第5節.苦労性の隣人


 風月ヴァントーズ8日<スミレの日ヴィオレット>深夜。あるいは9日<サルヤナギの日マルソ>早朝。
 ニヴァルバラ唯一の町ル・フォワイエに向けて、三頭の翼馬が北風をっている。
 先頭の雄々おおしい粕毛かすげにはランタンを下げたアントニア=ヴィース、中央の優美な白黒班毛はんもうにはクロディーヌ・ル・グランとクレイ・フェオ=ユーン、殿しんがりの小柄な黒鹿毛くろかげにはアルノー=ブティエをそれぞれ乗せて。
  
 セルズ風にNivalburghニヴァルバラ、北ガシュクジュール風にNivabourgニヴァブール、クリシュエール人にBaile Átha sneachtaブラーシュナハタ、トウカ民族に北雪堆ペイシュエトゥイと呼ばれるこの地域は、琺夜支配圏の中でも一番の僻地へきちである。この時期は、見渡す限り雪山しかない。春になっても、森林限界ぎりぎりの山肌をね回るのは、とぼしい葉やこけを求めるアイベックスブケタンか、野山羊を丸ごとさらおうと構える巨大な雲母大鷲マイカ・イーグルぐらいのもの。町に向かう街道を除けば、ほとんど猟師しか寄り付かない。
 それでも、ここは琺夜ほうやにとって無視できない土地である。
 すぐ北にはクリシュエール三国の一つグリニカ共和国、南西には黒蓮ヘイリェン語に似た言葉を話すトウカ民族の自治区。そして西側にはセルジリア帝国との国境――フィディック山脈の峻険しゅんけんな岩壁がそそり立っている。
 こんな地理的条件のせいで、ニヴァルバラには大昔から軍駐屯地ガルニゾンが置かれ、今では拡張された城塞フォールの中が、ブールと言うよりはヴィルになっている。この防備ぼうび集落ル・フォワイエに暮らす住人達の役割は、隣人から攻め込まれた時に、すぐさま東隣のアガンテーヌ公領に逃げて危機をしらせることだ。
 公領とは言いながら、事実上は王領地ドメンヌ・ロワイヤルであり、琺夜本国から派遣された城代プレヴォが市政を運営している。時代によっては、王族がニヴァルバラ公に任じられることもあるが、彼らがわざわざこんな辺境へんきょうに足を運ぶことはない。
 蕎麦サラザン林檎ポムの他には収穫もないせた土地で生きていくのは大変だが、ここの住人達には特権も認められている。領主に対し、対人課税タイユ・ペルソネル人頭税カピタスィヨンを払わなくても良いのだ。ゆえに、役人達コミセールが居住人口や土地台帳カダストルを真面目に管理することがなく、また、商人や旅人の出入りも多い為、余所よそ者が目立ったり敬遠けいえんされたりすることがない。そんな土地柄なので、琺夜、もしくは隣国の司法当局から逃れて来た犯罪者やごろつきも大勢おおぜい住み着いている。
 琺夜の軍人にとって、ニヴァルバラに派遣はけんされるほど辛いことはあまりない。戦友の死だとか、体の一部を失くして生きて戻ることを別にすれば。
 敵など来る筈もない高地で、毎日ろく糧食りょうしょくも与えられず、退屈な警備にいていれば、冬には凍傷で足の先がもげるのが日常茶飯事、夏には雪解けの泥濘ぬかるみかりっぱなしで足にかびが生えるのが当たり前、万が一面目躍如めんもくやくじょの機会なぞあろうものなら、時間稼ぎの捨てごま扱い。大軍がやって来たら初めから全滅は必定ひつじょう――などという話を聞けば、勇気凛々りんりんの新兵だろうが百戦錬磨れんまの老兵だろうが、怖気おじけづくというものだ。


 (そんな場所に、好き好んで来ちまったか)
 クレイは目をしばたいて、右手がしっかり手綱たづなにぎっていることを確認した。
 冬の真夜中に、凍りついたがけと崖とにはさまれた細い谷――むしろ割れ目――の中を通るのは、いくら翼馬でも自殺行為に近い。前から吹き付ける風は、雪を巻き込んで悲鳴のような甲高かんだかい声を上げる。先頭を行く騎馬きばあかりを追いかけていると、両側の岩壁が幽霊になっておそってくるような気さえする。
