第5節.苦労性の隣人
風月8日<スミレの日>深夜。あるいは9日<サルヤナギの日>早朝。
ニヴァルバラ唯一の町ル・フォワイエに向けて、三頭の翼馬が北風を蹴っている。
先頭の雄々しい粕毛にはランタンを下げたアントニア=ヴィース、中央の優美な白黒班毛にはクロディーヌ・ル・グランとクレイ・フェオ=ユーン、殿の小柄な黒鹿毛にはアルノー=ブティエをそれぞれ乗せて。
セルズ風にNivalburgh、北ガシュクジュール風にNivabourg、クリシュエール人にBaile Átha sneachta、トウカ民族に北雪堆と呼ばれるこの地域は、琺夜支配圏の中でも一番の僻地である。この時期は、見渡す限り雪山しかない。春になっても、森林限界ぎりぎりの山肌を跳ね回るのは、乏しい葉や苔を求めるアイベックスか、野山羊を丸ごと攫おうと構える巨大な雲母大鷲ぐらいのもの。町に向かう街道を除けば、ほとんど猟師しか寄り付かない。
それでも、ここは琺夜にとって無視できない土地である。
すぐ北にはクリシュエール三国の一つグリニカ共和国、南西には黒蓮語に似た言葉を話すトウカ民族の自治区。そして西側にはセルジリア帝国との国境――フィディック山脈の峻険な岩壁がそそり立っている。
こんな地理的条件のせいで、ニヴァルバラには大昔から軍駐屯地が置かれ、今では拡張された城塞の中が、町と言うよりは市になっている。この防備集落ル・フォワイエに暮らす住人達の役割は、隣人から攻め込まれた時に、すぐさま東隣のアガンテーヌ公領に逃げて危機を報せることだ。
公領とは言いながら、事実上は王領地であり、琺夜本国から派遣された城代が市政を運営している。時代によっては、王族がニヴァルバラ公に任じられることもあるが、彼らがわざわざこんな辺境に足を運ぶことはない。
蕎麦や林檎の他には収穫もない痩せた土地で生きていくのは大変だが、ここの住人達には特権も認められている。領主に対し、対人課税と人頭税を払わなくても良いのだ。故に、役人達が居住人口や土地台帳を真面目に管理することがなく、また、商人や旅人の出入りも多い為、余所者が目立ったり敬遠されたりすることがない。そんな土地柄なので、琺夜、もしくは隣国の司法当局から逃れて来た犯罪者やごろつきも大勢住み着いている。
琺夜の軍人にとって、ニヴァルバラに派遣されるほど辛いことはあまりない。戦友の死だとか、体の一部を失くして生きて戻ることを別にすれば。
敵など来る筈もない高地で、毎日碌な糧食も与えられず、退屈な警備に就いていれば、冬には凍傷で足の先がもげるのが日常茶飯事、夏には雪解けの泥濘に浸かりっぱなしで足に黴が生えるのが当たり前、万が一面目躍如の機会なぞあろうものなら、時間稼ぎの捨て駒扱い。大軍がやって来たら初めから全滅は必定――などという話を聞けば、勇気凛々の新兵だろうが百戦錬磨の老兵だろうが、怖気づくというものだ。
(そんな場所に、好き好んで来ちまったか)
クレイは目を瞬いて、右手がしっかり手綱を握っていることを確認した。
冬の真夜中に、凍りついた崖と崖とに挟まれた細い谷――むしろ割れ目――の中を通るのは、いくら翼馬でも自殺行為に近い。前から吹き付ける風は、雪を巻き込んで悲鳴のような甲高い声を上げる。先頭を行く騎馬の灯りを追いかけていると、両側の岩壁が幽霊になって襲ってくるような気さえする。
馬具を着けられることを殊更嫌う翼馬達も、今日はおとなしく胴体に毛皮の服を被り、背中に鞍を乗せてくれている。騎手の方も、厚着した上にしっかりと毛織りのマントを巻きつけているが、震えが止まらない。
