第4節.マルヴェとフロコンドネージュ家
風月8日<スミレの日>。後の世に言う「虹の燃えた日」。
異常な天文現象が世界的に観測され、各地の歴史書に綴られたこの日。ここ琺夜シェオ・フローリィ宮には、大いなる自然の壮観に思いを馳せる余裕もない者達が、若干名存在した。
晴れた茜空一面に仄白い光の襞が乱舞し、白い流れ星が無数に降り注ぐ夕暮れ時。
マルヴェは、窓辺に突っ立って空を見上げる人の群れを蹴散らして、陶板敷きの廊下を足早に移動していた。
だぶついた緋色のマントは雪を被って肩からずり落ち、帽子の羽飾りはしんなりと垂れている。金と茶が斑に混じった髪まで、汚らしく乱れて水を滴らせている。
身内から優男と呼ばれることはないが、ペリード一族らしい卵形の顔にスノウリィ一族の形良い目鼻を載せるマルヴェは、自分でも悪くないと思える程度の美男である。
それだけに、束ねると冴えない藁色になる髪が美貌にけちをつけるようで、彼は昔から気に入らなかった。湿気を含むと玉蜀黍の髭のように縮れてしまうのが、ますます格好悪い。櫛もオリーブ油もない今は、どうにか手櫛で梳かしてみるのが関の山だ。
「どころではない、か」
王族の私的空間へと通じる狭い螺旋階段を登ってしまえば、そこからは壁に漆喰さえ塗られていない貧相な板張りの廊下になる。王家の吝嗇ぶり・・と言うより困窮ぶりが良く分かる場所だが、礼を欠いて良い訳ではない。マントと帽子を従者に手渡し、身頃の合わない胴着姿になったマルヴェは、こんな時にまで装いの見苦しさを思い煩う己に失笑しつつ、小姓が扉を開くのに合わせて歩を緩めた。
「・・・・」
女神。
咄嗟に心で呟いたのは、そんな言葉。
暗い部屋にくっきりと浮かび上がる柔らかな白の曲線に、温かな光沢を持つ黒い滝が流れ落ちる。
後姿さえ掛値なしの麗人は、無骨な格子窓から、怪しい光の揺らめく空を見つめていた。
琺夜の王妃にしてアガンテーヌ公瞭桜。王に嫁ぐ前の名は、セリーズ・デュ・フロコンドネージュ・ダガンテーヌ。
彼女の前ではいつでも完璧な身なりでいたいマルヴェは、惨めな気分で足を踏み入れた。年代物の絨毯を汚さぬよう、旅汚れた靴だけは履き替えてきたが。
「王后陛下におかれましては、本日もご機嫌麗しゅう」
「お帰りなさい。この度は本当にご苦労でした。・・痩せましたね、青磁」
玉を転がす美声とは、まさにこのことか。
そんなことを考えながらも、マルヴェはゆっくりと振り返った王妃の頬が仄かに赤らんでいることに気がついた。
襟刳りからより白い肩を覗かせる、簡素な乳白色の部屋着。結い上げず、無造作に背に流したままの黒髪。そんなしどけない身なりで、私室に男を迎え入れるのが恥ずかしいのだろう。侍女が大きなショールを持って来て王妃の肩を覆い隠したが、伏せがちの目が上がることはない。
心得たマルヴェは、さっと片膝をつき、みっともない玉蜀黍頭を見せ付けるように深く下げた。
「陛下。斯様な不幸の渦中にあろうとも、私は今を至福と申し上げます。千の言葉を以って語り尽くせぬ陛下の美しさを、絹と黄金の繭に飾られずとも尚輝かしいお姿を、今一度拝謁する機会に恵まれようとは」
斯様に見苦しい私に対し、何故陛下が恥に思うことがありましょうか。
くどい言葉の裏に込めた気遣いを、この貴婦人は汲み取ってくれたらしい。可憐な口元を綻ばせ、ただ一言「気障ね」と呟いた。
「何をしに来た、マルヴェ」
あまりにも眩い手の先を見つめてうっとりしていたマルヴェは、飛び上がって右を見た。
石壁に吊るされたタペストリーに凭れ掛かる琅珂は、擦り切れた黒衣を身に纏い、氷のような目でこちらを見つめている。対照的に完璧なドレス姿で、奥の寝椅子で肩を震わせているのが玉葉。幼い双子の姉弟が、珍しく揃ってここにいる。
「っ、早速色男に変身して、未亡人を口説きに来たのよね。でもお生憎。琅の話じゃ、父上はまだ死んでないわ」
ひっひっひっと喉を鳴らす玉葉を向いて、琅珂は忌々しげに吐き捨てる。
「葉、笑い過ぎだ」
「だってだってマルヴェったら、母上しか見えてない・・っぷくくあーっはははは!」
「連隊長殿におかれましては、紳士なぞという人種の言動にいちいち取り合わないで頂きたい。だから笑うな。・・実に不愉快だ」
美しい王妃にそっくりの妹に馬鹿笑いされて、同じく浮世離れした美貌の弟には冷たく切り捨てられる。
中途半端に腰を上げたままのマルヴェは、もう転げ回りたいぐらい恥ずかしかったが、敢えて涼しい顔で往なした。
はん、子供には礼儀の何たるかも分かるまい。そんな気勢で居直りながら、姿勢を正して王妃一人を注視する。
「陛下。ヂェルスベルク公が・・おそらく、裏切りました」
「おそらく?」
既に早馬で報告は届いていただろう。王妃は動揺しなかった。侍女が書き物机の側から引いて来た椅子に、優雅に腰を下ろす。彼女が動くと、衣服に潜む白梅の香りが優しく鼻を擽った。床まで届いてしまう髪を、別の侍女が手早く掬い上げて蓋のない飾り箱に入れる。大きな暖炉の中で燃える炎が、この美しい髪に琥珀の輝きを添えた。
「ユーン卿は既に軍を集めていますが・・状況が状況だけに、直ちに謀反と決め付けられません。明らかな挑発的態度を取りながら、宣戦布告は先送りするつもりです」
「彼らしいやり方です。このまま王陛下が戻らなければ、我らは内戦に対処することになるでしょう」
「戻りますまい、我が君」
よそよそしい敬称で母を呼んだ琅珂は、不愉快そうに前髪を掻き上げた。
「私を王太子にした次は、これです。琺夜を混沌に陥れ、楽しむつもりに相違ない」
王妃は、ふ、と微笑んだ。