 馬具を着けられることを殊更ことさら嫌う翼馬達も、今日はおとなしく胴体に毛皮の服をかぶり、背中にくらを乗せてくれている。騎手の方も、厚着した上にしっかりと毛織りのマントを巻きつけているが、震えが止まらない。
 「ちっ、鼻から氷柱つららが生えてら。くそ、美男子が台無しだ」
 「・・・・ぃ」
 鞍の前に座るクロディーヌは、細腰に回した左腕にしっかりとしがみついてくれている。最初はお互い遠慮えんりょがあったが、北に進むにつれて、それどころではなくなってきた。こうして肌を寄せ合っていれば、少しは暖かい。
 (アスィエのオヤジが、雪山を飛んでると女と寝てるみたいな気分になるとか言ってたが、)
 軍隊生活にありがちな下世話な法螺ほら話を思い出して、クレイはぞっとした。
 寒さで頭がぼーっとして、気持ちが良くなってしまったら、後は夢見心地のまま崖下がけしたとがった岩にキスしているという寸法すんぽうだ。
 「笑えねぇ」
 「・・ごめんなさい」
 「あ?」
 少女に謝罪されたクレイは、まず左手の位置を確めた。
 ごつい手袋を着けている上に冷え切ってほとんど感覚のない手だが、勝手に己の制御せいぎょを離れて少女の体をで回すような不届きは見受けられない。すると今のは、「ごめんなさい、そんな気ないの。触らないで」という下手したて抗議こうぎではなかったということになる。
 「なあ、だから止めてくれないか?俺が何か言うたび脈絡みゃくらくもなく謝るなよ」
 「ごめんなさい」
 「・・、今のは脈絡あるな」
 「ごめんなさい。私は、悪い女なんです。ここまでして頂くことはないんです」
 「別に、あんたの感謝は求めちゃいねぇよ。俺の身勝手だ。・・ああ、前と後ろの奴らにゃ世話かけてるが、それも俺の借りだ。後で一杯おごっとくさ」
 「違うんです。私の甘えなんです。私なんか、もうどうにもならないと分かってたのに・・あんな、優しくされたことがなかったから、私・・」
 耳の高さまで巻きつけたマントの中で、クレイは小さく舌を打った。
 国王のお遊びで殺されかけていたクロディーヌを助けようとしてから――結局は王太子の気紛きまぐれに救われたが――、クレイは一度も彼女の笑顔を見ていない。
 いかにも諜者スパイらしく、特徴とくちょうらしい特徴のない少女。琺夜族らしく小柄でせていて、小間使いのドレスとやや時代遅れの網髪あみがみが良く似合う。茶色の髪とみどりの目で、不器量ぶきりょうではない。王族の側仕そばづかえをして恥ずかしくない容姿だが、目に留まるほどの美人でもない。目立たないが、清楚せいそ雰囲気ふんいききつけられる男はいるだろう。
 (笑ったら、可愛いだろうに)
 シェオ・フローリィの中庭でなぶり者にされていた時からずっと、クロディーヌは沈んだままだ。せっかく王太子の恩赦おんしゃで自由の身になったと言うのに、顔から死相しそうが消えていない。


 クレイは、女が殺されるのが耐えられない。女性兵士ファム・ソルダなど、大嫌いだ。存在するべきでないとすら思っている。
 女に限らず仲間や知人が死ぬのは辛いことだが、男とは元々戦う為に生まれてきた生物だとクレイは信じている。だから、体をきたえ、武器を取る。戦士である以上は殺すし、いずれ負ければ殺される。そういうものだと理屈の上では割り切っている。
 だが、女は違う。守り、生み、はぐくむ生物だ。訓練して護身ごしんすべを身につけることまで否定しはしないが、女にそんなことをさせるのも、そもそもは男の不甲斐ふがいなさが原因だ。まして、“母”という慈愛じあい化身けしんにさえなれる生物を、男の論理に巻き込んで時いたらぬ内に死なせることは、絶対に許されない。
 華の騎士道シュヴァルリは、弱き者、女子供を守ることが美徳びとくだと説く。実社会では、男女問わず国民全てが戦争に従事じゅうじし、弱い者から死んで行く。