「ちっ、鼻から氷柱が生えてら。くそ、美男子が台無しだ」
「・・・・ぃ」
鞍の前に座るクロディーヌは、細腰に回した左腕にしっかりとしがみついてくれている。最初はお互い遠慮があったが、北に進むにつれて、それどころではなくなってきた。こうして肌を寄せ合っていれば、少しは暖かい。
(アスィエのオヤジが、雪山を飛んでると女と寝てるみたいな気分になるとか言ってたが、)
軍隊生活にありがちな下世話な法螺話を思い出して、クレイはぞっとした。
寒さで頭がぼーっとして、気持ちが良くなってしまったら、後は夢見心地のまま崖下の尖った岩にキスしているという寸法だ。
「笑えねぇ」
「・・ごめんなさい」
「あん?」
少女に謝罪されたクレイは、まず左手の位置を確めた。
ごつい手袋を着けている上に冷え切ってほとんど感覚のない手だが、勝手に己の制御を離れて少女の体を撫で回すような不届きは見受けられない。すると今のは、「ごめんなさい、そんな気ないの。触らないで」という下手の抗議ではなかったということになる。
「なあ、だから止めてくれないか?俺が何か言う度、脈絡もなく謝るなよ」
「ごめんなさい」
「・・、今のは脈絡あるな」
「ごめんなさい。私は、悪い女なんです。ここまでして頂くことはないんです」
「別に、あんたの感謝は求めちゃいねぇよ。俺の身勝手だ。・・ああ、前と後ろの奴らにゃ世話かけてるが、それも俺の借りだ。後で一杯奢っとくさ」
「違うんです。私の甘えなんです。私なんか、もうどうにもならないと分かってたのに・・あんな、優しくされたことがなかったから、私・・」
耳の高さまで巻きつけたマントの中で、クレイは小さく舌を打った。
国王のお遊びで殺されかけていたクロディーヌを助けようとしてから――結局は王太子の気紛れに救われたが――、クレイは一度も彼女の笑顔を見ていない。
いかにも諜者らしく、特徴らしい特徴のない少女。琺夜族らしく小柄で痩せていて、小間使いのドレスとやや時代遅れの網髪が良く似合う。茶色の髪と翠の目で、不器量ではない。王族の側仕えをして恥ずかしくない容姿だが、目に留まるほどの美人でもない。目立たないが、清楚な雰囲気に惹きつけられる男はいるだろう。
(笑ったら、可愛いだろうに)
シェオ・フローリィの中庭で嬲り者にされていた時からずっと、クロディーヌは沈んだままだ。せっかく王太子の恩赦で自由の身になったと言うのに、顔から死相が消えていない。
クレイは、女が殺されるのが耐えられない。女性兵士など、大嫌いだ。存在するべきでないとすら思っている。
女に限らず仲間や知人が死ぬのは辛いことだが、男とは元々戦う為に生まれてきた生物だとクレイは信じている。だから、体を鍛え、武器を取る。戦士である以上は殺すし、いずれ負ければ殺される。そういうものだと理屈の上では割り切っている。
だが、女は違う。守り、生み、育む生物だ。訓練して護身の術を身につけることまで否定しはしないが、女にそんなことをさせるのも、そもそもは男の不甲斐なさが原因だ。まして、“母”という慈愛の化身にさえなれる生物を、男の論理に巻き込んで時至らぬ内に死なせることは、絶対に許されない。
華の騎士道は、弱き者、女子供を守ることが美徳だと説く。実社会では、男女問わず国民全てが戦争に従事し、弱い者から死んで行く。
国は、軍隊では純粋に個人の素質のみが評価され、誰にでも平等に社会参画の機会が与えられていると言うが、所詮暴力の世界で勝ち残るのは男だ。中でも、将軍や連隊長にまで出世する者のほとんどは、政界にコネを持つ公家や伯家の出身者と来ている。
