第6節‐1.琅珂
風月9日<サルヤナギの日>早朝。
(くそ、マルヴェめ・・)
横になって風を浴びる琅珂は、今頃になって腹を立てていた。
(葉め・・あの女豹ども・・)
風で乱れる前髪を掻き上げて、冷えた頭で己の取るべき行動を考える。
それにしても、自分は一体どうしていたと言うのだ?フルリールの演技にまんまと乗せられてしまうなんて。たかが頭を下げたぐらいのことで、自分を体よく使っただけではないか。
(いちいち風邪までひきおって。・・白々しい)
今や琅珂には、決して親切で有り得ないスノゥリィ一族の思惑が読めていた。
王妃とマルヴェは、自分を差し向けてクレイに恩を売ろうとしている。その目的は、来るヂェルスベルク公との闘争において、便利な手駒とする為だ。
二人とも、琅珂の存在が邪魔らしい。ならば、国王の宣下など摂政女王の権限で取り消してくれれば良いものを、どういう理由でか、王太子位を剥奪してくれない。玉葉の言う通り、わざわざ琅珂を矢面に立てて馬脚を現すのを待つつもりらしい。王妃などは偉そうに「社会勉強もしくは人格更正手段」だと言っていたが、身勝手にも程がある。腹を痛めて産んでくれた分、感謝はしているが、今更母親面される筋合いはない。
一番性質の悪い玉葉は、二つのパターンを考えている。
クレイが生きていれば、王妃の計画に足並みを揃えるも良し。
琅珂が間に合わなければ、あるいは腹癒せにクレイを殺してしまえば、猶良い。
必ず逆上するであろうフルリールを公衆の面前で殺し、王の死をペリード一族の仕業と公言する。国民を扇動して彼らが粛清されるのを待つ傍ら、王妃にヂェルスベルク公を誘惑させる。アルブリヒトには和解を申し入れておいて、裏では、必ず父親と反目するであろうユーン家の子息達、そしてビルキース財閥を言葉巧みに抱き込む。両者の対立が激化した頃合を見計らって、ビルキース家にアルブリヒトの首を与える。ヂェルスベルク公領を没収し、ペリード家の財力を奪い取れば、王家はしばらくのところ安泰だ。
厄介な天空の民は、琅珂が破壊神の化身だという迷信を真に受け、琺夜に干渉を試みつつも、正面からは手を出そうとしない。彼らが霓葩を攻撃した以上、琅珂は彼らの味方にはならない。霓葩の求めさえなければ、琅珂は翡のいる琺夜を離れない。
「・・・・」
少女を殴れずに目に涙を溜めていたフォーゲル。扉の前に座り、死んだ母の帰りをいつまでも待つ翡。
弟達の泣き顔をちらちらと思い出して、琅珂は更に不愉快になった。
昔から、玉葉の心の動きは手に取るように分かる。
姉はマルヴェを慕っているし、ファルツやフルリール、フォーゲルにも敵意を抱いてはいない。それどころか、彼女はe葵の子供達全員が家族と呼び合うことを夢見ている。いつか皆に祝福されて、愛する男と平和な家庭を築きたいと望んでいる。
それなのに、「琺夜の安寧と繁栄」などという下らない未来の実現を信じ、その為に、望みの全てを諦めている。
琅珂には、姉の夢も正義も理解できない。理解できないが、その潔さには好感が持てる。その揺るぎない信念は、尊敬してもいいぐらいだ。
琅珂には、縋るべき正義がない。今は欲しいものもない。ただ、失いたくないものがある。決して諦められない命がある。
(翡・・フース・・・・霓葩)
琅珂は上半身を起こして、固くなった掌をまじまじと見つめた。
「火霊」
眼下の雪山に向かってさっと手を打ち振れば、地面がぱっと明るく光り、雪が岩ごと蒸発する。
この手には、力がある。暴力という力が。
(俺は・・)
強い。疑いなく。
敵にさえ縋られるほどに、強い。
これは、敵を嬲る為の力だ。見下す奴を捻じ伏せ、圧倒的な力で踏み躙ってやる為の力だ。そうして快感を得る為の力だ。
それなのに何故、あんなに動揺してしまったのだろう。兄の頭を踏みつけて、冷笑と共に突き放せなかったのだろう。
(・・・・)
思えば、いけ好かない血族達が腹を探り合う中で、フルリールの言葉だけは本音だった。琅珂を動かす為に耐えるべき最少限の痛みを見極めんとする小狡い魂胆を別にすれば、彼のクレイ・フェオに対する想いは、清々しい程に真っ直ぐだった。
彼は弱い。この手に比べれば、どうしようもなく弱い。だから、大切な人間を守ることもできない。
(だが、俺も・・)
琅珂は、常に強かった。
力が足りないことなど、ほとんどなかった。
けれど、失いたくないものを守れた事が、果たしてどれほどあっただろうか。
(母さま・・)
琅珂はかつて、最愛の乳母を守れなかった。世界で唯一無条件の愛を与えてくれた女を失い、彼女の一人息子から優しい母を奪ってしまった。
目的に対して、無力。その意味では、全くの同格。
いや、
(俺に・・あれができるか?)