 国は、軍隊では純粋に個人の素質のみが評価され、誰にでも平等に社会参画さんかくの機会が与えられていると言うが、所詮しょせん暴力の世界で勝ち残るのは男だ。中でも、将軍ジェネラル連隊長コロネルにまで出世する者のほとんどは、政界にコネを持つこう家やはく家の出身者と来ている。
 結局のところ、世の中は多くを持つ者、強い者がさかえるようにできているのだ。持たざる者、弱い者は、いつも無視され、うばわれるばかりで、社会の底辺ていへんで泣いているしかない。己を支えてくれる弱者を守るという義務ぎむさえ果たさない強者ばかりが、えらそうにり返って弱肉強食を説く。こんな現状を良しとする国には、まともな正義も未来もありはしない。
 理想と現実が乖離かいりした琺夜で、まぎれもなく“強者”にぞくする十八歳のクレイ・フェオ=ユーンは、そんな風に世をはすに見て生きているのだった。
 「おーい、クレイさん!前を見てるかーい!?」
 風に乗って、前から太い声が聞こえて来る。
 知らず岩肌に近づき過ぎていたらしい。翼馬の速歩トロおろがねのようながけにぶつかってしまったら、あっという間にマントも肉もり下ろされてしまうだろう。
 クレイは手綱を引き直し、前を行く友に向かって親指を立てて見せた。
 「おーし!たらたらいちゃついてんじゃねーぞ!このスケコマシが!」
 肺がやられそうな空気の中で、よくもあれだけ大声が出せるものだ。
 クレイは感心しながら、前を行く頼もしい騎影きえいを追った。
 一の部下、アントニア=ヴィースは、「女は守るべき存在」というクレイの信念を真っこうから否定するような女だ。実際、中隊のメンバーを集めていた時に「女兵士ソルダットお断り」と言ったら、顔面にれするような右ストレートをくれたことがある。そく採用したことは言うまでもない。
 琺夜族としては大柄なクレイよりこぶし一つ分背が低いが、肩幅かたはばはより広い。二十歳にして、全身の筋肉は荒縄あらなわのようにまっていて、太腿ふとももときたらクロディーヌの腰よりも太い。ひたい頭突ずつき用にあつらえたように出っ張っていて、鼻は喧嘩けんか乱闘らんとうの末に丸くひしゃげている。たくましい両腕は、だらんと垂らせば指が膝に届くほど長く、前かがみになると『南』に生息するというゴリラそのものだ。そう言ってやれば、本人はほこらしげに胸を張る。今のところ、クレイと素手すでなぐり合える唯一ゆいいつ女兵士ソルダットだが、ほとんど唯一の兵士ソルダと言っても良い。女でありながら、戦う為だけに生まれてきたような奴だ。
 己の信念に疑いを持たないクレイも、アントニアだけは人類のわくから外れた例外だと思っている。いつもわざわざ歩兵隊アンファントリに入隊したがる少女に言うように、「危ないから衛生隊サンテに行け」などと言う気はないし、いつか彼女が背中でち死にしたとしても、笑い泣きで「見事」と言ってやれるだろう。

 「隊長シェフ
 クレイは、つい頭をかがめた。
 ずっと後方にいたアルノー=ブティエの騎馬が、ステファノスの上を飛び越える。追い越してからこちらに赤い目を向けたアルノーは、後ろに向かって指を差し、それからまず指を一本立て、次に二本立てた。
 「後方に12人ドゥーズ
 おさえた声で言ったアルノーは、そのまま前のアントニアに追い着き、そしてあかりが消えた。
 真の暗闇が訪れるかと思いきや、崖に切り取られた上空には例のゆらゆらした光があり、吹き込んで来る雪を幻想的に照らしてくれる。何とか、前に進めそうだ。暗い中で親指を立てると、今度は列を入れ替え、アントニアの乗る大きな翼馬の影が頭の上を後ろにぎて行った。
 「・・1ダースユヌ・ドゥゼンヌ。この時期に、商人ってこたぁねぇな。おいでなすったか」
 クレイが呟くと、クロディーヌはわっと泣き出した。
 「ごめんなさい。本当にごめんなさい!・・私・・もっと早く死ぬべきだったんです」