結局のところ、世の中は多くを持つ者、強い者が栄えるようにできているのだ。持たざる者、弱い者は、いつも無視され、奪われるばかりで、社会の底辺で泣いているしかない。己を支えてくれる弱者を守るという義務さえ果たさない強者ばかりが、偉そうに踏ん反り返って弱肉強食を説く。こんな現状を良しとする国には、まともな正義も未来もありはしない。
理想と現実が乖離した琺夜で、紛れもなく“強者”に属する十八歳のクレイ・フェオ=ユーンは、そんな風に世を斜に見て生きているのだった。
「おーい、クレイさん!前を見てるかーい!?」
風に乗って、前から太い声が聞こえて来る。
知らず岩肌に近づき過ぎていたらしい。翼馬の速歩で卸し金のような崖にぶつかってしまったら、あっという間にマントも肉も摩り下ろされてしまうだろう。
クレイは手綱を引き直し、前を行く友に向かって親指を立てて見せた。
「おーし!たらたらいちゃついてんじゃねーぞ!このスケコマシが!」
肺がやられそうな空気の中で、よくもあれだけ大声が出せるものだ。
クレイは感心しながら、前を行く頼もしい騎影を追った。
一の部下、アントニア=ヴィースは、「女は守るべき存在」というクレイの信念を真っ向から否定するような女だ。実際、中隊のメンバーを集めていた時に「女兵士お断り」と言ったら、顔面に惚れ惚れするような右ストレートをくれたことがある。即採用したことは言うまでもない。
琺夜族としては大柄なクレイより拳一つ分背が低いが、肩幅はより広い。二十歳にして、全身の筋肉は荒縄のように締まっていて、太腿ときたらクロディーヌの腰よりも太い。額は頭突き用に誂えたように出っ張っていて、鼻は喧嘩乱闘の末に丸くひしゃげている。逞しい両腕は、だらんと垂らせば指が膝に届くほど長く、前屈みになると『南』に生息するというゴリラそのものだ。そう言ってやれば、本人は誇らしげに胸を張る。今のところ、クレイと素手で殴り合える唯一の女兵士だが、ほとんど唯一の兵士と言っても良い。女でありながら、戦う為だけに生まれてきたような奴だ。
己の信念に疑いを持たないクレイも、アントニアだけは人類の枠から外れた例外だと思っている。いつもわざわざ歩兵隊に入隊したがる少女に言うように、「危ないから衛生隊に行け」などと言う気はないし、いつか彼女が背中で討ち死にしたとしても、笑い泣きで「見事」と言ってやれるだろう。
「隊長」
クレイは、つい頭を屈めた。
ずっと後方にいたアルノー=ブティエの騎馬が、ステファノスの上を飛び越える。追い越してからこちらに赤い目を向けたアルノーは、後ろに向かって指を差し、それからまず指を一本立て、次に二本立てた。
「後方に12人」
抑えた声で言ったアルノーは、そのまま前のアントニアに追い着き、そして灯りが消えた。
真の暗闇が訪れるかと思いきや、崖に切り取られた上空には例のゆらゆらした光があり、吹き込んで来る雪を幻想的に照らしてくれる。何とか、前に進めそうだ。暗い中で親指を立てると、今度は列を入れ替え、アントニアの乗る大きな翼馬の影が頭の上を後ろに過ぎて行った。
「・・1ダース。この時期に、商人ってこたぁねぇな。おいでなすったか」
クレイが呟くと、クロディーヌはわっと泣き出した。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい!・・私・・もっと早く死ぬべきだったんです」
「・・・・」