思い出して、琅珂はぞっとした。
自分は、あれほど我武者羅になれたことがあるだろうか。
力で手に入るものなら、何であれ手が届く。けれど、己の望みを叶えるのに暴力が役に立たない時、自分はどこまで「なりふり構わなく」なれるだろうか。
フルリールのように、敵の足下に屈服できるか。
e葵のように、確実に殺せる雑魚に敗北できるか。
(・・・は、)
・・考えただけで、憤死しそうだ。
ならば、自分の思いは彼らよりも弱いということなのか。「人」としては、あんなに弱いフルリールよりも、弱くて役立たずだということか。
そうだ。フルリールに土下座されて、俺は恐怖したのではなかったか。敵わないと思ったからこそ、心が敗北したからこそ、こうして夜空を飛んでいるのではないか。
俺には望みを叶える力がある。貴様のように無力ではない。負け犬は貴様の方なのだと、下らない見栄で敗北を打ち消す為に。
(・・・・)
誰より強くなれば、悲しいことも辛いこともなくなると、無邪気に信じた時代もあった。
忌々しい親族を鏖殺し、世界を総べる碧帝を殺し、己の存在を拒む全てを磨り潰せば、楽になれると信じたこともあった。けれど、玉葉のようにはなれなかった。
破壊を唯一つの正義と信じ、他の全てを諦めることはできなかった。
翡に、もう泣いて欲しくない。友達だと言ってくれたエパノスを、裏切りたくない。自分を許さないと言い、それでも生きろと言ってくれた少女を、忘れたくない。彼女が愛した世界を愛することができなくとも、せめてあの笑顔を想う縁を失いたくない。
この望みに、暴力が役に立つ余地はない。それなのに俺は、壊すことでしか己を保てない弱者ではないか。
「・・何たる無様か」
声に出して、琅珂はオーロラの踊る空を見上げた。
本気を出せば空の色さえ変えられる霓葩は、傷つけることしかできない琅珂の力を、決して求めてはくれない。
この世界は、何か、どこかが歪んでいる。
自分は、世界から使命を押し付けられて生まれて来た。
呪わしい“運命”とやらに雁字搦めに縛られていた筈なのに、琅珂が戦いさえしない内に、いつしか鎖はどうしようもなく破綻して、気付いた時には消え失せていた。
自分を殺したであろう“善”も、自分が殺すべきだった“悪”も、戦うべき定めの“敵”は、もうどこにもいなくなった。
世界から取り零された今、この力で、何をすれば良いのか分からない。こんなに見苦しい生き様を、いつまで晒していれば良いのか。
「・・大義であったな、ヒュルソーン」
眼下に、見覚えのある命の形を捉えた琅珂は、下らない思考を停止した。
やはり、体を動かしていないと碌なことを考えない。
鱗の端に引っ掛けておいた三角帽を被り直し、己の身をここまで運んで来た飛竜に労いの言葉をかける。
ブロュオロロロロヴロロロロ・・・
低く長く響く声は、今のこの世界には聞こえる筈のない咆哮。そこはかとなく悲哀の混じったそれに、琅珂は微笑で応じた。
「起こしてすまぬな、ヒュルソーン。あの変態と我が姉を恨むが良いぞ」
冷たい鱗を優しく撫でていると、幅の細い崖の下では大勢の人間と翼馬が慌てふためいている。竜の姿がそれほど珍しいか。
「つまらぬな。烏合の衆よ。・・なぁ、天狼。お前は勇敢だな?」
後ろ髪に手を入れ、マントの下に隠れている相棒を引っ張り出す。小さな鳥の姿をした翼馬が、あむっと指に噛みついた。別の指で擽ってやると、ぴぴすっと鼻を鳴らす。
「拗ねるな天浪。翼馬の中ではお前が一番速い。それは疑わぬ。・・愛いな、お前は」
琅珂はくすりと微笑んで、足の下を見下ろした。
見苦しく慌てる人間達の中に二人、じっとこちらを見つめ返す者がいる。一人は、予想通りと言うべきか。暴君さえ恐れなかったクレイ・フェオ=ユーン。
もう一人は――
「む?」