「彼の性格を考えれば、否定はできませんね。それでも琅、あなたはeに恩義を感じているのでしょう?」
「俺は・・私は、ただ悔しいだけです。マダム」
「何だ?おい、何の話だ?」
琅珂に詰め寄りかけたマルヴェは、ぎょっとしてその場を飛び退いた。
体の横を何か、得体の知れないものが通り抜け、絨毯の毛足をぞっと撫でて過ぎる。
「琅珂!」
王妃がさっと片手を振ると、琅珂は打たれたようによろめいて、こちらに背を向けた。
「・・・貴様には関わりのない・・いや、そもそもは貴様らの・・っ!・・聞くな。俺は冷静じゃない」
王妃は少しの間、鋭い目で息子を睨んでいたが、やがてマルヴェに顔を向けて、柔らかい笑みを見せた。
「ごめんなさい、青磁。琅は今、少し荒れているの。気にせず、腰をかけて寛いで下さいね。温かい飲み物も用意させました」
「あ・・はい」
促されるまま、侍女が運んで来た肘掛椅子に座り、ホットワインに口をつけてから、マルヴェはちらと弟に目をやった。小さな頭は、王妃とは違う鴉の濡れ羽色。つんつん尖り、寒々しい翠に艶めいている。
何だったのだろう、今のは。一息遅ければ、殺されて、いたのだろうか。
「下がりなさい。私が呼ぶまで、ここに誰も近づけないように」
王妃の命を受け、控えていた八人の侍女達がしずしずと退室した。制服の形が違う三人は、玉葉の侍女だ。すると、琅珂はまた伴を連れずに出歩いているのか。せっかく護衛に任じたクレイ少年はどうなったのだろう。ここにいれば、彼の実家と交渉するのに協力して貰おうと思っていたのだが。
冷や汗を拭って、マルヴェは深い溜め息をついた。
風月に入ってからこの方、厄介事、訳の分からないことばかりが起きている。
事の始めは、フルリールの悪ふざけだったか。
飲み薬に有機水銀を仕込み、尚且つそれをエパノス=アッシュダークの仕業に見せかけるなど、相当悪質だと思ったら、何と琅珂の命を狙っていたのはフルリールだけではなかったようだ。
琅珂が首を刎ねた薬剤師の方は確かにフルリールのファンだったが、小間使いのクロディーヌは、別の主人に雇われたスパイだった。首尾良く王太子を暗殺できると踏んで、内通者同士が手を組んだものらしい。
リアノ公の息子などという大物が罠にかかったことに引っかかりを感じ、クロディーヌの生まれ故郷がユーン家の領地ヂェルスベルクであることを突き止めてみれば、何とそのヂェルスベルクで暴動が勃発した。
現地では、クロディーヌを使った残酷な見世物のことが知れ渡っており、しかも民衆の語る噂話の中で、クロディーヌは「濡れ衣を着せられた被害者」ということになっていた。対する王家は、民から税金を搾り取るだけ搾り取り、か弱い婦女子を気紛れに虐待する巨悪。否定できないのが辛いところだ。
今度は急いでユーン家を調べてみれば、このヂェルスベルク公アルブリヒト=ユーンが黒幕だった。
領主の権利として取り立てた十分の一税とは別に、災害緊急時に民に配給するべき食糧の備蓄がありながら、この寒波で飢えた領民に倉庫を解放せず、それは全て王家が徴発したとデマを流していた。王が貴族に対して対人課税の支払いを求めた事実に反し、共有財産税が値上げされたという悪意の誤解を広めていたのだ。
マルヴェはあちこちを駆け回り、ようやく証拠を揃えてユーン卿を弾劾したが、これがとんでもない喰わせ者だった。
追及を受けた公爵は己の非を棚に上げ、逆に「非道な王家のせいで我が領民が暴徒と化したぞ。責任を取れ」と宣った。更には、「王から私設軍隊の解散を命じられたので対処のしようがない。そちらから詫びがあって然るべきではないか」とまで放言したのだ。
農民達の反乱がますます本格化し、身の危険を感じたマルヴェは、結局すごすごと逃げ帰るしかなかった。更に、帰還途上で受け取った手紙によれば、
「ともあれ・・陛下。それでは、王陛下がセルジリア側に拉致されたとは、事実なのですか?」
「間違いなく」
ようやく笑いを収めた妹に断定され、四日間不眠不休のマルヴェは、その場で倒れそうになった。
「ま、あのっ、く・・・・がッ!」
敬慕する王妃の前で、とても「クソ親父」とは言えなかったマルヴェは、もごもごと口を動かした後で、深い深い溜め息をついた。
何が可笑しかったのか、玉葉はまたきゃらきゃらと笑い出す。
「ねえ兄様、絶食は駄目よ。いくら急激なダイエットに耐えられるからって、五日かそこらで200キロ近くの減量は、やり過ぎにも程があるわ。もう二十代なんだし、皮膚が余って弛んできちゃうわよ」
「・・・玉葉。私は、無理のない人生など想像もできないよ」
「普段から細くしておけば?遊び相手に不自由しないわよ」
大輪の薔薇のような紅いドレスを着た玉葉は、些か服装にそぐわない扇子を振り回して遊んでいる。張ってある布地はドレスのデザインに合わせたレースだが、扇の骨は色気のない鉄細工だ。いざと言う時に人間の頭蓋骨を叩き割る事が可能な重量と強度を備えている。
マルヴェはこの妹が苦手だ。
それこそ貴婦人の中の貴婦人たる瞭桜の縮小版と言える姿で、蓮っ葉な口を聞いたり、ドレスで格闘したりするのは止めて欲しい。こちらが忙しい時にはじゃれ付いて仕事の邪魔をする癖に、彼女の私生活に少しでも深入りすれば、「あんたが父親面しないでよ」とくる。同じ顔で目付きの悪い弟よりは、遥かに気安い相手であるのだが。
「葉、知っているなら教えてくれ。父上に何があったのだ?」
丁寧に質問したのに、玉葉は早速機嫌を悪くした。だらしなくも優美な猫のように、クッションに肘を置いて寝椅子に体を伸ばす。
「琅に訊けば?私は当事者じゃないし。琅の気持ちを知ってるだけ」
「その琅珂が答えてくれそうにないから、お前に訊くんだよ」