「ここで、落として下さって結構です。沢山の人を死なせたのに、あなた達まで」
「うるせえよ」
寒さに震えながらすすり泣くクロディーヌを、クレイは一喝して黙らせた。
「アントニアならいざ知らず、あんたみたいなのを放っとけるか。助けてくれって声で、捨てて行けとか言うんじゃねぇ。あ?死ぬべきだった?過去形じゃねぇか。どっちにしろ手遅れなんだ。過ぎたことをぐだぐだ言うんじゃねぇ」
クロディーヌは、「ごめんなさい」を繰り返した。
彼女の過去は、既にある程度聞き知っている。
「とある方」から、王子を見張り、隙あらば暗殺するように命令されていたこと。
偶然、別の主人に仕える男が同じ目的でいることを知り、協力して暗殺計画を実行に移したこと。
その際、「とある方」にとって政敵となるかもしれない少年に、深い考えもなく王子殺しの罪を擦りつけようとしたこと。
計画が失敗し、協力者が殺されると、今度は自分に気がある使用人仲間を騙して庇って貰ったこと。その男も殺されてしまったのに、自分だけは醜く生き延びようとしたこと。
「とある方」の命令で、家族に手紙を書いたこと。その手紙で、「私は無実だ」と嘘をついたこと。
王太子から赦された後、突然「とある方」に殺されるに違いないと気がついて、差し出された手に甘えてしまったこと。
「ああ、あんたは悪人だろう。だが、真っ当になりかけてるじゃねぇか」
クレイは優しい声を出した。
「思いの外関係ない人間を巻き込んだ。怖い目にも遭った。今じゃ罪の意識も感じてる。できれば俺達まで巻き込みたくないってのも、半分は本当だろう」
ぴた、と謝罪が止んだ。
面白いぐらい予想通りの反応に、クレイは口元だけで苦笑する。
「俺は別に、あんたが欲しい訳でもなけりゃ、可哀相だと思ってる訳でもねぇ。ただ、あんたを使った奴と、純朴なガキの心を踏み躙った奴が許せねぇだけだ」
クロディーヌの震えが、酷くなった。
クレイは、万が一にも気紛れな風が声を後ろに運ばないよう、クロディーヌの右耳に唇を近づけた。
「だから、今更善良ぶるな。そこまでやっといて、薄倖ぶってんじゃねぇ。カマトトやんなくたって、見捨てねぇから安心しろ」
「・・・・」
少女の口が閉じられると、風の音が良く聞こえた。
体に吹き付ける風が緩やかになり、谷の幅が広くなってきたことが分かる。マントから首が出ないように顔を少し上に向けると、空には相変わらず虹色のオーロラが揺蕩い、星が流れている。
「なぁ、上見ろよ。ちょいと不気味だが、綺麗だぜ」
不吉の前触れか、お星さんが卵みたいに割れちまったのか、天上の神々が痴話喧嘩でもしてやがるのかね。などと、おどけて呟いたクレイだが、まさかどれもがある意味正解に近いとは夢にも思わず、すぐに余所見を中断した。
この場所で敵に遭遇するのは不利だ。できれば一人ずつ迎え撃てるような、もっと狭い場所がいい。上の方で幅が狭まっていれば、更にいい。
アントニアに代わって先導役になったアルノーが、クレイとアントニアの目印になるよう、ちょっとこちらを振り向いた。闇の中で赤い光がちらと瞬き、また見えなくなる。
アルノー=ブティエは、クレイと同じく貴族階級のはみ出し者だ。
彼の出身地ソルベーニュ伯領の民は、アガンテーヌ人以上に琺夜族の民族性を重んじていて、伯家ブティエ家の人間ときたら、「どれだけ他民族の血に汚れていないか」を基準に結婚相手を選別する程だ。積極的に外国人と交流し、婚姻関係を結ぶことで力を得たヂェルスベルク公家ユーン家とは犬猿の仲である。