「天の主よ・・願わくは、我に風に対する支配権を与え給え・・」
ステラ語の詠唱を聞いて、琅珂はにいと歯を剥いた。
先程まで、こんな己の性分を嘆いていた訳だが、いざ血の予感を嗅ぎつければ、自虐の念など綺麗に消え失せてしまう。
「風霊達よ!」
「風霊!」
「その竜を打ち砕け!」
「我を害する禍言を砕け!」
「おーいおいおいおい・・・・そりゃあ、ねぇだろ・・」
飛来する白い竜を見つめ、クレイは笑いたい気分になってきた。
「ドラゴンかよ。よりによってドラゴンかよ。どんな展開ぶっ壊しだ、おい」
「く・・クレイさん」
アントニアの、怯えた声。
懐で、きゅうと丸くなるステファノス。
あの巨大な竜は、確かに尋常ではない威圧感を放っている。それはそうと、その頭に乗っているのは、
「あれは・・王太子、か?」
「え・・?あ、あぁ・・そうかもな。ちびちゃんより小っこそうだ。げ、ありゃ黒騎兵隊の制服じゃねぇか」
アントニアが落ち着くと、クレイはひょいと眉を上げた。
「なあ、アントニア。竜って、『西』にいるんだっけか?『南』以外じゃ絶滅したと聞いたことがあるんだが」
「あぁ!?知るかよ!『南』で捕まえたんじゃねぇの?」
「マジか?あれ、餌代どのぐらいかかるんだ?その金どっから出てるんだ?」
「はぁ?そりゃあ・・税金?税金か?税金かよ、おい!?血税の無駄遣い発覚したぞ、おい」
「言ってる場合じゃねー!!」
アルノーの跳び蹴り。
側頭に喰らったアントニアが雪に沈み、そのまま罵り合いと殴り合いが始まる。
「てめー!顔は乙女の命だぞコラ!それを足蹴にするたぁ、どんな教育受けてんだチビ!」
「誰が乙女だ筋肉ゴリラ!そーゆー台詞は肌の保湿と無駄毛処理を怠らない女が吐くんだよ!眉毛繋がってんぞ!」
「乙女ちゃん気持ち悪っ!眉毛抜く男気色悪っ!そのすべすべお肌何塗ってんだコラ!」
「誰が乙女だー!!」
アルノーがシメられるのはいつものことなので放っておいて、クレイは竜の頭に乗っかっている人物に目を凝らした。
遠過ぎて帽子の下の顔はよく分からないが、やはり黒騎兵隊の軍服を着ている。
「王太子だな、どうも。しかしまた何で・・」
“魔性の王子”琅珂。
軍人としてはクレイと同じ大隊長で、“王子軽騎兵隊”あるいは“黒騎兵隊”と呼ばれる特殊部隊を率いる将校だ。その部隊が、あまりに強く、あまりにえぐい殺し方をするというので、琺夜軍の中では頗る評判が悪い。クレイも兵舎で黒い制服を見かけたことがあるが、黒騎兵隊の連中ときたら、萌芽(フルリール)を美神と崇める不気味な取り巻き連中とも似た、一種独特の雰囲気で、近寄り難いことこの上ない。アルノーに言わせれば、「殿下の足の小指でもしゃぶれるなら何でもしそうな変態どもの巣窟」だそうだ。あまり似ていない兄弟だが、同じく崇拝者が集まって来るというのは、これも王族のカリスマだろうか。
琅珂本人も、“血染めの王女”玉葉と対になって、「とんでもなくやばい」と語られる男だが、クレイは今まで一度たりと、彼がどう「とんでもない」のか直接知る機会に恵まれたことはない。数日前、僅かに言葉を交わした時は、残酷で偏屈な父王よりまともだという印象を持った。王族らしい身勝手さや傲慢さはあるにせよ。
「・・戦場に竜が出たって話は聞いたことねぇ・・」
独り言の途中で、クレイは下腹に悪寒を感じた。先程、敵に剣が当たった時と同じ感覚。しかし、今度のそれはクレイ自身に回避行動を促すものではない。
一応警戒しつつその場に立っていると、空気がばあんと音を立てる。
視線を固定したまま、クレイは顔の前に手を翳した。
竜の頭の上で、何かと何かがぶつかった。激しく火花が散った直後、空気を裂くような音と一緒に、風の塊が飛んで来た。
「うお!」
マントが垂直に煽られる暴風の中で、クレイは目を庇いながら雪を踏みしめた。