 「・・・・」
 「ここで、落として下さって結構です。沢山たくさんの人を死なせたのに、あなた達まで」
 「うるせえよ」
 寒さに震えながらすすり泣くクロディーヌを、クレイは一喝いっかつして黙らせた。
 「アントニアならいざ知らず、あんたみたいなのをっとけるか。助けてくれって声で、捨てて行けとか言うんじゃねぇ。あ?死ぬべきだった?過去形じゃねぇか。どっちにしろ手遅れなんだ。過ぎたことをぐだぐだ言うんじゃねぇ」
 クロディーヌは、「ごめんなさい」を繰り返した。
 彼女の過去は、既にある程度聞き知っている。
 「とあるかた」から、王子を見張り、すきあらば暗殺するように命令されていたこと。
 偶然、別の主人に仕える男が同じ目的でいることを知り、協力して暗殺計画を実行に移したこと。
 その際、「とある方」にとって政敵となるかもしれない少年に、深い考えもなく王子殺しの罪をなすりつけようとしたこと。
 計画が失敗し、協力者が殺されると、今度は自分に気がある使用人仲間をだましてかばってもらったこと。その男も殺されてしまったのに、自分だけはみにくく生き延びようとしたこと。
 「とある方」の命令で、家族に手紙を書いたこと。その手紙で、「私は無実だ」とうそをついたこと。
 王太子からゆるされた後、突然「とある方」に殺されるに違いないと気がついて、差し出された手に甘えてしまったこと。
 「ああ、あんたは悪人だろう。だが、真っとうになりかけてるじゃねぇか」
 クレイは優しい声を出した。
 「思いのほか関係ない人間を巻き込んだ。こわい目にもった。今じゃ罪の意識も感じてる。できれば俺達まで巻き込みたくないってのも、半分は本当だろう」
 ぴた、と謝罪が止んだ。
 面白いぐらい予想通りの反応に、クレイは口元だけで苦笑する。
 「俺は別に、あんたが欲しい訳でもなけりゃ、可哀相かわいそうだと思ってる訳でもねぇ。ただ、あんたを使った奴と、純朴じゅんぼくなガキの心をにじった奴が許せねぇだけだ」
 クロディーヌの震えが、ひどくなった。
 クレイは、万が一にも気紛きまぐれな風が声を後ろに運ばないよう、クロディーヌの右耳にくちびるを近づけた。
 「だから、今更善良ぶるな。そこまでやっといて、薄倖はっこうぶってんじゃねぇ。カマトトやんなくたって、見捨てねぇから安心しろ」
 「・・・・」
 少女の口が閉じられると、風の音が良く聞こえた。
 体に吹き付ける風がゆるやかになり、谷の幅が広くなってきたことが分かる。マントから首が出ないように顔を少し上に向けると、空には相変わらずにじ色のオーロラが揺蕩たゆたい、星が流れている。
 「なぁ、上見ろよ。ちょいと不気味ぶきみだが、綺麗きれいだぜ」
 不吉の前触まえぶれか、お星さんが卵みたいに割れちまったのか、天上の神々が痴話ちわ喧嘩でもしてやがるのかね。などと、おどけてつぶやいたクレイだが、まさかどれもがある意味正解に近いとは夢にも思わず、すぐに余所見よそみを中断した。
 この場所で敵に遭遇そうぐうするのは不利だ。できれば一人ずつむかえ撃てるような、もっと狭い場所がいい。上の方で幅が狭まっていれば、更にいい。
 アントニアに代わって先導役になったアルノーが、クレイとアントニアの目印になるよう、ちょっとこちらを振り向いた。闇の中で赤い光がちらとまたたき、また見えなくなる。
 アルノー=ブティエは、クレイと同じく貴族階級のはみ出し者だ。
 彼の出身地ソルベーニュ伯領の民は、アガンテーヌ人以上に琺夜族の民族性ナショナリズムを重んじていて、伯家ブティエ家の人間ときたら、「どれだけ他民族の血に汚れていないか」を基準に結婚相手を選別する程だ。積極的に外国人と交流し、婚姻こんいん関係を結ぶことで力を得たヂェルスベルク公家ユーン家とは犬猿けんえんの仲である。