実家の息苦しさに嫌気が差して家出したアルノーも、国王やスノゥリィ‐フロコンドネージュ一族に比肩するぐらいに琺夜族の血が濃い。黒髪、暗闇で赤く光る大きな翠の瞳、白い肌、今の時代には小柄どころか矮躯と笑われる程の低身長。極めつけは、十六歳にもなって丸っこい頬から赤みが消えない。常々少女と間違えられたり男色家の同僚に追い回されたりしているらしいが、音もなく敵に忍び寄り、豹のように喰らいつく苛烈さも、やはり琺夜族そのものだ。
こんな状況では、彼のすばしっこさと熱視覚が一番の頼みになる。あの赤い目が見出した道について行けば、間違いはない。
「・・・にさまのつもり」
クロディーヌの呟き。心なしか、左腕にかかる力が強くなった。爪を立てられているのだろうか。
「あなた・・あんたこそ・・何?正義の味方でも気取ってんの?恵まれた人が偉そうに・・虫唾が走るんだけど」
クレイは破顔した。
「やっと地が出たな。ああ、それがいい。素直で気が強い女は好みだ」
「うるさいっ!」
クロディーヌは、クレイの腕を振り解こうとした。だが、下を見てしまったのか、また縋りつくような格好になる。
「・・放して欲しかったら言え。鞍と腰は紐で結んであるから、落ちやしない。嫌がる女に触る趣味はないんでね」
クロディーヌは、そろそろと顔を上げた。
「・・・あんた、相当遊び人?」
「来る女を拒む趣味もない。が、遊んじゃいねぇよ。俺はその度真剣だ。祖母さんの教えでね。『東』には“据え膳食わぬは男の恥”とかいう教訓があるそうだ」
「わかんないけど・・もてるんだ。やっぱり」
「否定はしねぇ。振られるのも早いけどな。デリカシーがないって良く言われるよ」
「ふぅん・・それっぽい」
「ひでぇな」
クロディーヌは、毒気が抜けてしまったらしい。翼馬の鬣にぽすっと頭を預け、それから顔を上げて、空に踊る紗を見つめる。
クレイは上からそんなクロディーヌの顔を見ていたが、嬉しいことに、ちょっと笑ったように見えた。
クレイの哲学によれば、女の笑顔は戦士にとって最高の戦利品だ。何しろ、世の男どもはその笑顔を見たいが為に、馬鹿馬鹿しくも血を流すのだから。
今や、人の社会は複雑で、戦争はもっともらしい大義を掲げて始まるものだが、戦士に死さえ忘れさせる根本の原動力は、太古の昔と変わらない。あの娘を射止めたいから、我が妻、我が子を守りたいから、愛する者の幸せこそを守りたいから。限りなく陳腐で、身勝手な動機でこそ、男は戦うのだ。
その目的を失くしてしまったら、戦う理由を忘れてしまったら、男は男でいられなくなる。守るべきものを持たない戦士は、ただの破壊者に成り下がる。誰からも愛されず、存在そのものを疎まれるようになる。
「あんたのご主人様って、俺の親父だろ?」
「・・・・」
一瞬にして痛そうな角度に首を回したクロディーヌは、驚いた顔をしていた。
「・・・ごめんなさい」
「ん?今度は何のごめんなさいだ?・・分かったぞ。俺があれだけ言われても気付かねぇよーな鈍感でお人好しの大馬鹿だと思ってたんだろ?『西』と『中央』の色んな言葉が全部ちょっとずつ混ざったみたいな妙なアクセントのスノゥリェンヌ語を喋るのは、国際派気取って節操のねぇヂェルスベルクの人間だけだ」
「・・やっぱり、同郷人には御里が知れるわね。お坊ちゃま」
「あんたのクロディーヌ・ル・グランなんて名前は、ここいら北部でも通用しそうだけどな。ニヴァブール人はクリシュエール訛りだっけか?アガンテーヌ人やソルベーニュ人に呼ばせりゃ、綺麗だろうよ」
アルノーが、またこちらを振り返る。