玉葉の丸い頬が、ぷうっと膨らんだ。閉じた扇子を左耳に添え、余所を向いてしまう。
「私、疲れた。今、母上に同じこと言われて説明したのに。何でみんな私を琅の代弁者だと思ってるの?それとも外交官?通訳係?私の人格眼中になし?」
「・・碧龍天楼のアウグステから、カストル・バリエタの香油を貰ったんだが」
玉葉の手から、ごとっと扇子が落ちる。
「霓葩様が、星を壊したのよ」
ようやく答えてくれた。しかし、何のことやらさっぱり分からない。
「・・星?」
救いを求めて王妃に目を向けると、瞭桜は少し困った顔をした。
「玉葉。お兄様で遊んではいけません」
「あはは!はぁい、母さん。陛下の大事な騎士様ですものね」
玉葉は左手で扇子を拾い上げ、そのままぱたぱたと扇いだ。
「慎みを持てませんか、玉」
「それが武器になる時には、いくらでも」
「玉・・あなたは私の娘ですね。嘆かわしい」
玉葉は母の言葉に取り合わず、閉じた扇子の先を唇に置いた。
「小惑星?彗星?良く分からないわ。琅も分かっていないの。頭の上にいる兄様の親戚連中が、また大騒ぎしてるみたいよ。ナントカの軌道計算を間違えたとかで対処が遅れて、ディーシェ・スノゥ・バレー以上の大災害になりかけたところを、サフェイス家の最強皇女様が落とし前をつけた・・っていう、それだけの話。琅に分かるのは、物凄く大きくて速い“星”が、成層圏の外で爆発したってことだけ。今朝頃から、空が凄いことになってるでしょ?」
「・・・・?・・・・!?・・・・。それが、父上の不在と何の関係がある?」
あまりにとんでもないスケールの話に、マルヴェは真偽を疑うことすら放棄した。ペリード邸に帰れば、碧龍天楼の実家から、低緯度のオーロラと時ならぬ流星群に関する、もっと本当らしい情報が届いているだろう。鉱物博士のファルツは隕石のサンプルを欲しがるだろうし、芸術家のフルリールはインスピレーションを得て詩を書いたり作曲をしたり飴を練ったりするかもしれないが、政治家のマルヴェには、別にどうでもいいことだ。この天変地異が人心に与える影響を除けば。
「ええ。本来、世界を救った霓葩様の活躍など、私達にとっては炉辺で聞くべき御伽噺に過ぎません」
既に一度話を聞いていた王妃は、さらりと言った。常識の範疇を超え過ぎて驚愕すら感じられないマルヴェは、これに苦笑いで応える。どうしても笑顔が引き攣ってしまうのは、玉葉や琅珂が語る「御伽噺」が、可愛らしい子供の妄想であってくれた例がないからだ。
「遺憾ながら、我らが王ときたら、うっかり神話の脇役になってしまったようですが。・・琅」
「・・天空の民が、霓葩を捕まえようとした」
マルヴェは一瞬、琅珂が泣いているのかと思った。口を尖らせ、拗ね子のような顔で、タペストリーの毛羽を掻き毟っている。
「霓葩はあいつらを守った。化物じみた神通力を、ほとんど使い切った。なのに、あいつらは、弱った霓葩を苛めた。霓葩は俺を呼んでくれなかった。俺がいたら、」
「皆、殺していましたね」
王妃が穏やかに言うと、琅珂はびくっと背を震わせた。
「あなたも知っての通り、e葵は強欲な男です。ただ一つの恋を除き、己の望みは何もかも成就させてきた、人間の屑です」
「・・・・」
全く以って大賛成だが、それをあなたが言って良いのか。
マルヴェは思ったが、どうでもいいことなので言わずにおいた。
「その彼が、霓葩様を助けたのですね?彼女を悲しませる事なく、誰一人死なせずに」
「・・・そんな奴では、ない。俺の知るあいつは、そんな・・」
「いいえ。そんな人です。琅、あなたまでeのカリスマに騙されてはいないでしょうね。彼は本当に深読みする必要もない、底の浅い男ですよ。いつも衒いなく、己が恋の奴隷であることを宣言していたでしょう。あの性悪の外道は、レーシュ・ドゥ・シュエット亡き今、忘れ形見たる霓葩様の幸せを守る為なら、命も意地も趣味も捨てる男です。・・私達や王の責務など、それこそ真っ先に」
「母上、こわーい」
軽く笑う玉葉に言われて、マルヴェは初めて気がついた。
王妃は、別に琅珂を慰めていた訳ではなかったらしい。「王の責務」とは全く関係ない「御伽噺」に首を突っ込んで自滅した夫に対し、怒っているのだ。笑顔で。
「霓葩様もマルヴェと同じタイプの超能力者よね。今どんな体してるのかしら?百年の恋も醒めるようなゴリラ女になってたら・・ふふ。琅、会わなくて正解だったかも」
「・・黙れ、葉。潰れたいのか」
「ごめんなさい。うふふ、想像した?」
琅珂の事情は良く分からないが、何故かひどく落ち込んでいる。きゃらきゃらと笑う玉葉が、この中で一番冷静だ。
「それでも王陛下は、碧龍天楼の情報局とセルジリア軍の繋がりを曝け出してくれました。霓葩様の身柄を取り押さえる為に、死神将官達がしゃしゃり出て来たのですからね。陛下は、彼らの大多数を再起不能にしてくれたそうです。そうでしたね、琅?」
「兄様。クレオナントは、既に打診して来たわ。父上の身代金は、一公領二伯領と120万ディールですって」
「・・昨年度王領収入の――馬、家畜、家禽、畜産物、小麦、大麦、燕麦、蕎麦、葡萄酒、林檎酒、麦酒を全て現金換算しても・・いや待て。相場が・・――ざっと倍になるぞ」
これはこれで大事件なのだが、やっと地に足の着いた話になって、マルヴェは少しばかり安堵した。もっとも、すぐ次の瞬間には頭を抱えることになったのだが。