 実家の息苦しさに嫌気が差して家出したアルノーも、国王やスノゥリィ‐フロコンドネージュ一族に比肩ひけんするぐらいに琺夜族スノゥリィ・ケルズの血が濃い。黒髪、暗闇で赤く光る大きなみどりの瞳、白い肌、今の時代には小柄どころか矮躯わいくと笑われる程の低身長。極めつけは、十六歳にもなって丸っこいほおから赤みが消えない。常々少女と間違えられたり男色家の同僚どうりょうに追い回されたりしているらしいが、音もなく敵に忍び寄り、ひょうのように喰らいつく苛烈かれつさも、やはり琺夜族そのものだ。
 こんな状況では、彼のすばしっこさと熱視覚ヒート・ヴィジョンが一番の頼みになる。あの赤い目が見出した道について行けば、間違いはない。


 「・・・にさまのつもり」
 クロディーヌのつぶやき。心なしか、左腕にかかる力が強くなった。つめを立てられているのだろうか。
 「あなた・・あんたこそ・・何?正義の味方でも気取きどってんの?恵まれた人が偉そうに・・虫唾むしずが走るんだけど」
 クレイは破顔はがんした。
 「やっとが出たな。ああ、それがいい。素直すなおで気が強い女は好みだ」
 「うるさいっ!」
 クロディーヌは、クレイの腕を振りほどこうとした。だが、下を見てしまったのか、またすがりつくような格好かっこうになる。
 「・・放して欲しかったら言え。くらと腰はひもで結んであるから、落ちやしない。嫌がる女に触る趣味しゅみはないんでね」
 クロディーヌは、そろそろと顔を上げた。
 「・・・あんた、相当遊び人?」
 「来る女をこばむ趣味もない。が、遊んじゃいねぇよ。俺はそのたび真剣だ。祖母さんの教えでね。『東』には“据えぜん食わぬは男の恥”とかいう教訓きょうくんがあるそうだ」
 「わかんないけど・・もてるんだ。やっぱり」
 「否定はしねぇ。られるのも早いけどな。デリカシーがないって良く言われるよ」
 「ふぅん・・それっぽい」
 「ひでぇな」
 クロディーヌは、毒気どくけが抜けてしまったらしい。翼馬のたてがみにぽすっと頭を預け、それから顔を上げて、空におどうすぎぬを見つめる。
 クレイは上からそんなクロディーヌの顔を見ていたが、うれしいことに、ちょっと笑ったように見えた。
 クレイの哲学てつがくによれば、女の笑顔は戦士にとって最高の戦利せんり品だ。何しろ、世の男どもはその笑顔を見たいが為に、馬鹿馬鹿しくも血を流すのだから。
 今や、人の社会は複雑で、戦争はもっともらしい大義たいぎかかげて始まるものだが、戦士に死さえ忘れさせる根本の原動力は、太古たいこの昔と変わらない。あの娘を射止いとめたいから、我が妻、我が子を守りたいから、愛する者の幸せこそを守りたいから。限りなく陳腐ちんぷで、身勝手な動機どうきでこそ、男は戦うのだ。
 その目的を失くしてしまったら、戦う理由を忘れてしまったら、男は男でいられなくなる。守るべきものを持たない戦士は、ただの破壊者に成り下がる。誰からも愛されず、存在そのものをうとまれるようになる。
 「あんたのご主人様って、俺の親父だろ?」
 「・・・・」
 一瞬にして痛そうな角度に首を回したクロディーヌは、驚いた顔をしていた。
 「・・・ごめんなさい」
 「ん?今度は何のごめんなさいだ?・・分かったぞ。俺があれだけ言われても気付かねぇよーな鈍感どんかんでお人好ひとよしの大馬鹿だと思ってたんだろ?『西』と『中央コードローク』の色んな言葉が全部ちょっとずつ混ざったみたいな妙なアクセントのスノゥリェンヌ語をしゃべるのは、国際派気取きどって節操せっそうのねぇヂェルスベルクの人間だけだ」
 「・・やっぱり、同郷人には御里おさとが知れるわね。お坊ちゃま」
 「あんたのクロディーヌ・ル・グランなんて名前は、ここいら北部でも通用しそうだけどな。ニヴァブール人ニヴァブルジョワはクリシュエールなまりだっけか?アガンテーヌ人アガンタンソルベーニュ人ソルベーニャに呼ばせりゃ、綺麗だろうよ」
 アルノーが、またこちらを振り返る。