見えない刃に襲われた竜が、ずたずたに切り裂かれていく。見れば、首に一際深い皺ができ、それがそのままぱっくりと割れる。頭が胴から離れたかと思えば、白い竜の体が淡く光って爆発した。
「のわ!」
爆風に続いて落ちて来た氷の塊が、地面を割ってクレイの背後に突き刺さる。
「何だ何だ?どこ行ったちびちゃん?」
「うがー!背高!てめぇ、どけ!出る!うげ、中身出る!」
「出産!?そりゃいかん。ほれ、吸って吸って吐いてー」
「えぎゃーっ!ちょっ、ギブアップ!アニーさーん!ギブギブギブ!」
アルノーとアントニアもそれぞれ無事に飛び退いていたらしい。アルノーの元気な声が聞こえて来る。
上空では、ヂェルスベルクの空騎兵達が体制を立て直しかけている。ただし、今や彼らの警戒はあの王太子に向けられているようだ。
「火霊・・」
素早く馬の姿に変じた天狼の背から、琅珂は半眼で周囲を見回した。まだまだ夜闇は明けないが、生物の魂や精霊の形を見るのに、日の光は必要ない。
宙に浮いているのは、翼馬の乗り手が二一騎。内一人が息を荒げる女魔導士。
「攻、めろ・・あいつをっ・・!」
魔導士が叫んで身を屈めると、入れ替わりに黒光りする凶器が飛んできた。
(ふ・・)
巨大に迫る長矛の刃先に対し、それを振るう敵が針先に見える。流石に琺夜の戦士。間の詰め方は見事と言うべきか。
琅珂は左手で左腰の太刀を抜き放ち、刀の柄で矛を撥ね上げた。
(重い)
手首がじんと痺れる感覚があったが、琅珂は止まらない。驚愕に目を剥く男の腕の中に飛び込み、逆手に持った太刀を翻しざま、肉を断つ。
服の下の革鎧に邪魔されて致命傷は与えられなかったが、男の脇腹が熱い血潮を噴き出した。
(心地良い)
ぴっと飛沫の散った唇に舌先を這わせ、琅珂は膝で翼馬の背を叩いた。
「集え!」
叫びつつ急上昇すれば、背後の死角から近づいていた男が風の渦に突っ込み、翼馬を制御するのに必死になった。
右手に魔法、左手に太刀を構えつつ、鷲の如く風を切って空を旋回する。
空に浮く戦士達も何とかこちらを捉えようとするが、鏃は大きく的を逸れる。
「そこなる騎士ども、貴様らは何者ぞ!」
空の高みから問いを投げると、戦士達は水を打ったように動きを止めた。
「余は琅珂と俗称されしニヴァルバラ公。国王陛下の命によりこの地を領有する者なり。斯くの如く武装を纏い、我が封土に侵入したるは何故ぞ!弁明があれば疾く申せ!」
魔導士の驚愕の視線と、他の乗り手達の縋るような眼差しが隊長らしい男に集約したのを確認し、琅珂は崖下に目を移した。
下にいるのは、人が八人と翼馬が七頭。内四人は意識がなく、それぞれ相棒の翼馬が側に寄り添っている。起きている四人の内三人も翼馬と密着していて、その内二人がおそらく超能力者。その片方、大きい方がクレイ・フェオ。クレイは素人らしく神通力がぶれまくっているが、魔導士より大きな命の器を持っている。
観察している内にも、軽く丸めた掌の中に火の精霊が凝集する。
騎士団の頭らしい男が、何か叫んで指示を出す。鼓舞された連中が再び動き始めた。
「上等だ」
目の前にぱっと開いた蜘蛛の巣を見つめ、琅珂は小さく呟いた。そうでなくては、つまらない。
「天狼!」
投網が広がりきって端の錘が垂れた瞬間、琅珂は落ちた。
鳥の姿に変化した翼馬が、物体の自由落下よりも速く滑空し、落ちる相棒を網の射程から突き飛ばす。再度馬に変じた天狼の背をしっかり膝で締めながら、琅珂は思い切り左腕を伸ばし、落ちていく投網の縄を素早く断ち切った。
「ぎやっ!」
制御を失った網は、隙を突こうと近づいて来た間抜けな一人を呑み込んで縮む。もがく敵を蹄で蹴飛ばし、飛んだ帽子を被り直す。
悠々と空を飛び回る琅珂に、もう誰も近寄ろうとしなくなった。