120万ディール。金塊にして約4トン。ペリード家にとっては莫大と呼べる額ではないが、スノゥリィ家にはまかり間違ってもそんな金はない。こんな身代金を払おうとしたら、国民に対し一体どれだけの臨時税を課さねばならないか。また、それだけの資本が他国に流れ込むことによる経済的打撃は未知数だ。暴動はヂェルスベルクだけでは収まらないだろう。勿論、セルズ側としてもまだ様子見の段階で、値切り交渉の余地はあるのだろうが。
「して、割譲を要求された領土とは?」
「ニヴァブール公領、アルトゥーズ伯領、モンドミエル伯領です」
「あの、陛下。ええ・・その、」
「ニヴァルバラ、ハルトハウズ、マウンタニーのことよ。アガンテーヌの田舎連中ときたら、未だに二百年も前の地図を使ってるんだから。人の名前だっていかにもノワール風だし」
自身も夏はアガンテーヌで暮らす玉葉が言うと、王妃は膨れっ面をした。こんな子供っぽい表情も、愛くるしくてたまらない。
「アガンテーヌ人は、古い文化を重んじるのですよ。当世、南ガシュクジュールは何でもセルズ風になってしまって、いけませんわ。無粋です。長く琺瑯の祭事を司った院家の直系が断絶し、雪=スノゥリィ家の口承も断ち切られた今、せめてノワール側の伝統を失わせてはなりません。我ら琺夜族の根幹が、」
セリーズに愛郷主義を語らせたら長い。十数年前に悟り切った事実を思い出して、マルヴェは俄かに慌てた。少女の頃と変わらないなと浮かれている場合ではない。
「素晴らしいお心掛けです、陛下。なれど、」
「・・失礼。脱線しましたわね。ええ。セルジリアとしても、ア・・ルトウズやモンタニーなどといった土地を欲しがっている訳ではないでしょう。セルジリアの大使は、磁器に最適な土ですとか、是非とも欲しい穀倉地帯ですとか申しましたが、飛び地にしてまで手に入れる価値があるとは思えません」
そこは、歳を重ねたせいか。王妃は聞きわけが良かった。マルヴェは胸を撫で下ろして話を続ける。
「はい。初めに相場以上の値を――下世話な言い方をしますと、『吹っ掛ける』のが、彼ら商人のやり方です。本命はニヴァルバラでしょう。あの地を取られると、セルジリアからクリシュエール地方への陸路が開けてしまいます。急峻な山岳地帯であることがせめてもの救いですが。大陸の北と西に更なる警戒を敷かねば、」
「払う気ならね」
マルヴェは口を閉じて、楽しそうな妹を見つめた。
「母上も人が悪いわ。身代金なんて1カナルたりとも出す気はないのでしょう?」
「1ゲリヤたりとも、です」
王妃は笑顔で、夫の値段を銅貨一枚以下だと断言した。
「我らが最優先して処理すべき仕事は、アルバート・ドゥールの排除です。セルジリアの介入も予想される以上、eの身勝手に付き合っている暇はありません。青磁、あなたには、これまで以上に働いて頂きます。次の内務卿は決めていますか?」
「な・・」
王妃にかかれば、政敵の名前さえ変えられてしまう。
それはそうと、この申し出は、自分が信頼されているということか。こういう場合、王太子が摂政となって王の代理を務めるべきなのだが、政治の経験が皆無の琅珂は使い物にならない。
王妃は、内務卿の職を部下に譲り、マルヴェが摂政になれと言っている。欲しかった権力が、思いもかけず目の前に差し出されている。だが、このタイミングは、
「・・・し、しかし・・私では。それでは、父上は・・」
「父上の癇癪が怖い?大丈夫よ、兄様。どうせ身代金を払う意味なんてないもの。父上なら、神通力が尽きて寝てるみたいだけど、目を覚ます前に殺されるわ。セルズ人が馬鹿じゃなければ、あの男に復讐の機会なんて与えてくれない筈よ」
二人の女性が既に腹を決めているのを知って、マルヴェは途方に暮れた。
e葵。あるいは瑜威紀胡二世。今は真実王として君臨する男だが、マルヴェが物心つく前は、「正統琺夜王」を自称する追い剥ぎに過ぎなかった。若くして盗賊団の首領を張り、ガシュクジュール地方を荒らし回る内、琺夜を占拠していたセルズ人達と衝突して、たまたま民衆に革命の指導者と祭り上げられたのだ。革命の資本も、初期にはノワール族の女王、後には天空の民を脅迫して手に入れた二人の妻――ペリード家のミルとアサギ――に提供させるという悪辣ぶりである。
ならず者は、先王瑜威紀胡の捨て子であった。セルジオ=アッシュダーク他先王の幕臣達が捨てられた銀髪の王子のことを覚えていたおかげで、王位継承者だと認められたが、胡散臭い話だ。
本物の王子であったとしても、一度廃嫡された身。本来、歴史から忘れ去られ、物乞いをして一生を終えていた筈の男だ。
平凡な運命を否応なしに拒絶する、二つの天性を具えていなかったなら。
一つは、喧嘩の才能。
二つは、魅力。
荒んだ世に毅然と立つ、真白き美丈夫。あらゆる色を撥ねつける圧倒的な白。寒気がするほど絶対的な美。
彼が荒野を歩む時、誰もがそれを男神と信じた。
彼が言葉を話す時、微風さえもぴたりと止んだ。
彼が刃を振るう時、人はそれを神罰と信じて平伏した。
それは、至高のカリスマ。
力と美。破壊神より授かった二つの賜物は、他に何も持たない男の空虚をひた隠し、底の浅い悪党を紛い物の神へと仕立て上げた。
e葵という神の下で、この『西』で死に絶えかけた琺夜族は生き延びた。
我らが頭上に真白き綺羅星が燦然と輝く限り、例え我が命尽きようと琺夜は不滅なのだと、死にかけた戦士達の心にさえ希望を焼き付けた。
ならず者の暴君であれ、性根の卑しい人間の屑であれ、e葵は紛れもない英雄であったのだ。
――それを、見捨ててしまうのか。
暴虐に怒った民に殺されるでも、正義の闘士に討たれるでもない。祖父のように、戦死ですらない。
こんなに情けない、静かで惨めな最期が、あの苛烈な父に訪れると言うのか。
「・・マダム。私に王を救えとは、仰らないのですね」
マルヴェは、はっと首を巡らせた。