 赤外線こそ見えないがそれなりに夜目の利くアントニアが、手信号を送ったらしい。アルノーの赤い目が複雑な瞬きを始め、最後にちらと上を向いた。『頭上に注意しながら駈歩ガロパド』の合図だ。
 「・・了解アンタンデュ
 クレイは翼馬の首を軽くでた。ちらちらと瞬く赤い光を見逃さないよう、高度を下げながらついて行く。
 「え?ちょっと・・」
 「悪ぃ。つかまってろ」
 言って、翼馬の腹を軽くる。
 速度が上がると、クロディーヌはひっとのどを鳴らしたきり、しゃべらなくなった。
 アルノーは、間もなく後ろを見なくなった。闇の中、雪明りと翼馬の吐く息の音だけを頼りに岩棚をくぐり抜け、後を追う。
 両脇から闇がせまってきた。
 今にもぶつかりそうなせまい場所を抜けると、クロディーヌが小さな悲鳴を上げる。と、体に強い振動を受けた。翼馬のひづめが直に大地に着いたのだ。
 前を見れば、低い位置に赤い光点が二つ明滅めいめつしている。『下馬して合流』。
 ゆるやかに翼馬を止めたクレイは、先にくらから滑り降りた。谷底には新雪が積もっていて、くるぶしまでが埋まる。
 クロディーヌを手伝って下ろした途端、ステファノスが鳥の姿になり、くきゃ〜珍奇ちんきな鳴き声を上げてふところに飛びついてくる。氷のかたまりのように冷え切った相棒をマントの下に押し込み、そのまま脱ぎ捨てられた馬具と荷物のたぐいを雪に埋めていると、アントニアが悪態あくたいをつきながら追い着いた。
 「連中、見えたか?」
 アントニアはにやっと笑った。
 「ドラゴンさ」
 クレイは笑って肩をすくめた。
 琺夜では翼馬をる空騎兵のことを、洒落しゃれた言い方で“竜騎兵ドラゴン”と呼ぶ。そいつらがユーン家の紋章“赤竜ドラゴン・ルージュ”を背負っているなら、それはまさにドラゴンだ。
 「何言ってんだ背高ペルシュ。俺はドラゴンなんか見えなかったぞ。トカゲレザールみたいな奴らだろ?」
 小さなアルノーが懸命に雪を分けながら近づいて来ると、アントニアが笑い声を上げた。
 「おお、よく頑張ったな!ちび姫ちゃんラ・プティット・ナーボット
 「それやめろって言ってるだろ!女性形にするんじゃねぇ!」
 「小さくプティちびナーボなのは認めるんだな?くく・・めんこいなぁ、アルノーちゃん♪」
 「くああ!てめぇ、十年後覚えてろよ!ああ隊長シェフ、奴らまだ気付いてませんが、仕留しとめるならここで待ち伏せた方がいいでしょう。ル・フォワイエまで逃げ切れないことはないですが、市内に潜伏せんぷくされたら手間ですし」
 クレイは頭の上に見える夜空が糸のように細いことと、人が三人並ぶのがやっとという谷のはばを確認して、大きくうなずいた。
 「クロディーヌを隠せる場所はあるか?」
 「さっき見つけました。ここからなら、人の足で町まで歩いて行けないことはないですし」
 「よし。じゃあアントニア、火をけろ」
 「・・奇襲きしゅうをかけないんですか?敵の中にも赤い目の奴がいたから、あんた方にゃ不利だろうけど。あんたらも隠れてくれりゃ、後ろの奴から順番に喉笛のどぶえっ切って来ますよ」
 「ちびちゃんよ、獲物えものを横取りしようったってそうはいかねぇぞ」
 「意味ねぇ!俺の努力意味ねぇ!何の為に慎重しんちょうになってたんだよ!?・・ああもう、筋肉馬鹿どもはこれだから」
 ランタンのあかりがともると、クレイはほっとして小脇にかかえた少女に微笑みかけた。ところが、クロディーヌは雪と同じぐらい青白い顔をしている。
 「ほら、こいつを持っていろ。一人になっちまったら、そいつを持って町まで行け。酒場でアルノーの名前を出せば、助けてくれる奴らがいる。こいつ、こう見えても北じゃ顔が広いんだ」
 腰にくくりつけていた財布さいふを外して渡すと、クロディーヌはぶんぶんと首を振った。