赤外線こそ見えないがそれなりに夜目の利くアントニアが、手信号を送ったらしい。アルノーの赤い目が複雑な瞬きを始め、最後にちらと上を向いた。『頭上に注意しながら駈歩』の合図だ。
「・・了解」
クレイは翼馬の首を軽く撫でた。ちらちらと瞬く赤い光を見逃さないよう、高度を下げながらついて行く。
「え?ちょっと・・」
「悪ぃ。掴まってろ」
言って、翼馬の腹を軽く蹴る。
速度が上がると、クロディーヌはひっと喉を鳴らしたきり、喋らなくなった。
アルノーは、間もなく後ろを見なくなった。闇の中、雪明りと翼馬の吐く息の音だけを頼りに岩棚を潜り抜け、後を追う。
両脇から闇が迫ってきた。
今にもぶつかりそうな狭い場所を抜けると、クロディーヌが小さな悲鳴を上げる。と、体に強い振動を受けた。翼馬の蹄が直に大地に着いたのだ。
前を見れば、低い位置に赤い光点が二つ明滅している。『下馬して合流』。
緩やかに翼馬を止めたクレイは、先に鞍から滑り降りた。谷底には新雪が積もっていて、踝までが埋まる。
クロディーヌを手伝って下ろした途端、ステファノスが鳥の姿になり、くきゃ〜と珍奇な鳴き声を上げて懐に飛びついてくる。氷の塊のように冷え切った相棒をマントの下に押し込み、そのまま脱ぎ捨てられた馬具と荷物の類を雪に埋めていると、アントニアが悪態をつきながら追い着いた。
「連中、見えたか?」
アントニアはにやっと笑った。
「ドラゴンさ」
クレイは笑って肩を竦めた。
琺夜では翼馬を駆る空騎兵のことを、洒落た言い方で“竜騎兵”と呼ぶ。そいつらがユーン家の紋章“赤竜”を背負っているなら、それはまさにドラゴンだ。
「何言ってんだ背高。俺はドラゴンなんか見えなかったぞ。トカゲみたいな奴らだろ?」
小さなアルノーが懸命に雪を分けながら近づいて来ると、アントニアが笑い声を上げた。
「おお、よく頑張ったな!ちび姫ちゃん」
「それやめろって言ってるだろ!女性形にするんじゃねぇ!」
「小さくてちびなのは認めるんだな?くく・・めんこいなぁ、アルノーちゃん♪」
「くああ!てめぇ、十年後覚えてろよ!ああ隊長、奴らまだ気付いてませんが、仕留めるならここで待ち伏せた方がいいでしょう。ル・フォワイエまで逃げ切れないことはないですが、市内に潜伏されたら手間ですし」
クレイは頭の上に見える夜空が糸のように細いことと、人が三人並ぶのがやっとという谷の幅を確認して、大きく頷いた。
「クロディーヌを隠せる場所はあるか?」
「さっき見つけました。ここからなら、人の足で町まで歩いて行けないことはないですし」
「よし。じゃあアントニア、火を点けろ」
「・・奇襲をかけないんですか?敵の中にも赤い目の奴がいたから、あんた方にゃ不利だろうけど。あんたらも隠れてくれりゃ、後ろの奴から順番に喉笛掻っ切って来ますよ」
「ちびちゃんよ、獲物を横取りしようったってそうはいかねぇぞ」
「意味ねぇ!俺の努力意味ねぇ!何の為に慎重になってたんだよ!?・・ああもう、筋肉馬鹿どもはこれだから」
ランタンの灯りが点ると、クレイはほっとして小脇に抱えた少女に微笑みかけた。ところが、クロディーヌは雪と同じぐらい青白い顔をしている。
「ほら、こいつを持っていろ。一人になっちまったら、そいつを持って町まで行け。酒場でアルノーの名前を出せば、助けてくれる奴らがいる。こいつ、こう見えても北じゃ顔が広いんだ」
腰に括りつけていた財布を外して渡すと、クロディーヌはぶんぶんと首を振った。
「おいおい泣くんじゃねぇよ。万が一ってやつさ。奴らを片付けたら、迎えに行くからよ。褒美に口づけ一つ、なんて言いやしないから、まぁ安心して隠れてな」