「何故、笑っておられるのです。アルブリヒト=ユーン如きが、然程に大きな獲物なのですか?」
責めるような口調の琅珂は、必死の形相で母を睨んでいる。
対する王妃は、両の瞳を大きく見開いていた。
「琅珂・・・それは、一体どんな気紛れです?あなた、あの父を愛していたのですか?それとも、恩返しのつもりですか?」
見当違いも甚だしい。
琅珂は侮蔑を隠そうともせず、はんと鼻を鳴らした。
「・・お望みでないなら、それで結構です」
「琅、言いたいことははっきりと言いなさい。あなたの言動は不可解です」
マルヴェは、この時ばかりは琅珂の気持ちが良く分かった。
愛情などという問題ではない。ただ、釈然としないのだ。
これまで己の人生の大部分を支配してきた暴君が、こんなにあっさりと消えてしまうことが、納得いかないのだ。
マルヴェでさえそうなのだから、琅珂などは、いつか父を殺してその屍を越えていくとまで考えていたかもしれない。その目標・・宿敵が、こんな下らない経緯で失われてしまうことが、許せないのだ。
それが分からないとは・・。
マルヴェは、琅珂に加勢することにした。
「陛下。琺夜の民は父上を憎みつつも、愛しております。もっと名誉ある死に方をして下さればともかく、こんな情けない事実が国民に知られてしまえば、スノゥリィ家はお終いです。畏れながら、一層ヂェルスベルク公をつけ上がらせることになるのでは?」
王妃は、今日初めて眉間に皺を寄せた。
セルズの占領統治時代、スノゥリィ家の遺児e葵が現れる前、琺夜の王位継承権保持者の序列第一位はセリーズ・デュ・フロコンドネージュだった。
瑜威紀胡の時代まで、琺夜の王権は原則として男系男子に継承されており、その候補がいない場合は繋ぎとして女王の存在は認められるにせよ、女系の血筋に継承権が発生することはなかった。ところが、幼い少女に適当な夫を見繕って琺夜の支配を有利に進める目的で、セルズ人が勝手に琺夜の法を変えてしまったのだ。
これに憤ったのが、件のアルブリヒト=ユーン――王妃曰くアルバート・ドゥールだ。昔ながらの習慣を踏襲するなら、彼こそが第一位継承者になる筈だったのに。
アルブリヒトは既に妻を迎えて子供を産ませていたにも係わらず、自分の長女より幼いセリーズをしつこくかき口説いた。スノゥリィ家の直系血族であるe葵の存在が公になっても、セリーズがマルヴェと婚約してからも、彼は公然とe葵を偽者呼ばわりし、認めなかった。結局は、内戦を憂えたセリーズがe葵その人に白い手を与え、誰にも文句の言えない正統性を与えてしまったのだが。
セリーズ=瞭桜とアルブリヒトとの長年の確執は措くとして、今のスノゥリィ朝はe葵の人気一つでもっていると言っても過言ではないのだ。e葵が死に、このタイミングでアルブリヒトがまた偽者説を蒸し返せば、民意は簡単に翻る。
そうなれば、もう瞭桜を守ることはできなくなる。e葵が偽者なら、その子供達も王族ではないということになる。マルヴェを含むペリード一族など、端から民に嫌われているのだ。即座に琺夜から叩き出され、アルブリヒトが瞭桜と再婚して王となる企みを阻止する術はなくなってしまう。
琅珂と玉葉はアガンテーヌに逃げれば安全だが、アルブリヒトが権力を掌握すれば、何としてもe葵と瞭桜の子供達を始末しようとするだろう。大量殺人鬼の琅珂など、今回のように暗殺などという手段を取らなくとも、社会的抹殺は簡単だ。
「そんな事実は煙に巻けばいいんでしょ。情報操作は兄様の得意技じゃない。それより、ビルキース家とユーン家の間に交わされた通商条約について知りたいわ」
あっさり躱されて、マルヴェはむっとした。同時に、妹の頭の回転の速さに舌を巻く。
ビルキース家は、ヂェルスベルク公爵夫人ジークリートの実家である。“世界の中心”コードロークきっての財閥で、晶族の血も薄く流れているという。碧龍天楼ともパイプを持つビルキース家の令嬢の輿入れで、ユーン家は琺夜においてペリード家に次ぐ金持ちになった。アルブリヒトがその恩を忘れてジークリートを離縁しようとするなら、妻の実家に対して何らかの補償をせねばならない。
「ユーン卿は、まだそこまで交渉を進めてはいないよ。ビルキース財閥が、ペリード家の独占するガシュクジュールの市場に乗り出そうとしていることは知っているがね」
玉葉は、ぱちんと扇子を折り畳んだ。
「私達の利害は一致している。そう思っていいのかしら、兄様?」
玉葉がビルキース家の話を切り出した時からこの流れを予想していたマルヴェは、呆れた風を装って椅子の背に凭れた。
「私は、むしろスノゥリィ家の立場でこの危機を乗り越えたいと思っているのだがね。そんなに信用がないかね?」
玉葉は、すっと目を細めた。
「兄様が母上と・・この琺夜を愛していることは疑わないわ。でも、あなたが無私の真心で王家に寄与するとは思っていない。私はアルブリヒト=ユーンよりも、あなたの野望が怖いから」
王妃は何も言わなかった。同感だということか。ならば先程摂政になれと仄めかしたのは、陽動だったのか。
マルヴェは鷹揚に微笑んだ。
「王太子は琅珂だろう。それは弁えているよ。正直に言って不満だし、不安でもあるが、視点を変えれば最適な人選だとも思っている。ユーン卿と同様にね。北ガシュクジュールの陪臣達は、まだ一人もヂェルスベルク公に賛同していない。フロコンドネージュ家出身の王太子を歓迎しているからね。私と違って、王権の正統性は十全だ。玉葉のように、女が軍を指揮できるかと舐められることもない」
「兄様が多弁な時って、大概隠し事してるのよね。・・まあいいわ。ここであなたが王冠を手に入れるにはリスクが大きいのは事実だし。琅が失脚するまで待ってくれると信じておくことにするわ」