 「おいおい泣くんじゃねぇよ。万が一ってやつさ。奴らを片付けたら、むかえに行くからよ。褒美ほうびに口づけ一つ、なんて言いやしないから、まぁ安心して隠れてな」
 アルノーが、うらめしそうな顔でクロディーヌを連れて行く。クレイが笑顔で手を振っていると、後ろから頭をなぐられた。
 「ほんっと、クレイさんよぉ。あんた、すきさえありゃ女口説くどいてるな。それだけあからさまに下心で動いてる男に、ほいほい引っかかる女も女だけどよ」
 クレイはこきっと首を鳴らした。
 「なぁアントニア。お前にゃ分からんだろうが、女の為に命張るのは男の浪漫ろまんだぞ。下心は否定しやしないが、それはそれ、これはこれ。別物だ」
 「分かんねぇよ、スケベ野郎。お?トカゲどもが気付いたみたいだぜ。火でもいて待ってるか?」
 「雪しかないぜ。何燃やすんだよ?」
 「奴らの尻尾しっぽが焼いて食えたらいいんだが。腹減ったな」
 クレイとアントニアは火が点いたままのランタンを置き、腕を組んで待ち構えた。
 二人ながら長躯ちょうくほこり、それが両の岩壁に長い影をつくれば、さながら大口を開けた怪物のように見える筈だ。
 案の定、空騎兵の集団はいきなり剣を抜くこともなく、二人の前で静止した。


 「・・・・。ヂェルスベルク公爵のご子息、クレイ・フェオ=ユーン殿とお見受けいたす」
 フード付のマントですっぽり顔をおおった男は、確かにヂェルスベルク風のアクセントで話しかけてきた。流石さすがにでかでかと紋章を描いたはたを持っていたりはしないが、赤竜ドラゴン・ルージュの手先であることは間違いない。
 「どっちが?」
 アントニアが尋ねたが、集団は軽く無視をする。
 「お父上より、お達しです。そちらの隠匿いんとくなされたル・グランなる罪人を引き渡されよ」
 「え?あたしのこと?」
 アントニアは、再び無視された。前列の一人が赤い目を見開いて固まったのは、捜索そうさく対象と性別だけは一致いっちしていると気付いたせいだろうか。
 クレイは生地の厚いマントをあごの下まで引き下ろした。
 「罪人・・ねぇ。あの子は王太子殿下から正式な恩赦おんしゃを頂いた筈だぜ。親父はまた領事裁判権がどーのとごねてるんだろうが、事が王領内で起きた事件なんだから出るまくじゃねぇだろ。国王法廷クリア・レギス判例はんれいからしても出しゃばるのは筋違すじちがい、」
 クレイはさっと片足を上げた。雪に矢が突き立っている。
 「あなたと議論するつもりはない。引き渡す気があるのか、ないのか」
 敵は、最後通牒つうちょうのつもりだったのだろう。低くおどす声はどうったものだが、それも脅す相手による。
 「うお、なんて奴だ!この俺が珍しく法律書なんぞ紐解ひもといて理論武装してたってのに、不戦勝に持ち込もうたぁ、なんつーふてぇ野郎だ!」
 「似合わねぇことしてんじゃねえよクレイさん。あんたの武器ははなからこれ・・だろうが!」
 アントニアは、いきなり飛び出した。
 足場の悪い地面から有り得ない跳躍ちょうやくをして、偉そうな馬上の男に向かってこぶしを振り抜く。
 「ごげっ!」
 殴られた時点で既に頬骨ほおぼね陥没かんぼつしていた男は、そのまま頭から岩壁に激突げきとつし、落ちて動かなくなった。
 「これを宣戦布告と心得こころえる!」
 すぐ後ろにいた別の男が叫んで、アントニアに長槍ランスを突き出す。
 「うるせえよ!」
 戦う前に名乗りもしねぇ、薄汚え暗殺者が!えるまま、槍を奪い取ってぼきりと折る。二人目の男も、すぐに一人目と同じ運命を辿たどった。
 「あ、俺も名乗ってねぇや。・・別にいいか」
 「おいおい・・勝手に始めるんじゃねぇよ」
 先を越された悔しさにそんなことを言いつつも、クレイは短剣を抜いて構えた。
 アントニアに追い着こうと一歩踏み出したが、ふと背後が気になってきびすを返す。
 「げ」
 見れば、前から別の空騎兵の集団が近づいて来ていた。完全なはさみ撃ちだ。