アルノーが、恨めしそうな顔でクロディーヌを連れて行く。クレイが笑顔で手を振っていると、後ろから頭を殴られた。
「ほんっと、クレイさんよぉ。あんた、隙さえありゃ女口説いてるな。それだけあからさまに下心で動いてる男に、ほいほい引っかかる女も女だけどよ」
クレイはこきっと首を鳴らした。
「なぁアントニア。お前にゃ分からんだろうが、女の為に命張るのは男の浪漫だぞ。下心は否定しやしないが、それはそれ、これはこれ。別物だ」
「分かんねぇよ、スケベ野郎。お?トカゲどもが気付いたみたいだぜ。火でも炊いて待ってるか?」
「雪しかないぜ。何燃やすんだよ?」
「奴らの尻尾が焼いて食えたらいいんだが。腹減ったな」
クレイとアントニアは火が点いたままのランタンを置き、腕を組んで待ち構えた。
二人ながら長躯を誇り、それが両の岩壁に長い影をつくれば、さながら大口を開けた怪物のように見える筈だ。
案の定、空騎兵の集団はいきなり剣を抜くこともなく、二人の前で静止した。
「・・・・。ヂェルスベルク公爵のご子息、クレイ・フェオ=ユーン殿とお見受け致す」
フード付のマントですっぽり顔を覆った男は、確かにヂェルスベルク風のアクセントで話しかけてきた。流石にでかでかと紋章を描いた旗を持っていたりはしないが、赤竜の手先であることは間違いない。
「どっちが?」
アントニアが尋ねたが、集団は軽く無視をする。
「お父上より、お達しです。そちらの隠匿なされたル・グランなる罪人を引き渡されよ」
「え?あたしのこと?」
アントニアは、再び無視された。前列の一人が赤い目を見開いて固まったのは、捜索対象と性別だけは一致していると気付いたせいだろうか。
クレイは生地の厚いマントを顎の下まで引き下ろした。
「罪人・・ねぇ。あの子は王太子殿下から正式な恩赦を頂いた筈だぜ。親父はまた領事裁判権がどーのとごねてるんだろうが、事が王領内で起きた事件なんだから出る幕じゃねぇだろ。国王法廷の判例からしても出しゃばるのは筋違い、」
クレイはさっと片足を上げた。雪に矢が突き立っている。
「あなたと議論するつもりはない。引き渡す気があるのか、ないのか」
敵は、最後通牒のつもりだったのだろう。低く脅す声は堂に入ったものだが、それも脅す相手による。
「うお、なんて奴だ!この俺が珍しく法律書なんぞ紐解いて理論武装してたってのに、不戦勝に持ち込もうたぁ、なんつーふてぇ野郎だ!」
「似合わねぇことしてんじゃねえよクレイさん。あんたの武器は端からこれだろうが!」
アントニアは、いきなり飛び出した。
足場の悪い地面から有り得ない跳躍をして、偉そうな馬上の男に向かって拳を振り抜く。
「ごげっ!」
殴られた時点で既に頬骨が陥没していた男は、そのまま頭から岩壁に激突し、落ちて動かなくなった。
「これを宣戦布告と心得る!」
すぐ後ろにいた別の男が叫んで、アントニアに長槍を突き出す。
「うるせえよ!」
戦う前に名乗りもしねぇ、薄汚え暗殺者が!吠えるまま、槍を奪い取ってぼきりと折る。二人目の男も、すぐに一人目と同じ運命を辿った。
「あ、俺も名乗ってねぇや。・・別にいいか」
「おいおい・・勝手に始めるんじゃねぇよ」
先を越された悔しさにそんなことを言いつつも、クレイは短剣を抜いて構えた。
アントニアに追い着こうと一歩踏み出したが、ふと背後が気になって踵を返す。
「げ」
見れば、前から別の空騎兵の集団が近づいて来ていた。完全な挟み撃ちだ。