「それはどうもありがとう」
マルヴェは肩を竦めた。
末恐ろしい妹だ。頭の良さを鼻にかけてべらべらと喋り過ぎるのが玉に瑕だが、これでもう少しお喋りを控えれば、最高の策士になれるだろう。
それに比べて、黙りこくったままの弟の方は・・
マルヴェが横顔を窺うと、琅珂は実に物騒な気配を纏っていた。敵意に満ちた目で大扉を睨んでいる。
「・・琅、どうかしましたか?」
息子の様子に気付いた王妃が問いかけると、寛いでいた玉葉がさっと身を起こした。
「フルリールと・・ファルツが来てるわ。迎えをやった方がいいわね。フローちゃんが、」
話の途中で、外から物々しい音が聞こえて来た。
「客人を通しなさい!足止めする必要はありません!」
王妃が急いで叫んだが、どうやら手遅れだったようだ。侍女達の叫び声が聞こえた直後、扉が外からぶち破られた。
「フロおぉ〜!!お前という奴はお前という奴は〜!!」
扉の向こうに、長い金髪が踊っている。
肩で息をするフルリールは、すぐに大柄な侍従に殴り倒され、組み伏せられた。遠くで叫んでいるファルツも、こちらはおとなしく羽交い絞めにされているらしい。
「・・お怪我はありませんか、王后陛下」
「ええ。ありがとう」
咄嗟に王妃を守るように飛び出していたマルヴェは、安堵した途端、またしても失神しそうになった。再び気力で持ち直し、壊れた扉の前に歩み寄る。
「何をしておる、馬鹿者!」
雷を落とすと、フルリールは痛そうな顔をした。
「・・・・ダミ声で喚かないでくれないか?頭が痛いんだよ」
「お前はこの、」
更に怒鳴ろうとして、マルヴェは弟の顔が真っ赤になっていることに気がついた。華奢な体を震わせ、はあはあと喘いでいる。
「構いません、青磁。いえ、構わなくはないのですが。風玻と萌芽にも、火急の用があるのでしょう。誰も近づけるなと言った私の責任です」
王妃は椅子に座ったまま、二人を解放するよう命令した。使用人達がしぶしぶといった様子で従うと、ファルツが小走りにやって来て、いきなり膝を着いた。片手で、倒れたままのフルリールの頭を更に床に押し付けながら。
「陛下。これなる暴挙、ご無礼、言い訳しようもない。この愚弟めが・・真に申し訳ない!もしもお許し頂けるなら、此度の修繕費用は当然ながら我らが負担致そうし、賠償もさせて頂く。どうか平にご容赦を!」
捲し立てるファルツに、王妃はにっこりと笑って口を開いた。
「頭を上げて下さい、風玻。扉のことなら、気にすることはありませんよ。ちょうど、建てつけが悪くなっておりましたから。けれど、私の侍女どもには、後で謝ってやって下さいね」
「うるさいな。・・それどころじゃないんだよ」
更に謝罪を繰り返そうとするファルツの手を跳ね除けて、フルリールがよろよろと起き上がった。いつも女装紛いの服装を好む彼には珍しく、まっとうな男物の旅装に身を包んでいる。
その不遜な態度を改めさせねばと思いつつも、マルヴェはフルリールに寄り添って肩を貸した。
病弱なフルリールは、冷たい空気を吸っただけで熱を出す。今も、ぜえぜえと湿った息の音を聞けば、どうやら肺炎を起こしかけていると分かる。無闇に肺活量があるせいか、一度抉らせたら進行が早いのだ。
「ファル、この真冬にどれだけ外に出していた?」
訊ねると、ぐっしょり濡れた作業着のファルツが苛々と首を振った。
「この馬鹿、言っても聞きやしない!街道の外れで雪に埋まっていたんだ。聞けば、メイシャの近くまで飛んで来たんだと。おまけに、意地でも冬眠しない。家にも帰らない。碌に声も出ないくせにやばい呪文を唱える。俺にどうしろと言うんだ!・・ん?兄貴、いつの間に痩せた?・・いや、ニヴァルバラに行くだの琅珂に会うだの言うから、まだましな方に引き摺って来た」
マルヴェは、驚いてフルリールの顔を見た。
「あらあら。これは思わぬ家族会議になっちゃったわねぇ。お子様達とアサギおば様はいないけど」
玉葉が呑気に言って、壁際で不貞腐れている双子の片割れを連れて来た。琅珂は、姉に背中を押されてますます剣呑な目をしているが、逆らおうとはしない。
「・・メイシャの誓約は、かねて王后陛下が守っている。e葵の力が尽きたとて、さしたる問題はない」
琅珂は、さっぱり分からないことを呟いた。互いに顔さえ合わせなかったが、フルリールに言ったのだろう。マルヴェにぐったりと体重を預けるフルリールは、一度大きく頷いた。
「ル・グランとかいう女、知っているな。琳の・・、お前が救った」
荒い息の下から声を絞り出したフルリールは、直後に咳き込んだ。
琅珂は、むぅと眉を顰めた。
「救ったが、それがどうした?もう死んでいるのではないか。事が露見した以上、アルブリヒトがあんな証拠を残してはおくまい」
ヂェルスベルク公に疑いを抱いた時点で、マルヴェは真っ先に女スパイの身柄を確保しようとした。ところが、少女は忽然と姿を消しており、現在に至るまで行方不明だ。
「生きてる・・生きてるんだよ。くそ、何で殺しておかなかった・・」
マルヴェは、はっとした。
「もしや、クレイ・・」
「フェオの奴が!連れて逃げた・・あの女、」
「青磁、萌芽をこちらへ」
王妃が自ら膝掛けを持って来て寝椅子を勧めてくれたが、フルリールは動こうとしない。
「あいつの親父、むきになってる。アルの奴、元々、フェオを勘当、したがってたんだ。フェオも一緒に消そうとしてる・・お前なんかの、せいで、」
「いや、それ半分あんたのせいよ、フローちゃん」
「手前勝手な恨み言よな。負け犬」
