔法か?魔法なのか?」
「ドラゴンだ背高!すげっ、鱗でけっ!ドラゴンに乗ってるぞ!うひぇー!」
「そーかそーか、やっぱりご立派な王子様だ。税金の無駄遣いじゃなかったって訳だな」
「う・・わぁ・・」
ピュュロロロロロ・・ヴュユロロフュロロロ・・
眠そうな啼き声を上げたヒュルソーンは、鉤爪のついた四肢でぐわしっと崖の両側を掴んだ。長い首を持ち上げて、翼を広げられる場所までよたよたとよじ登る。
ぐぎぇえぇええええ!!
些か乱暴に右肩に舞い降りた翼馬の天狼が、ナワバリを主張するかの如く競って吼える。
生き残ったヂェルスベルク公の家臣達が尻に帆を掛けて逃げて行くのが見えたが、琅珂は無視することにした。
「・・地位も名誉も約束できんぞ。俺はいつ失脚するか分からんからな」
背中を向けて言い放てば、笑い声が聞こえて来る。
聞いたか?地位と名誉だとよ。はん、そんなもの欲しけりゃ、端からこんな隊長の下についてないぜ。お前らそりゃあどういう意味だ?
ざわめきを心地良く聞きながら、琅珂はにっと唇を上げた。
「地位も名誉も約束できんが・・死に場所ぐらいは、くれてやる」
琅ちゃん独壇場。長いって話ですね、ええ。もちっと文章削れって話ですね。
やっとリクエストっぽい感じになったような。・・やっと。
今更ですが、このお話は「君影脳内世界におけるノン・フィクション」です。
実在する人物、宗教、団体、歴史とは一切関わりがありません。