重い荷と成人男子の体を運ぶ翼馬達は、軽やかな天狼の動きについて来られない。敵方も弱みを悟ったらしく、天狼を追うのでなく、数を生かして包囲陣形を取り始めた。
「は!つまらん手に出たな!」
敵の陣形が完成する直前に、琅珂は、今度は急降下した。
首を伸ばした翼馬の鬣にぴったりと顔を伏せ、頭から地面に墜落する。
包囲の穴を突破し、血を零す脇腹を押さえて低空に待避する男を追い越し、崖の縁をも越えたところで、急停止して旋回。
「デ・・神よ!我を護り給え!」
「呑み尽くせ!」
上に向かって右手を突き出し、青い炎玉を放り投げる。
解き放たれた炎は、まず白く、そして橙色に変わりながら巨大に膨らみ、最後は夜空を紅に染め上げた。
「む」
「わ」
「げ」
王太子の言葉を聞いて、揃って雁首並べるクレイ、アントニア、アルノーは、俄かに顔を引き攣らせた。
「おいおいおいおい、不法侵入だってよ」
「んな馬鹿な。関所だってなかったじゃんよ」
「いや・・ニヴァルバラは辺境過ぎて途中の街道に監視部隊を置く余裕がないだけだ。確かに、武装した集団が他所の領地に侵入したら、それは領主に対して交戦の意思ありってことになる。その場で斬られてもおかしくない」
「マジでか、ちびちゃん?それやばくね?おお、こっち見たぞ」
「やばいなんて話じゃないぞ背高。・・隊長、まずいですよ。王太子殿下がニヴァルバラ公に任じられてたなんて。捕まったら、単なる不法侵入じゃ済みません。王家に対する反逆と見なされたら、俺達の家にも手が入ります。と言うか、おそらくそれが殿下の狙いですよ。あの女魔導士、たぶん隊長の伯母上の仲間でしょう。あの・・マルゴだかマルグリットだかいう魔女の婆さん」
「ちびちゃんよ、もーちぃと噛み砕いて言えよ。俺を馬鹿にしてるよーに聞こえるぞ」
「アルノー。あの魔法使い、女なのか?言われてみりゃ、腰幅が・・お、頭巾の下は金髪か?」
「んなどーでもいいところに食いつかんで下さいエロ隊長!俺が言いたいのは、またあんたの家が王家とごたごたしてるんじゃないかってことですよ!ビルキース家のマルゴ婆さんがユーンと蜜月状態なら王家も必死ってことですよ!王太子殿下の狙いはあんたなんじゃないかってことですよ!大体クロディーヌだって、」
「ちびちゃん、頭いいな。実は性格悪いだろ」
「お前は黙ってろゴリラ女!」
「言いたいことは分かるんだがアルノーよ、お前、ブティエ家はどうなんだよ?」
「だーかーらー、まずいと言っとるんでしょーが!!・・親父や祖父なんかどうでもいいですけど、お袋やジャンヌに迷惑はかけたくないですよ。そういうことだから対策考えろって言ってるんですよ!分かりましたかバカ隊長!?」
「ほぉ。で、どうするアントニア?」
「どうするちびちゃん?」
「駄目だこの人達!」
「しかし、すげぇな、王子様。無茶苦茶速いぞ」
「だからそれ危ねっ!・・・うわ、すげっ。あの体制で、うわ。さっきから光ってるあれ、何だあれ?」
「何だアルノー。お前もか」
三人揃ってずっと間抜け面を上に向けていたことに気がついて、クレイは苦笑した。
「あー、駄目だなあいつら。遅過ぎるだろ。あれじゃあ俺のステファンでも、」
と、批評を始めたところで、空を自在に飛び回っていた王太子の翼馬が突然降下を始めた。アルノーとアントニアが歓声を上げて手に汗握る横で、クレイは最大の悪寒に襲われた。
「二人とも伏せろ!」
クレイに頭を押さえつけられ、アルノーがまたしても雪に埋まる。
「ラ・カ・ソーン・ゾーラ!」
目と口を閉じて蹲る三人の肌を、圧力を持つ熱風がちりちりと焼いた。
炙られて溶けた雪が滑り始め、三人は縺れ合って転んだが、不幸中の幸いと言うべきか、軒のように張り出した岩棚の上からは、もうほとんど落ちるものがなかった。