琅珂はふんと鼻を鳴らすと、そのまま脇を通り抜けた。勝手に退室しようとしたところを王妃に呼び止められ、一旦立ち止まったが、フルリールが手を伸ばすと、物凄い勢いで叩き落とし、再び歩き出した。
「待てよ・・・・待ってくれよ。頼むから」
マルヴェは、ぎょっとした。
今のは、フルリールが言ったのか。ようやく腰を上げたファルツと、扇で口元を覆う玉葉が同じ表情をしているからには、聞き間違いではなさそうだ。
「フェオは、ニヴァルバラに行った。出たのは、三日前だ。追っ手が場所を突き止めたのが、昨日・・。今からじゃ、翼馬でも、遅過ぎる。でも、お前なら」
「・・・・」
琅珂は、不機嫌顔のまま振り返る。マルヴェの耳に、フルリールの歯が磨り減る音が聞こえた。
「・・・助けてくれ。お願いだ」
哀願、否、悔し泣きか。舞台に立てば数万の人間を魅了する緑柱石の瞳が揺れ、作り物のように滑らかな頬を伝って、涙を落とした。
もっとも、琅珂にしてみれば、フルリールの美しさなど純粋に憎悪の対象でしかない。返す視線は、軽蔑と憤怒。
「貴様が・・誰に、願い事だと?少しは恥を知れ」
「へぇ・・フローちゃんったら、本気なのね。我が一族の男どもときたら、叶わぬ恋に身を焦がすのが運命みたいなものだけど。まさか相手が男とはね。そういうパターンは予想してなかったわ」
玉葉の発言で、場の空気が微妙になる。
「・・・・」
「・・・・」
「友情だろうが・・恋情だろうが、違いはないね」
マルヴェとファルツが顔を見合わせ、聞かなかったことにしようと意見の一致を見た時、当のフルリールが応じてしまった。大真面目に。
「僕にとっての、特別は・・フェオだけだ。グラーヌムの、森を除けば」
マルヴェは、琅珂の表情が変わったことに気がついた。
「おぉ・・そのぶっ飛んだ感覚、流石に芸術家ね。でも、あんまり突き詰めて考えないのは良いことよ。これが恋だとか自覚しちゃったりしたら、あっちの実家に帰れなくなるものね。マルヴェみたいに。天空神の教義では、同性愛とか近親愛って絶対禁忌なんでしょ?マルヴェみたいに手出しもできないヘタレでも」
「・・・・」
マルヴェはファルツと目を合わせ、再び無言で頷いた。
玉葉はふざけた態度を装っているが、琅珂の気を変える為に心を砕いているのだろうか。そう思いたいところだが、フルリールをダシに自分を馬鹿にして喜んでいるだけのような気もしてきた。
「ねえ、琅珂」
王妃は、娘の作り出した居た堪れない雰囲気を華麗に無視して、側にやって来た。
「あなたはお兄様の頼みだから聞きたくないのでしょう。では、母の頼みなら聞いてくれますか?」
「・・ご命令ですか、マダム?」
「あなた次第です」
琅珂は、はっと息を吐き捨て、横柄に腕を組んだ。
「あなた次第です」
母の言葉をそっくり返して、これではまるで言うことを聞かせたければその気にさせてみろと言わんばかりだ。平素なら、この無礼に苦言を呈するところだが、生憎とマルヴェも、今は琅珂の機嫌を損ねるつもりはない。
ところが、王妃はころころと笑ったのだ。
「分かりました」
言って、咳を繰り返すフルリールの額に触れる。
「萌芽。聞いていましたか?琅は、あなたのご友人を助けてもいいそうです。私達次第で」
「・・・・」
フルリールは、荒い息を止め、ごくりと痰を飲み込んだ。その時一緒に、何か別のものも呑み込んだらしい。
「・・・僕は、王位継承権を放棄する」
それは、フルリールにとっては重大な犠牲だった。しかし、そもそもそんなものに価値を見出さない琅珂は、鼻で笑う。
「どの道貴様など、」
王になる見込みもないではないか。嘲笑交じりに続く筈の言葉が、そこで切れた。
「爾後、私はあなたを主とし、」
フルリールが、平伏していた。
父親の次に憎らしい弟の足元に、自慢の金髪が乱れるままに、頭を擦りつけていた。
「あなたを妨げず、あなたに背かず、あなたに従うことを、誓います」
最後の言葉は、血を吐くようだった。
「・・我が君」
「あらぁ・・」
「ふ・・フロー・・」
玉葉でさえ、茶々を入れなかった。この弟のことを一番良く知っているファルツは、感動したのか驚いたのか、気が動転して泣いている。
「・・どうですか、琅」
左右色違いの瞳を見開いて呆然としていた琅珂は、母に呼ばれてぎこちなく首を回した。
「お兄様は、流石に年長者ですね。先に折れて下さいましたよ。次は、あなたが度量を示す番ではありませんか?」
「まぁ、母上に乗せられたのは癪だろうけど、敵にここまでさせて何もしないってのは、男じゃないわよね」
「・・・・」
マルヴェは、静かに嘆息した。まったく、見事なお手並みだ。この母子には脱帽する他ない。
「・・天狼を連れて参ります」
さしもの琅珂も、己の負けを受け入れたらしい。相変わらず暗い目でそう言った。
「琅珂」
血の混じった痰を吐き出したフルリールは、
「ありがとう」
またしても、らしくないことを言った。その言葉とは裏腹に、呪い殺すような目をしているが。
「礼は、先に言っておく。・・不首尾は、絶対に許さない。フェオが帰らなかったら、殺してやる。僕が死のうが、何が壊れようが、絶対に絶対に殺してやる」
「は・・」
その呪詛が、嬉しかったとでもいうのか。小さな破壊魔の表情が唐突に晴れ渡った。
それは、強者だけに許された笑顔。
どこまでも傲岸で不遜、どこまでも超然として、遥かな高みから数多の敗者を見下す肉食獣の笑み。
「無様に吼えておれ、負け犬が」
琅珂が旅立ち、ファルツがフルリールを背負って去った後、マルヴェは王妃の元を辞し、玉葉と一緒に風の吹きつける巡視路を歩いた。
中庭に並ぶのは、玉葉が集めた空騎兵達。輪になって空を舞うのは、滑稽な鳴き声を上げる翼馬達。