 「前方に13人トレーズ・・おいおいおい。アントニア!敵が倍に増えたぞ!」
 「そいつぁいい!山分けだな!」
 クレイは苦笑して、アントニアと背中合わせになった。
 今度こそは先制せんせいしてやろうと、こういう狭い場所では使い勝手の悪い剣を抜く。最前列の敵に向かって投げつけると、剣は狙い通り、敵のひたいに吸い込まれるように飛んで行った。
 だが、その剣が届いたと思った瞬間、クレイはアントニアの腰に抱きつくようにして横に飛んだ。
 途端、上方の岩壁がぞりっ・・・がれ落ち、寸前の立ち位置に突き刺さる。
 「背高ペルシュ隊長シェフ!」
 戻って来たアルノーの叫び声も、轟音ごうおんき消された。
 ランタンがつぶれ、闇の中に雪けむりが巻き上がる。


 「・・・一人、何だ?魔法使いマグスか?やばいのがいるな」
 「ああ・・まさか俺まであんたに押し倒される日が来るたぁ、思いもしなかったよ。おお、いてて」
 アントニアがいつもの調子で返す。クレイは胸を撫で下ろすと、厳しい目で頭上をにらんだ。
 不幸中の幸いか、今は雪煙が隠れみのになってくれている。だが、これが収まれば、熱視覚ヒート・ヴィジョンを持った敵が襲って来るだろう。状況は、かんばしくない。相当やばい。
 アントニアがぺっとつばを吐く音がした。
 「魔法使いマグスだか超能力者アルセロイだか知らねぇが、そりゃねえだろ。反則だよな」
 「ビビったか、アニー?」
 笑いを混ぜて問いながら、クレイは首をひねった。
 父がクロディーヌを殺そうとするのは分かる。ほとんど勘当かんどう同然の、常々「ユーン家の恥」呼ばわりしている息子のこともついでに始末しようというのも分からないではない。だが、ここまで手間をかけることではないだろう。最初の12人だけでも数が多過ぎると思ったぐらいだが、倍の人数に加えて、あんなとんでもない奴まで引っ張り出して来るとは、ちょっと徹底てっていし過ぎている。まるで余裕がない。
 「俺はちびちゃんが心配だよ。あいつ一人であの人数は、ちぃっときつい」
 クレイの思考は、そこで吹き飛んだ。
 その時空気をいたのは、まぎれもなくアルノーの悲鳴だったのだ。
 「アルノー!無事か!?生きてる・・か?」
 敵に見つかる危険も忘れて叫んでから、クレイは妙なことに気がついた。
 最初は、子供のように甲高かんだかいアルノーの声だけが耳についたが、他の連中も何やら野太のぶとい声で叫んでいる。とすると、一体何があったと言うのか。
 「あぁああああ、しぇ、隊長シェフ・・、ドラゴン・・東南、上空にドラゴン!ドラゴン・ブラン!」
 「・・何だと?」
 クレイは、ますます訳が分からなくなった。ここで別の装甲竜騎兵ドラゴン・ブラン、しかも敵の反応からして第三勢力、おそらく大軍が現れるとは、一体どういうことだろう。
 それにしても、アルノーのおびえ方が尋常じんじょうではないのが気にかかる。あいつは、体格に反してかなりきもが太い奴なんだが・・
 色々と思案しながら雪煙が晴れるのを待っていたクレイだが、結局のところ、
 「おーいおいおいおい・・・・そりゃあ、ねぇだろ・・」
 ぽかんと口を開けて、空を見上げることになった。


 オーロラを横切って、狭い谷の上を飛ぶのは、間違いなく巨大な白い飛竜ドラゴン・ブランだった。
 馬をも一呑みにできそうな巨体に、雲のような翼。
 雪そのもののように白く、月のように淡い色に輝くそれの頭には、
 「・・大義たいぎであったな、ヒュルソーン」
 何やら、黒くて小さな人影が座っていた。
 
 

すみません。腹黒一族出て来ません。最後にちょびっとしか。一応、王家の外から見た琺夜ってことで。
アルノーとアントニア。『傍観神話』にもT巻からちょい役のちょい役で出て来るけど、しっかり書いたのは初めて。
しかしクレイはよく動く。緋紅並みに動いて暴走する・・