「前方に13人・・おいおいおい。アントニア!敵が倍に増えたぞ!」
「そいつぁいい!山分けだな!」
クレイは苦笑して、アントニアと背中合わせになった。
今度こそは先制してやろうと、こういう狭い場所では使い勝手の悪い剣を抜く。最前列の敵に向かって投げつけると、剣は狙い通り、敵の額に吸い込まれるように飛んで行った。
だが、その剣が届いたと思った瞬間、クレイはアントニアの腰に抱きつくようにして横に飛んだ。
途端、上方の岩壁がぞりっと剥がれ落ち、寸前の立ち位置に突き刺さる。
「背高!隊長!」
戻って来たアルノーの叫び声も、轟音に掻き消された。
ランタンが潰れ、闇の中に雪煙が巻き上がる。
「・・・一人、何だ?魔法使いか?やばいのがいるな」
「ああ・・まさか俺まであんたに押し倒される日が来るたぁ、思いもしなかったよ。おお、いてて」
アントニアがいつもの調子で返す。クレイは胸を撫で下ろすと、厳しい目で頭上を睨んだ。
不幸中の幸いか、今は雪煙が隠れ蓑になってくれている。だが、これが収まれば、熱視覚を持った敵が襲って来るだろう。状況は、芳しくない。相当やばい。
アントニアがぺっと唾を吐く音がした。
「魔法使いだか超能力者だか知らねぇが、そりゃねえだろ。反則だよな」
「ビビったか、アニー?」
笑いを混ぜて問いながら、クレイは首を捻った。
父がクロディーヌを殺そうとするのは分かる。ほとんど勘当同然の、常々「ユーン家の恥」呼ばわりしている息子のこともついでに始末しようというのも分からないではない。だが、ここまで手間をかけることではないだろう。最初の12人だけでも数が多過ぎると思ったぐらいだが、倍の人数に加えて、あんなとんでもない奴まで引っ張り出して来るとは、ちょっと徹底し過ぎている。まるで余裕がない。
「俺はちびちゃんが心配だよ。あいつ一人であの人数は、ちぃっときつい」
クレイの思考は、そこで吹き飛んだ。
その時空気を裂いたのは、紛れもなくアルノーの悲鳴だったのだ。
「アルノー!無事か!?生きてる・・か?」
敵に見つかる危険も忘れて叫んでから、クレイは妙なことに気がついた。
最初は、子供のように甲高いアルノーの声だけが耳についたが、他の連中も何やら野太い声で叫んでいる。とすると、一体何があったと言うのか。
「あぁああああ、しぇ、隊長・・、ドラゴン・・東南、上空にドラゴン!ドラゴン・ブラン!」
「・・何だと?」
クレイは、ますます訳が分からなくなった。ここで別の装甲竜騎兵、しかも敵の反応からして第三勢力、おそらく大軍が現れるとは、一体どういうことだろう。
それにしても、アルノーの怯え方が尋常ではないのが気にかかる。あいつは、体格に反してかなり肝が太い奴なんだが・・
色々と思案しながら雪煙が晴れるのを待っていたクレイだが、結局のところ、
「おーいおいおいおい・・・・そりゃあ、ねぇだろ・・」
ぽかんと口を開けて、空を見上げることになった。
オーロラを横切って、狭い谷の上を飛ぶのは、間違いなく巨大な白い飛竜だった。
馬をも一呑みにできそうな巨体に、雲のような翼。
雪そのもののように白く、月のように淡い色に輝くそれの頭には、
「・・大義であったな、ヒュルソーン」
何やら、黒くて小さな人影が座っていた。
すみません。腹黒一族出て来ません。最後にちょびっとしか。一応、王家の外から見た琺夜ってことで。
アルノーとアントニア。『傍観神話』にもT巻からちょい役のちょい役で出て来るけど、しっかり書いたのは初めて。
しかしクレイはよく動く。緋紅並みに動いて暴走する・・