「で、事は計画通りに運んでいるのかね?」
玉葉は扇を口に当て、可愛らしく肩を竦めた。
「これは私達の脚本じゃないわ。ユーン家を崩壊させて、ついでに琅とフローちゃんも巻き込んで殺し合いの舞台を仕立てようとしてたのは、全部父上のお遊びよ。母上は、ただシナリオを手直しして、結末を逆にしただけ」
マルヴェは、ふぅと溜め息をついた。
「和解とは程遠いが・・当座はこれで十分だろう。全く、手間のかかるガキどもよ。琅珂もフルリールも、絶対に自分から折れないと思っていたが」
「フローちゃんの愛が、あそこまで深いとは思わなかったわね。もっと早く、冷静な内に私の方に泣きついてくると思ってた。それに、これは完全に想定外だけど、たまたま琅の奴が気落ちしてたから口車に乗せられたの。でも、ここからは運任せ。と言うより琅次第ね。間に合うかしら?クレイ・フェオが死んでいれば、琅とフローちゃんの和解は反故。どころか結末の分かりきった最終決戦。メルセデスやアキラを引き込むことも難しくなる・・兄様ちょっといい?」
強請られるまま、妹を抱き上げて肩に乗せる。
「なるほど。リアノ公はそちらを説得に。てっきり父上の方かと」
玉葉が中庭に手を振ると、兵士達が歓呼で応えた。
王妃万歳。王女万歳。琺夜万歳。アガンテーヌ万歳。
まだ雪も溶けない時期に律儀に召集に応えてくれるとは、流石にアガンテーヌ人の公家に対する忠誠心は篤い。このシェオ・フローリィで国王万歳と言わないのは、いかにもフロコンドネージュ家のみに忠勤を尽くすアガンテーヌ人だ。
「幸い、グラジオはまだ知らない。私はクレイ・ジールと話をしてみたけど・・ヂェルスベルク公がクレイ・フェオを殺そうとするかもしれないって匂わせただけで、かなりの好感触を得られたの。アルブリヒトは野心家だけど、苦労を知らないお坊ちゃんよ。琺夜の王位を手に入れるのが当たり前だと思ってるみたいに、子供達が自分に従うなんて当然のことだと思ってる。我らが父上みたいに、子供達を相争わせて団結を未然に防ぐような狡猾さもなし」
マルヴェは苦笑した。
フルリールが、屈辱を耐え忍んでも琅珂の方がましだと判断した気持ちが、良く分かる。この妹には絶対に借りを作りたくない。大事な親友が何に利用されるか知れたものではない、こんな状況では特に。
「私の仕事はないようだな」
「兄様は外堀を埋めてくれたわ。面倒な下準備、全部やらせてごめんなさい。粘り腰の交渉って、私苦手なのよ。でも、そろそろ休んで頂戴。ここから先は軍人の仕事よ」
マルヴェは兵士達を見下ろした。数は千人に満たないが、全員が翼馬の騎士。よくぞこの短期間で集めたものだ。
「順調に運べば、内戦は回避できるか。・・しかし葉、琅珂は大丈夫なのかね?お前はどうして自ら王位に就こうとしないのだ?」
玉葉は、くすくすと微笑んだ。
「仕返しのつもり?私は兵士達の支持を得られない。女だから。あなたがそう言ったのよ」
「言ったが、お前には何と言うこともない障害だろう。この光景は何だ?琅珂は・・あれは問題だよ。人助けなど、本当にできるのか?王として以前に、人として危な過ぎる。フルリールも似たようなものだが、あの子はフローと違って、力ずくが効かん。誰にも叱って貰えんのだ。矯正される見込みがない」
玉葉は、少しだけ悲しそうな溜め息をついた。
「・・そうでもないわ。琅も、霓葩様やエパノスの言うことは割とおとなしく聞くのよ。そのエパノスが、一昨日琺夜を出ちゃったけど」
「駄目ではないか」
マルヴェも、その少年の動向は部下からの報告で知っていた。確か、薬草採取と地質調査の旅に出るという話だったか。ファルツみたいな奴だと思ったせいで、はっきりと覚えている。
「エバノスも、自分が琅に過保護なのを自覚してるのよ」
玉葉の声が、何だか・・色っぽくなった。ちらと目を上げると、頬が染まっているように見える。
「すごく・・いい奴なの。琅が無差別殺人鬼だろうと化物だろうと、変わらない友情を示してくれるの。でも、琅があのまま王になって琺夜をぶち壊すことだけは許せないんですって。・・本当、ああいう男の子って、健気で可愛いわよね。・・可愛いんだけど、フローちゃんみたいにならないか心配だわ。男同士でつるんでばかりいないで、私のことも見てくれたらいいのに・・」
気のせいだろうか。話が妖しく・・じゃない怪しくなってきた。
「・・葉、アッシュダーク家は元々セルジリア側の貴族家だ。王后陛下が許すと思うかね?」
「兄様、何言ってるの?寝惚けてるんじゃないの?」
「・・・・」
「何の話をしてたかしら?ああ、そうそう。琅の奴、大事な友達二人ともにそっぽを向かれちゃったし、父上なんかに仕事をとられちゃったから、笑えるほど腑抜けになってるの」
笑えるほど腑抜けになった子供というのは、出会い頭に実の兄を殺そうとするのだろうか。まあ、琅珂の感情分析に関しては、玉葉の言うことに間違いはないのだろう。
玉葉は、楽しそうに、実に楽しそうにくすくす笑った。
マルヴェは、肩に食い込む細い太腿の感触を、「なんだかなぁ」と思いつつ受け止める。
この小さな悪女は、手の上で男達を転げ回すのが楽しくて仕方ないらしい。この娘も、もう少しどうにかならないものか。双子の弟より社会性が高い分、ある意味性質が悪い。
「だから、今だけは誰かの力になろうとするわ。あいつ、壊すだけが取り得の男じゃないって、霓葩様に見せつけたくて堪らないんだから」
腹黒バトル第三戦、女性陣の圧倒的勝利。
長っ!なんて読み難い文章。人は動かず理屈ばっかり。
玉葉ちゃんが腐女子になってしまった。おかしい。こんな筈では・・